桜木さんがちょっぴりいたずらっ子のような笑みを浮かべる。言われてみれば、出されたコーヒーからは芳ばしい香りが立ち、昨日教えられた給湯室のインスタントコーヒーとは明らかに違う。一口飲むと口の中にコーヒー独特の酸味と苦味が広がった。

「イマディールリアルエステートへようこそ。物件をご案内する前に、いくつか確認させていただいてもよろしいですか」
「はい。お願いします」

 桜木さんは早速接客モードに入った。私もピンと背筋を伸ばす。今まで接客する側で毎日こういうやり取りをしていたのに、いざ久しぶりにお客様側になるとちょっと緊張した。桜木さんは私の記入したアンケート用紙を確認しながら、こちらを見た。

「独り暮らし用の物件をお探しで、ご希望の間取りは1Kか1Rでよろしいですね?」
「はい」
「畏まりました」

 桜木さんはタブレット端末を操作しながら、私に質問を重ねる。

「希望のエリアや駅が空欄ですが、どこかご希望はございますか?」
「えっと、特にないですけど、広尾駅の近くにあるオフィスに通勤時間30分位で行けるところがいいです」
「希望の沿線もないですか?」
「無いですけど、乗り換えが少ない方が有難いです」
「最寄りはバスでも構いませんか?」
「構いません」

 桜木さんがタブレット端末に何かを入力しながら、顎に手を当てた。私の希望が非常に曖昧なので、どの場所を勧めるかあたりを付けているのかも知れない。

「桜木さん、喋りは普通で大丈夫です」

 私はこそっと小さな声で桜木さんに告げた。
 先輩社員に敬語で喋られるのはちょっとやりにくい。ここは砕けた喋り方でも、実際に自分が対応するときはきちんとできる自信はある。5年間も不動産屋さんの窓口をしていたのだから。

「そう? 失礼ですが、ご予算はありますか?」
「はい。5万円位だと助かります」
「5万円……。家賃補助前で10万円ってことでいいかな?」

 苦笑気味の桜木さんを見て、私も苦笑いした。流石に5万円で借りれる物件は、ここにはないらしい。

「はい。家賃補助前で10万円で」
「うーん。最寄り駅には全く希望が無いんだよね?」
「はい。ないです」

 桜木さんの眉間に僅かに皺が寄る。こんな曖昧な要望のお客様はそうそう居ないのだろう。たしかに、私が窓口で対応してきたお客様も、大抵は最寄駅かエリア位は決めていた。