「あれ? 鍵はささないんですか?」

 いつの間にロックを解除したのかと不思議に思って桜木さんに聞くと、桜木さんは手に持っていた鍵を私に差し出した。鍵は、持ち手の部分に丸っこく黒い物が付いていた。

「このマンション、築20年の大規模修繕で色々直してるんだ。流石に完全ハンズフリーでは無いけれど、タッチ式に変わってる」
「へえ、凄い!」

 完全ハンズフリーとは、最近の新築高級マンションに多い、鍵を持っているだけで自動認識してオートロックが開くというもの。このマンションの場合は、タッチ式キーをオートロックの隣のセンサーにかざすタイプだ。

「部屋が403号室。行こう」
「はい!」

 歩き始めた桜木さんを慌てて追いかける。目的の部屋の前に着くと、ドアに鍵を挿し、カチャリとした。ドアマンのように桜木さんがドアを開けて、片手で中をさした。

「わあ、凄い!」

 中に入った時、私は思わず感嘆の声を上げた。玄関の床は大理石調の石タイル貼りで、フローリングは最近の流行りである太めのウォールナッツカラー。壁紙は白系なのだけど少しだけ色味がある。ドアを開けて一歩足を踏み入れれば、中は新築さながらだ。照明はダウンライトで、玄関の壁の一部にはアクセントの内装壁タイルが使用されていた。
 玄関から入ってすぐのところにあるお風呂は、この手の間取りに多いトイレとくっついたユニットタイプでは無く、有難いことに洗面所と風呂とトイレが別だ。そのお風呂も木目調のウォールで、シックな雰囲気だった。トイレも床が大理石調のタイル貼りになっていて、まるでオシャレなレストランのトイレのようだ。
 極めつけがキッチン。1Rには珍しい2口コンロで、しかもガラストップだった。料理も掃除もしやすそう。部屋には大容量のクローゼットもついていた。

「なんか、想像と全然違います! 凄い!!」
「そう言ってもらえてよかった。ここのリノベーション、俺が担当したんだ。元々はよくあるタイプの1Kだったのを、壁を崩して1Rに変えた。廊下をなくしたお陰で、部屋の広さを維持したまま風呂とトイレを別にするスペースを確保したんだ」

 私の反応を見た桜木さんは嬉しそうにはにかんだ。
 私は本当にびっくりした。リノベーションは物件の価値を高める。その言葉がしっくりとくる。
 その空間は、とても24年の月日を経たものには見えなく、今その瞬間に、その部屋の主を待つために生まれた空間かのように感じた。

「部屋の向きは東南だから、陽当たりもいい。景色はちょっとかぶるけど」

 桜木さんが紙のカーテンをあける。窓からは眩しい光が差し込み、壁紙を白く染めた。
 私はその大きな窓に近づくと、外を覗いた。洗濯ポールを立てるためのフックがついたベランダの向こうには、片側一車線の道路が見える。その向かいには背の高いマンションが建っており、視界を遮っていた。

「確かに被ってますね。でも、それなりに広い道路を挟んでいるから、そこまで気になりません」

 前の道路は片側一車線だけれども、歩道もそれなりに広い。景色は被っていたけれど、それほど問題には感じなかった。

 その後、私と桜木さんはバスに乗って恵比寿駅に向かった。物件からバス停は徒歩5分位。バスも5分に1本程度は来るようだ。

「駅は遠いですけど、確かにバスが沢山あるから不便では無さそうですね」
「でしょ? あそこ、お勧めだよ」

 バスに乗って流れる外の景色を眺めていた桜木さんは、私の顔を見下ろすとニヤッと笑った。バスに乗っていた時間は5分ちょっとだったと思う。
 恵比寿駅から日比谷線に乗った私達は、まず1駅移動して中目黒の物件を見に行き、次に中目黒駅から東急東横線に乗ってもう1駅隣の祐天寺駅に向かった。どちらも内装は新築のようにピカピカで、築10年以上の物件にはとても見えなかった。けれど、いわゆる普通の独身向けマンションとして無難にまとまってる感じがして、最初の物件ほどの感動はなかった。

 オフィスに戻ると、朝飛び出していった尾根川さんが戻ってきていた。

「藤堂さん、朝はバタバタしちゃってごめんね。桜木さんと回って、気に入った物件あった?」

 尾根川さんは私を見つけると、申し訳なさそうに眉じりを下げた。私は大丈夫だから気にしないで欲しいと伝え、1番気に入った最初の物件の案内を差し出した。

「私、ここにしようかと思います」

 尾根川さんはそれを受け取って目を通すと、片手をおでこに当てた。

「あー、ここかー。やっぱり!」
「やっぱり?」

 私は首をかしげる。尾根川さんから物件案内を受け取った綾乃さんもそれを見て、「あ、やっぱり!」と言った。何がやっぱりなのだろう。

「桜木って凄いのよ。桜木の案内で桜木の手掛けた物件見た人って、かなりの高確率でそこに決めるの。藤堂さんもかー」

 案内を見つめながら、綾乃さんは口を尖らせる。私は驚いて桜木さんを見た。

「藤堂さま。この度はご契約、誠にありがとうございます」

 私と目が合った桜木さんは器用に片眉を上げると、楽しそうに笑った。