「アカウント名は少し仮眠を取ってから考えるかな……」

 今日も一日が終わるようだ。いや、今日じゃないな。一昨日だったな。まぁ、そんなのどうでもいいな。



『詰み‼ 勝負あり』



 眠気で意識が飛ぶ寸前、誰かの掛け声のような音が部屋に響いた。それが一度だけでなく、何度も繰り返される。

「……電話か」

 眠たい眼(まなこ)を擦りながら、ぼやけた視界で机の上をまさぐった。
 その間は着ボイスが鳴り続ける。『白井九段の勝利⑧』とかいうタイトルの着ボイスだ。
 将棋界のレジェンドの声を久方ぶりに聞き、少し眠気が覚める。
使い慣れた折り畳み式の携帯を掴(つか)んだ感触を伝わると、そのまま携帯を耳に押し付けた。

「どちら様でしょうか?」

 説明不要なほどに、不機嫌な声で答えてやった。殆(ほとん)どの奴は切るだろうと思っていたが、電話主は意外な反応を返してきた。


『グッモーニング‼』


 明るくゆったりとした声が大音量で電話から聞こえてきた。あまりの唐突(とうとつ)さに不覚ながら、驚き声を出てしまった。

「えっと、何? 誰?」

『ひどいなぁ~。忘れちゃったの? 秀(しゅう)ちゃん』

「はぁ~⁉ 妙に馴れ馴れしい奴だな。ってか、秀ちゃんって……。こんなこと言うのって一人くらい…………って……」

 一度携帯を耳から離すと、慌てて携帯画面を見た。個人的に外れていてほしかったが、推測通り名前欄(らん)には『矢島(やじま)黄一(きいち)』の名前があった。

「黄一(きいち)か……」

『正解‼ 覚えてくれていてよかったよ』

「ああ、まあ……忘れるわけはないな」

『驚いたでしょう。どお、元気だった?』

「いきなり、なんだよ。てか、大声出すな。心臓に悪いから止めてくれぇ~」

『あはは……。やっぱり早朝なのにそのテンションは変わらないねぇ。僕はとっても眠いのに……』

「……ほんと何の用だ。冷やかし半分に皮肉を言いに来たなら、今すぐ切るぞ。俺も同じく眠いからな」

 さっきまで、冴(さ)えに冴(さ)えまくっていたはずなのだが、黄一のゆったりとした美声のせいで、急に瞼が重くなってきた。この催眠(さいみん)ボイスなんとかしろや。

『ま~あ~、ま~あ~。そんな焦んないでよ。どこの国でも朝はゆったりするもんだよ』

「お前に関しては今に始まったことじゃないだろ」

 こいつはよくつるんでいた奨励会時代からそうだった。このゆったりとした話声。そして、携帯越しにあると思われる整ったすまし顔。この二つがそろったら、俺は迷わずそいつが黄一だと断定する。

『それにしても、秀ちゃんと話すと昔を思い出すなあ』

「そうですか、そうですか。へいへい……」

『あれ、さっきまで口調変わったよ。調子悪いの』

「いや~、ははは……。俺はいつも通りだよ。この通り、二徹(にてつ)でもピンピンしてますから」

『二徹……‼ それってもう人外じゃないの⁉』

「失敬(しっけい)な。俺は人間だぞ。ちなみにギネスでは八徹ちょいだから、まだそういう意味でも人間だ」

『へ~、そうなんだ。いや、でも心配だよー‼ 他に食生活とか大丈夫……?』


 あんたは俺のお母さんか……。
 相手の必要以上の心配に対してそう思いながら、ふと秀一は気づく。

 ――相手の勢いに任せて、いつの間にか乗せられているじゃんか。

 やべー。いつもと同じだ。いつもあいつのペースに流されて失敗してるってのに、また同じ展開になりつつある。まずい。
 とにかく、これ以上は漫才(まんざい)続けるつもりはないぞ。早く核心に触れた話題に変えないと。


「……で、用件はなんだよ。というか、なんで電話したんだ。今……お前、忙しいはずだろ」

『えっー、急にそっちに振る? もう少しトークを楽しもうよ』

「いや、自慢じゃないが俺と話す話題なんて皆無だろ」

 そうこっちが言うと、黄一は押し黙った。
 一応補足するが、黄一は俺の状況を知っている。しかし、それを指摘して来ないのは彼が心優しい性格の持ち主だからだろう。話し方からも分かるように、黄一は誰に対しても気遣う傾向にある。相手が嫌なことを頻(しき)りに嫌うのだ。
 まあ、昔そのせいで殆ど人と話すこともできなかったみたいだったらしいが……。
 とにかく、黄一に関して言えば、この後、俺の突かれたくない弱みには絶対に踏み込んでこないだろう。あいつがそういう性格だから、今の俺でも気軽に話せるんだろうな。しかし、その例外として昔の話をちょくちょく振って来るのはマジで勘弁してほしいといつも思っているのだが……。
 少しの沈黙の後、黄一が話し始めた。


『……。ほんと、秀ちゃんの言う通りなんだけどさあ』

「じゃあ、なんで電話して来たんだよ」

『うん。まあ、なんというか。いくら忙しくても息抜きはしないといけないと思ってね』


 ――息抜きに俺と話すか。

 こんなニートで引き籠もりな俺と話して本当に息抜きになるのかねぇ。
 そもそも、今黄一はタイトルホルダーなんだから、話す相手考えた方がいいぞ。親友がニートなんて、スキャンダルもいいところだろ。
 そんな思いを皮肉に込めて秀一は口を開いた。

「別に俺と話すことなんて何にもないだろう。棋聖(きせい)様は棋聖様らしい、正しい振る舞いを覚えたべきだと思うんだが……」

 電話の向こうで苦笑するのが分かる。
 本当はこんな言葉、親友として、言うのはまずいんだとは思うんだが、つい感情に流されて言ってしまった。
 言葉として出てしまってから非常に後悔した。
 相手が沈黙している間に、必死に謝罪の言葉を考えるが――、しかし、こちらが詫びるよりも先に相手の言葉の方が早かった。受話器越しに意外な言葉が飛んで返ってくる。

『……棋聖か。そうだよね、僕取ったんだよねぇ』

 ただの自嘲(じちょう)だった。

「はぁ‼」

 予想外に、予想外すぎる黄一の言葉に、秀一の方が驚愕(きょうがく)する。そして、すかさず疑問の言葉が口を吐(つ)いて出た。

「なんでだよ」

『いやー、やっぱり僕には実感湧(わ)かないよ。なんて言えばいいのかなぁー』

「あれだけ、取材受けてるのにか」

 これは本音だ。黄一は俺と同い年ながら、俺とは殆ど対極に位置する存在だ。周囲はどう思っているかは知らないが、少なくとも俺はそう信じている。
 自分で言うのもなんだが、俺は目つきが相当悪い。全体的にブサイクとまではいかないが、どんなにいいパーツがあっても自分の目つきの悪さが全てを帳消しにしているように思う。そんな残念な俺とは違い、黄一はかなりの際立った容姿をしている。少なくとも俺の知る限りでは一番だ。将棋という道でなければ、俳優をやっていたかもしれない。社会交流の乏しい俺が言っても説得力はないと思うが、確か、将棋界の情報誌『週刊将棋』の見出しが〈将棋界の新参者貴公子が初タイトル獲得〉だったので世間的見解も同じだと思う。
 そんな将棋界では燦然(さんぜん)と輝く甘いマスクさんの黄一は連日連夜、マスコミに引っ張りだこだ。もともと、四段に昇段(しょうだん)しプロデビューした時から貴公子として注目を浴びていたが、それにタイトル獲得という朗報がさらに拍車(はくしゃ)をかけたらしい。〈美と強さを併せ持つ将棋界のプリンス〉、そんなドラマみたいな見出しを最近見た気がする。

(そこまで、騒がれてタイトルホルダーの自覚なしとか逆に凄いな。お前の気分転換、何してんだよ)

(あっ、俺と会話だったっけ)

(………………)

 しかし、黄一自身はそのことをあまり快く思っていないらしく、かなり投げやりな言葉が返ってきた。

『最近はほぼ毎日取材があるけど、僕にとってはどうでもよく思えちゃって……』

「どういうことだ!」

『僕は単純に強さがほしいんだよ。誰にも負けない強さがね』

「強さなら、タイトル取ったんだから証明されただろう」

 これ以上の強さがあるのか。プロだったら、タイトル獲得が最大の悲願のはず。俺も奨励会の時は……。
 いや、それはもういいんだ。
 しかし、黄一は強めの口調で応じた。

『ねえ、秀ちゃん‼ 棋聖ってどう思う』

 突発的な問いに思考が止まるが、何とかそれらしい答えを引き出すことができた。

「はあ? ……そりゃあ、トーナメントを地道に勝ち進んだ果ての高みだと思うが」

 棋聖戦は強豪のための予選シード権はあっても、システム上の大きな優遇はない。よって地道に勝ち進めば取れなくもないタイトルだ。現にそれをやってのけ、五番番勝負で前年度棋聖を下した奴が電話越しにいる。
 逆に段位の序列が重要になるのが、名人戦だ。名人戦は順位戦のクラスをコンスタントにコツコツと


(フリークラス)→C2→C1→B2→B1→A


 と勝ち上がる必要がある。さらにこれには昇格だけでなく降格もあるため、そう簡単にはA級には昇格できない。そうやって苦労に苦労を重ねてA級に辿り着いたごく少数のプロ棋士が前年度名人への挑戦権争いに絡めるわけだ。
 黄一が秀一の言葉に頷く。

『そうだよね~。僕もそう思うよ。でもね、今の僕は逆にこうとも考えてしまうんだ』

 徐々に黄一の声のトーンが下がっていくのを感じる。

『一度、奪取(だっしゅ)できたところで、それが実力の証明にならないんじゃないかってね』

「……」

 一度言葉を切って間を空けた黄一が感傷的に声を荒らげた。珍しく声を荒らげる親友に秀一はただ、黙るしかない。

『だって、そうじゃないか。将棋界にはもう完全に勢力図が出来ているし、今回倒した波瀬(はせ)九段だって、今期また挑戦者として勝ち上がってきたら、また勝てるかは分からないよ。今回はたまたま、僕が勝てただけで……』

 声が徐々に小さくなっていく。最後の方は殆ど聞き取れなかったが、恐ろしくネガティブな内容であることだけは想像がついた。
 ため息が勝手に出た。電話越しの相手はそれにも気づかずに延々と重たい話を話している。
 ……こうなったら、止(や)むまで待つしかないな。あいつの心配も分からないでもないが……。
 確かに、黄一の言っていることはその通りだ。今の将棋界は熟(じゅく)練(れん)者(しゃ)がずっとそのタイトルに居座る傾向にある。それはまさに勢力図のようなもので、黄一が勝った前棋聖の波瀬九段も例外なくそれである。波瀬九段は黄一に敗れるまで五期連続で棋聖の座についており、さらにその前から数えると、通算7期棋聖の頂点に君臨してる。黄一が奪取するまでは棋聖というタイトル自体が波瀬九段の独壇場で絶対的王者という神格化された言葉まで囁(ささや)かれていたほどだ。


 ――今更ながら、絶対的支配者を倒した黄一ってすごいな。


 そして、肝心なのはここからで、敗れても元タイトルホルダーには優位性が存在する。当たり前だが、前々年度は優勝者なわけだしな。棋聖戦は一次予選・二次予選・決勝トーナメントの三層から構成されているのだが、前々年度優勝者である波瀬九段は決勝トーナメントからの出場になる。既に決勝トーナメントが始まっているが、チラリと見た対局の生中継では昨年の雪辱(せつじょく)に燃える波瀬九段は怒(いか)れる獅子の如く、視聴している観戦者も圧倒させた。その波瀬九段現時点までの負け知らずであり、順当に勝ち進めば今期の挑戦者は波瀬九段に決定するはずである。一度奪取しても来期には奪還されるというのは新人の常だが、黄一のやつ、その日が迫ってきて急に身震いでも起こしたのだろうか。
 よそ見しているうちに黄一の口調も穏やかになっていた。

「ふ~ん」

 取りあえず、返事がてらに相槌(あいづち)を入れてみる。
 それに対して、黄一が殆ど聞こえない等しい掠(かす)れた声で話す。

『だからさあ、運だけで偶然奪取できた僕にはその強さないんだよ。ほんと、秀ちゃんが一緒だったらどんなにいいか……』

 やばいー。相槌の入れ方ミスったか。収束したと思ったのに、また激しくなっているぞ。
 また、感情が息を吹き返し、このままだと相手の嗚咽(おえつ)が聞こえてきそうな雰囲気だ。心で大きなため息を吐くと、秀一はしょうがなく励ます決意をした。

「今の俺に言えたもんじゃないが、少しは自分を褒(ほ)めてやれよ」

『えっ‼』

 いや、そこは驚く場面じゃないだろ。

「ほらさ。お前は勝てたのをまぐれだと思っているかも知れないけど、俺は全然そうは思わなかったぞ。棋聖戦第五局目なんて、絶対そうだろ」

『だって、あれはたまたま詰(つ)み筋(すじ)を発見できただけで……』

 おいおい、どんだけネガティブなんだよ。

「おい、知ってるか。あの長手数(ちょうてすう)の詰みには解説者も驚いてたって話だぞ。少しは自分を誇ってもいいじゃねぇの」

『いやいや、こんな僕が自尊なんて。無理無理無理無理無理無理無理、無理だって』

 なんだ、これ。褒めてるのにそれをバッサリ否定される。ほんと、よく分からんな。これ、どういう状況だ!!

「あーもー、面倒くせぇな。褒め言葉はそのまま受け取っておけって」

『受け取るなんて、そんな』

 秀一は自分の身体に猛烈(もうれつ)な疲れを感じた。


 ――やばい。通話による過労で死にそう。


 あーあー、やばいほど身体がだるい。身体がゴー、トゥー、ベッドって頻りに訴えてきてやがる。こりゃあ、早く終わらせないと本当にやばいかも……。

「ストープ‼ その辺は俺のいない所で、どうぞご勝手にやってろ……。お前の話がそれだけなら、そろそろ俺も限界なんで、このまま切るぞ」

 よし、これで言質(げんち)は取った。すぐにでも切れる準備は完了した。切ったら、すぐにでもゴー、トゥー、ベッド♪