それを聞いて、私はハッとした。今まで、私は『マンションを買う』イコール『そこにずっと住み続ける』という固定観念を持っていた。マイホームは一生に1度の買い物だと無意識に思い込んでいたのだ。
 けれど、人気があってプレミアが付くような地域では、資産価値が落ちないから転売する、もしくは別の誰かに貸して不動産収入を得る選択肢もあるのだ。
 これはもしかしたら、水谷様にご紹介したらいいのではないだろうか。私はすぐにそう考えが至った。

「桜木さん、ありがとうございます」
「ん? 何が?? 藤堂さんこそ付き合ってくれてありがとうね」

 桜木さんはすっとぼけたようににこっと笑ってそう言った。この人、本当に仕事が出来るなぁ、と感心してしまう。物件を出る間際、桜木さんは腕時計で時間を確認した。

「もう5時過ぎだ。ってことで、帰社するのもなんだし、よかったらもう1カ所付き合ってよ」
「もう1カ所??」
「うん。いつも電車から見えて、1度の行ってみたかったんだ。あんまり女の人は居ないかもしれないけど、きっと藤堂さんは食いつく気がする」

 桜木さんがニヤッと笑う。いつも電車から見えて行きたかったとは、一体どこなのだろう。あんまり女の人向けじゃない? 私は食いつく?? さっぱり見当が付かなかった。 

 迷いなく歩く桜木さんの横にくっついて市ヶ谷駅に向かった私は、その光景を見て思わず歓声を上げた。そこには私の予想すらしなかった施設があったのだ。

「桜木さん! 釣りだよ、釣り! 釣りしてる!!」
「うん、釣りだね」

 興奮する私を見て、桜木さんはにこにこして頷いた。
 なんと、市ヶ谷駅のすぐ脇を流れる川に釣り堀があったのだ。道路から見下ろすと、線路の脇を流れる川に四角い釣り堀があり、沢山の人が釣り糸を垂らしている。近所に住んでいるのか普段着姿のおじちゃんから、サラリーマン風の人、はたまたデート中のカップル達が皆竿を持ち、太公望と化していたのだ。

「私、釣りしたことないです。やりたい!」
「やっぱそう言うと思った。俺も初めて」と、桜木さんが笑う。

 受付でお金を払うと釣竿と練り餌というタイプの魚の餌を渡された。基本的に時間制であることや、様々な注意事項の説明を受けて、私達は釣り堀のエリアへと入場した。
 
 私は早速、瓶ビールを入れる黄色いケースを逆さにしたような椅子に座った。受付で渡された練り餌を指で丸めて釣り針に刺すとそれを見よう見まねで釣り堀に垂らした。背後には中央線が時々走り、こんな都会で釣りとはなんとも不思議な感覚だ。季節柄、少しだけ涼しい、爽やかな風が頬を撫でた。

 わくわくしながら待つことしばし。ぷかりぷかりと浮く浮きにを見守った。しかし、待てど暮らせど引きがない。私は恐る恐る、釣竿を上げてみた。

「あれ? 餌がない」

 いつの間にか私の餌は無くなっていた。魚に食べられたのか、水で溶けたのかは謎だ。気を取り直してもう一度餌を付け、釣り堀に垂らす。やっぱり釣れない。

「釣れませんね……」
「魚、いないんじゃないか??」
「いや、あの人とかさっきからめっちゃ釣ってます」

 私と同じく全く釣れずに口を尖らせる桜木さんは、魚がいないのではと主張しだした。いや、釣り堀で魚がいないのは有り得ないでしょうに。現に、釣り堀を挟んで対岸にいるおじさんはさっきから何回も釣っているのだ。

「うーん。きっと場所が悪いんだ。あっちに行ってくる」

 桜木さんは痺れを切らしたようで釣りの達人のおじさんの隣に陣取った。それでもやっぱりお魚さんは引っ掛かってはくれなかった。

「くっそ! 絶対に次は釣る」

 帰り道、桜木さんはずっと悔しがっていた。1匹も釣れなかった事がよっぽどお気に召さなかったようだ。竿がいけなかったのかもとか、餌を生き餌にすればいけるかもとか、ずっとぶつくさぼやいていた。かく言う私も1匹も釣れなかったけどね。でも、何よりも、ふて腐れる桜木さんがなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。

「ふふっ」
「どうしたの?」

 桜木さんが不思議そうにこちらを見て首をかしげる。

「いえ。桜木さんってすごい負けず嫌いだなぁと思って。意外と子どもっぽいところもあるんですね」
「え?」

 桜木さんは目をぱちくりとしたあと、バツが悪そうに首の後ろに片手を当てた。よく見るとほんのり耳が赤い。
 なんか、可愛いなぁと思って私は口元を綻ばせた。

 魚は釣れなかったけど、桜木さんの意外な一面が垣間見られたので、私にとってはとても楽しい時間だった。