桜木さんは何も言えずに固まる私に近づき、にこりと微笑んだ。

「待たせてごめんね。帰ろっか」

 右手首を取られ、連れ出される。突然現れた第三者に、後輩も英二も真理子もあっけにとられていた。もちろん、私も。

「え? お前もう新しい男がいるの?」

 小さく呟く英二を桜木さんは一睨みすると、私の手首をひいたまま、無言でスタスタと歩き始めた。

「さ、桜木さん」

 呼びかけても桜木さんは立ち止まらない。力強く握られた手に引かれるがままに、私は桜木さんの後を追った。
 どれくらい歩いただろう。多分、時間にしたら5分もない。けれど、それは私にとって、とてつもなく長い時間に感じた。

「桜木さん!」

 何回目かの呼びかけでやっとこちらを振り向いた桜木さんは、ようやく私の手首を離した。ものすごく不機嫌そうな顔をしている。

「ごめん。痛かった?」
「いえ……、大丈夫です」

 私は無意識に自分の手首を触っていたけれど、特に痛みは無かった。桜木さんは「そっか」と呟いた。

「余計なお世話だったかもしれない」
「いえ……、助かりました。ありがとうございます」

 桜木さんの言葉を聞き、私は咄嗟に俯いた。どこから聞いていたかは分からないけれど、きっと桜木さんは私とあの人達の会話を聞いていたんだ。私はぐっと唇を噛み締めた。

「お見苦しいところをお目にかけました。英二は……元カレは前の会社の同僚で、後輩に寝取られるみたいな形で振られちゃって……」
「うん」
「私、バカなんです。腹いせに仕事を辞めたんです」
「腹いせ……」
「それで、イマディールに入社して……」

 もう、色々と言葉にならなかった。本当に、私は大バカだ。抑えていたものが溢れ出て、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。桜木さんは辛抱強く、話を聞いてくれた。またしても、沈黙が私達を包んだ。

「何があったのか、俺は当事者じゃないから完全には分からないけど……」

 桜木さんは固い声でそう言って、眉を寄せた。

「でも、あれは無いだろ。あの言い方は、同じ男としてどうかと思う。それに、隣にいたあの子も、失礼だし……。だから、うーん……、うまく言えないけど、彼とは別れて正解だと思うよ。少なくとも、先ほどの彼からは微塵も誠意が感じられなかった」
「はい……」

 返事をする私の涙は止まらない。次から次へと止めどなく涙が溢れ出てきた。桜木さんはそんな私を見下ろして、困ったような顔をした。

「ごめんね。藤堂さんにとっては好きな男なのに、ひどいこと言って」

 私は咄嗟に首をぶんぶんと振った。
 英二を好きという気持ちは既に無い。多分、引っ越しでマグカップを捨てたときに、僅かに残っていた恋心も全部捨てた。

 今私が泣いているのは、あんな人を2年以上も本気で好きで、しかも仕事を辞めてまで繋ぎ止めようとした自分の愚かさが情けなくなったから。それに、私のために桜木さんが怒ってくれて、嬉しかったから。
 ずっと、自分の魅力が無いから、とか、自分が悪かったから振られたって自分を責めていた。だから、『別れて正解』と言って貰えて、凄く気持ちが救われた。