しかし、浮足立つ感情とは異なり、すぐさま切ろうと躍動した指が、相手の悲鳴によって中断した。まだ、なんかあんのかい⁉

『ちょっと待って~‼』

「……なんだよ」

『なんだよじゃないって』

「いや、今ので終わりじゃないの」

『今のは要件ついでの個人的な相談だから・・・・・・』

 いや、今の絶対お前のメインの話だったろう。というか、大声出すなよ。頭に響くから!!

『いや~、実はここからが本番なんだよね。だから電話は切らないでね』

「本番ってどういうことだよ」

『長話ももう終わりにしたいし、単刀直入に言うね』

「……さいですか」

 いや、長話になってるのはお前のせいだろう。
黄一の台詞にツッコミの言葉が喉元(のどもと)まで出かかるが、事態をさらにややこしくしそうなので、出る寸前で飲み込んだ。

『実はね、秀ちゃんに白井名人のお嬢さんの世話役になって欲しいんだ』

「ほぇっ⁉」

 何かすごく大事な事を言っていたような気がする。それまで緩みに緩んだ気持ちで聞いてたせいか、黄一の発した内容が全く入って来なかった。
 秀一は辛(かろ)うじて、聞き取れた単語を並べて聞き返す。

「待て‼ 今、白井名人がどうとかって言ったか」

『うん。言ったよ~。なんだったら、もう一度言おうか』

「頼む。もう一度、話してくれ」

 黄一が内容を再度反復してくれる。秀一はそれを一字一句聞き漏らさんと、耳を逆立てる。

『うん。じゃあ、もう一度。秀ちゃんに白井名人の長女の世話係になってほしいんだ』

「はあっ‼」

 内容を理解した秀一に待っていたのは純粋な驚き。そのせいか、無意識に驚愕の単語が漏れていた。
 待て待て待て‼ 白井名人っていえばあれだよな。絶対、名字だけが一緒な奴って落ちだったら……って名人までついてそれはないか。あはは……。俺的にはそれが絶対的に好ましいな。ははは、はあー。

『予想通りの反応だね。まあ、戸惑うのも無理はないよね。だって、あの白井名人だもんね』

「分かってるなら、そうなった経緯をさっさと説明しろ‼」

『あはは……。まあ、落ち着いてよ。これは僕の方に回ってきた話なんだけど、僕はその任を秀ちゃんに任せたいな~なんて思ったんだよ』

「いや、待て‼ ななっなんで、俺なんだよ⁉ ほっ他にも適任者はいたはずだろ」

『それがねぇ~。さっぱりなんだよね』

 電話越しながら、相手が両手を開いて首を振る姿が容易に想像できた。

『やっぱり、相手があの天下の白井家のご息女(そくじょ)だけに、みんな腰が引けちゃってるみたい』

「もしかして、それでみんなで擦(なす)り付け合いが行われた感じだったり?」

 なるほどな……。白井家と聞けば引き目を感じるのが普通だろう。何たって、あの白井家だからな。現在の将棋界の最大派閥にして将棋界最強の家柄。その研究会(さんか)に属している者はプロ棋士で約40人近く、奨励会員を含めるとゆうに100人は超えるだろう。

『まあ、言い方を悪く言えばそういう事なのかな』

「……で、前に戻るがなんで俺なんだ」

『だからさあ~、全てにおいて秀ちゃんが適任だからさ。実はその娘さんなんだけど、秀ちゃんと同じで、今不登校気味なんだよ』

 誰が不登校だ。というか、ニートと不登校ならまだ、不登校の方が立場上、上だと思うんだが……。自らの地位が低いことは当事者が一番よく理解しております。ええ……まあ、毎回ひどく落ち込む事実ですが……。

『それで、胸中(きょうちゅう)が似ている秀ちゃんなら、彼女を助けられると思ったんだけど……。それにこれは秀ちゃんにとっても大きく前進するチャンスだと思うんだよ』

 急に重い話になって来た。もろ俺に対しては肩身の狭い話である。とりあえず、黙るしかないな。

『秀ちゃんはさ、このままでいいとか本当に思っているの』

「……」

『僕はさ、人が傷つけたくないけど、傷つけてでも言わないといけない時はあると最近思ったんだ。ごめんね。本当にごめんね。僕はね、親友として秀ちゃんを助けたいだけなんだ。だからさ、秀ちゃん……お願いだからそこから抜け出してよ』

「……」

 電話の途中から嗚咽(おえつ)混じりの声が聞こえ出した。秀一はその一言一言を聞くたびに、心に耐えがたい痛みを感じた。

 正論すぎる……核心を突きすぎた正論だ。言い返せるもんなら言い返したい。だけど、今の俺にこれを崩せる正論がないのが悔しい。ほんと、異論の余地はねぇな。完璧なきまでに論(ろん)破(ぱ)されて何も言えない。なんて無様なんだろうな。ちくしょう。あの小心者の黄一に諭(さと)されるとか、俺の衰退も甚(はなは)だしい。あーもー、悔しすぎて涙が出てくるぞ~。

 どこから出てきたのか分からない出所不明の劣等感が全身を支配する。もうこうなると、必然的に口が開かなくなり何一つ言葉が出せなかった。
 しばらく黄一の説得を黙って聞いていると、次第に受話器の向こう側が暗くなって行くのを感じた。

『……ごめん。こんなに言いすぎるつもりなかったんだ。秀ちゃんが黙っちゃったのは僕のせいだよね。本当にごめん。これは流石に言いすぎだよね。秀ちゃんを追い込んじゃったかなー。どうしよう‼ それで秀ちゃんが首をつっちゃったら、僕は僕は……』

 急に黄一が謝り始めた。後から伝わってくる言葉に泣き声が混じる。それに対して慌てさせられるのは無論こっち。

 攻めることに慣れていない心優しい黄一らしいと言えばらしいのだが、これは間接的に見ると、俺が泣かしたように見える。自爆ってのが一番しっくり来るのだろうけど、でも黄一は俺の未来のために諌(いさ)めてくれているわけだし、だとすると、そこで泣かせた俺はどうなのだろう。何だか、とてもいたたまれない気持ちなんだけど……。何故、謝られる必要がない人が謝る。ああーもう。肯定してやらないと俺の方が心苦しくなって来るな。

「いいよ。久しぶりに他人に叱ってもらってせいせいしたくらいだからさ」

『えっ‼ そうなんだ。てっきり、嫌われたかと』

「いや、今の展開で俺が嫌う場面は流石にねぇーだろう」

『じゃあ、引き受けてくれるの?』

 相手が明るい調子で問いかけてくる言葉に秀一は喉まで出かかった肯定の返事を寸前で躊躇(ためら)った。

 この流れなら、承諾すべきなんだろう。また泣かれるのも嫌だし、さっきの言葉には反論の余地もない。ただ、それでもすぐに頷けない。承諾したらこの生活をほぼ間違いなく捨てることになるだろうから……。

 秀一は部屋全体をぼんやりと見渡した。いつもとまったく変わらない部屋。しかし、こういう場面では急に名残惜しく感じてしまうもので……。でもそれではダメなんだ。一歩を踏み出さないとな。

 一端、目を閉じて頭に残る未練や執着などの感情を追い出す。
 ふうーっと息を吐く。
 全てが終わり、決心が着いた所で、意を決して口を開いた。

「分かった」

『承知してくれるの⁉』

 ほっとしたような、安心したような声が耳元に聞こえた。

「いいよ。俺の完敗だからな」

 勝手に口からため息が出た。決心はついたが、気分的には大分滅入っているようだ。

『よかった~。返事を拒否されたらどうしようかと思ったよ』

 電話の向こうで、安堵のため息を零(こぼ)す音が聞こえる。そこでふと今まで気にならなかった疑問が突然湧いて来た。

「ちょっと、聞いてもいいか?」

『えっと、何?』

「俺は確かに彼女の気持ちを共感できるかもしれないが、今聞いた話からすればその世話係はプロ棋士が採用基準じゃないのか。こんな見ず知らず俺じゃあ、マズいんじゃないのか」

『なるほどね、確かにその懸念はあるね。だけど秀ちゃんはもっと自分に対して自信を持った方がいいよ』

「あれっ? お前に俺のこと話したっけ」

 俺の状況は話したが、ネットでの近況は知らないはずだ。

『ううん、してないけど……』

「じゃあ、なんで……」

『実は僕の知り合いのプロ棋士にネット将棋をやっている人がいてね。その人からネット界で最強と言われているプレーヤーがいるって訊いたんだ』

「それがどうしたんだよ。それだけじゃ、俺だって確証はないだろう」

『まあ、急かさないでよ。それで、ほら……僕ってネットに疎いじゃん』

「そうだな。昔、パソコンを弄らせただけでデーターが全部消えたってことがあったな」

『一応、言っておくけど。今は昔より前進したからね。……で、その情報を聞いたのが、2日前。そして、ようやくその機会に巡り合えたわけ』

「まさか……‼」

 秀一は無性に嫌な予感がした。そして、それは外れるなら、どんな低確率でも外れてほしいと願った。でも、現実は残酷だ。


『僕のアカウント名って、《イエロー》って言うん……』



「ハア―――――――――――――――――ッ」



 相手の言葉が最後まで語られる前に、発せられた2文字の言葉がそれを遮(さえぎ)った。様々な感情をより具体的に表した2文字の万能平仮名である。

『いやー、最初は多少、戦法とか変えていたから分かんなかったけど、指しているうちにこれは秀ちゃんだと確信したよ』

「あははは……。それは良かったですね。よう~ございましたね。やばぇ、俺はいつの間にか、現役の棋聖さんを負かしていたよ。これは夢なのか、夢だったら悪夢だ」

『なんで、そんなに自虐的なんだよ。少しは勝った事実を誇るとかしたら? まあ、実戦では負けないけどね‼」

「いや、これは笑うしかないだろ。おいおい、なんでプロに平手で勝利してんだ、俺。しかも、よりによってタイトル保持者だし。あーもー、俺の人生終わりだー」


 プロ棋士に勝ったことが世間に知られる→それによって、俺の過去の情報も流出→世間はさらに俺のことで大騒ぎになる→強制的に記者会見→黄一以外の人に耐性のない俺は記者会見で大いに失敗する→俺の評判はガタ落ち→社会から抹殺される→DEAD END‼


『だから、なんで喜ばないんだよ……って、ええっ‼ なんで勝利した事実で秀ちゃんの人生が終わるの』

「ああ、おしまいだ~。これじゃあ、俺は大目立ちだ。人目を避けて一生過ごそうと思っていたのに……破滅だぁあぁぁあぁ」

『落ち着いてよ。相変わらず、意味が分かんないよ。人見知りな性格だってことは知ってるけど、なんで、そこまでっ‼」

「あっ当たり前だろ。お、俺は世間に出るのが嫌なんだ。そうじゃなかったらニートなんかなってない」

『それは完全に胸を張って答えることじゃないよね!?』

 その後色々と文句を言ってみたが、まったく取り合ってくれなかった。

『ああ、もうその話はいいよ。……ふうーっ、じゃあ、取り敢えず僕は見解だけは伝えておくね』

「そんな事言わないでもっと聞いてくれよ。お前の話だって聞いたんだからさ」

『僕は秀ちゃんに効きそうな特効薬を提示しているだけなんだよ。僕はね、やっぱりニート病を治すには外に出て、人との関わり合いを持つことが大切だと思うんだ。だから、これを良い機会にしてほしいな』

「そんな殺生な」

『一度慣れてしまえば、きっと外の世界は素晴らしいってことに気づけるはずだよ。強い秀ちゃんなら、できる‼』

「ちょっと待てーて。いや、だからって外はマズいんだって。ほら、外には人がたくさんいて視線刺さりまくるじゃんよ」

『そうだけど、それが何なの?』

「だからそれが大問題なんだって」

『思慮深い秀ちゃんのことだから、じゃあ逆に聞くけど…………、そういうことも折込み済みで承知してくれたんだと僕は思ったんだけど』

「それは……」

 今更ながら、自分の考えの甘さを苦々しく思う。

『だからね。この依頼を完遂してニートを卒業してね』

「ちょっと待ったー。それは俺に地獄を味わえって言うのか。親友を見捨てる気か」

『そこまで言ったつもりはないけど、でも僕は秀ちゃんならできると思っているから』

「だから、それが無慈悲なんだよ。その余計なお世話がどれだけ人様を苦しめていると思ってんだ」

『苦しめてるんだったら、ごめん。でも、時には痛みを伴う調きょ……調整は必要だってある人から訊いたから。今の僕はそれを信じる』

「何、勝手にまとめてんだよ。というか、それを教えたある人って誰だよ」

『じゃあ、2日後の10時に千駄ヶ谷の将棋会館前で待ってるから』

「あっ、ちょ」

 こっちの反論には耳も傾けないで、相手の携帯が切れる音だけ虚しく響き渡る。

「勝手に切りやがって。なんなんだよ、あいつ」

 舌打ちをしながら、勝手に切られた不満を呟いた。なんであんなにあいつは急いで切ったんだ。
 秀一はその疑問に首を傾げるが、その直後にヒドい眠気がやって来たため、その思考を一端後回しにする。
 開いたままだったパソコンをシャットダウンすると、携帯をベットに投げ、秀一自身もベットへとダイブする。

 ドスゥ~という衝撃音と共にベットに着地した。天井を見ながら、ふと、秀一はある点が気になった。二日後の10時って、午後の10時ことだよな。じゃないと、昼間なんていうあの悪環境下を移動しなくちゃいけなくなる。
 その時、再び携帯の着信音が聞こえた。今度は『白井九段の勝利⑥』であるから、メールの方だ。
 秀一はベットに転がる携帯を取るとメールを見た。新着のメールが一つ入っていた。黄一からだ。



【From:矢崎黄一
 〔一応、もう忘れてるかもしれないから、もう一度確認。
    千駄ヶ谷の将棋会館前で2日後の午前10時に待ち合わせだよ〕 】



 ――10時って、午前中? ってことは真昼間‼ 


 突然の衝撃が全身を貫いた。そして、次にやって来るのは恐怖心。



「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」



 秀一は事態の深刻さに思わず絶叫した。せめてもう少しだけでも考えれば良かった。俺はなんてバカなんだ。近所迷惑とか、今はもうどうでもいい。今は俺の保身を考えなければ。
 今頃、笑っているであろう黄一の顔が思い浮かんだ。



「黄一ぃぃぃぃぃぃぃっっっっ‼ 謀ったなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」