女は名前はおろか自分が生まれた場所すらなぜここにたどり着いたかも覚えていなかった。たしかな事実は、自動車事故が起こり、朦朧とする意識の中で、たどり着いたのが、このカナエの家だったらしい。
 
 大きな荷物を抱えてしまったものだ。

 カナエは警察に言おうとしたが、「それはやめたほうがいい」と女に言われた。それはやめて、ではなく、それはやめたほうがいい、とカナエを案じて放った言葉に聞こえたが、「直感がそう告げるの」と女の天を見上げた表情が妙に艶っぽく魅了されてしまった自分は拭えない。

 それに警察に言うことでカナエにも不都合が生じることだろう。ホテルの一件、ダークなカナエの過去と仕事。問題は表面化し収集はつかなくなり、各方面に迷惑がかかりそうだ。違約金等、多額の金銭が絡むかもしれない。

 やれやれ。

 カナエは蛍光灯の光を見つめた。

 光の先には母がいる気がした。

「蛍光灯の光はね。目に悪いのよ。人はね目で情報を捉えるの。でもね、女性って視力が悪い方が男性からは色っぽく見えるのよ。なんでしょうね。遠くを見つめてアンニュイな雰囲気に見えるのかしらね。色仕掛けは男性には有効よ。さあ、練習しましょう」

 母はピアニストになりたかった。その夢をカナエに託した。練習は常に熱がこもっていた。一音でもミスタッチをすれば叱責と怒号が飛び、ご飯も食べさせてもらえなかった。カナエ自身、ピアノの音が好きだった。音を聞いているだけで、荒ぶる心は落ち着き、モノトーン化した孤独の世界が、鍵盤を叩き音を一音一音紡ぐだけで、カラフルな色合いに変化していった。空や街や家の中や人々の顔に至るまでのモノトーン世界は、ピアノのお陰で、心に温かみをもたらした。たくさんの心の色を楽しんだ。学校ではピアノを弾けるというだけで人気者になった。カナエに自信がつき、家にはない居場所を見つけた気がした。

「どうやったらカナエちゃんみたいにうまくなるかな?」

 友達に質問されてもカナエには明確に答えることができなかった。答えるのは簡単。

 寝る間を惜しんでの練習

 この一文をいえばいい話。

 口ごもるカナエに、「どうしたの?」と友達はいった。カナエの目元から涙が出ていたらしい。

「うまくなるなんて考えない方がいいよ。楽しむのが大事」
 カナエはいった。

「わたしはうまくなれないってことね」

 どうやら友達にとっては嫌味に聞こえたらしい。言葉というのは難しく、捉え方次第で、相手の心情を深く抉り、闇を表出させる。

 カナエの人生の闇はもしかしたらこの瞬間から始まったのかもしれない。

「待って」

 カナエは手を伸ばした。学生にしてはすらりとしすぎた手の先に、友達はもういなかった。

 ジャーン

 ああ、いけない。

 眠っていたらしい。

 大きな音が聞こえた。

 何年、いや何十年も触れないでいた異物の音。

 カナエはソファーの上で寝ていたらしい。辺りを見回し、女がいないことに気づいた。壁時計が目に入り、午前二時だった。一時間ほど眠っていたらしい。冷静に頭の中をフル回転させ現状を推察した。三段冷蔵庫の中断からペットボトルの水を取り出し、一気に飲み干した。寝起きというほどではないが、目覚めは喉が渇いた。喉の渇きを癒し現状を推察した結果、これといった妙案は浮かばなかった。

 音の聞こえた方。

 触れたくない現実にカナエは向かった。

 くぐもった音が聞こえた。音量が近づくにつれ、くぐもった音は滑らかになっていった。フレーズ一つひとつによれはなく、体内にメトロノームが内臓されてるかのように精度が高く安定的なリズムだった。聞くものによっては、そこで休符?なんていう疑問符が脳内で明滅するだろうが、カナエには効果的な一拍に思えた。

 ほら。

 メロディーに勢いが増した。弾き手もカナエと同様に、わくわくするような音楽を時系列に考え、階層的に落とし込み重ねていくことによって、より深く、より安寧的で総合的かつオリジナルな音楽世界を構築できるのだろう。ピアノから数十年近く離れた今でも、クリアにそれが理解できた。

 扉の隙間から光が漏れていた。明るく温かくオレンジ色のような光だった。

 カナエは扉の隙間から覗いた。

 音は止んでいた。

 グランドピアノがあり椅子があった。長い脚が見えた。裸足だ。しっとりと優雅に脚を伸ばしている。カナエは視線を徐々に上げた。

 女はこちらを見ていた。

 射抜くような目で。

 全てを見透かすような目で。

 そして、くしゃっとした風呂上がりのような落ち着いた笑みをカナエに向けた。

「起こしちゃった?」

「大きな音には敏感なの」

「それは古代から人間が狩る側と狩られる側に属していた記憶の名残りね。あな
ただけではないわ。みんなそうなの。音によって危機を最小限に食い止めるの」

「自分の名前は覚えていないのに、雑学の知識は豊富なようね」
 カナエは皮肉をまじえ部屋に入った。

「自分でも怖いわ。今が」
 女はいった。

「今なんてすぐ終わるわよ。すぐに未来がくる」

「あなたも面白い考えを披露するのね」
 女は手のひらを鍵盤に乗せた。音は鳴らさなかった。

「記憶のないあなたに言われたらおしまいね」

「それ皮肉?」

「いえ、冗談よ」
 二人は笑みをこぼした。

「ピアノの音色が好き」
 女は遠くを見つめ、唐突にいった。

「ピアノが好きっている技術レベルではなかったわよ。音を理解している風に思えるわ」

 カナエはピアノ近づき一音鳴らした。過去の記憶が走馬灯のように思い出されるが、搔き消した。

「自分でも弾いている曲がなんなのかわからないの。でも、体が覚えているみたい。この部屋に入って、ピアノを見たら、体が反応した。表現があってるならば、反応、そう、そうよ。それが正しい。きっちり、一時間は弾いていたと思う。長い年月の間。ピアノから音は出されていなかったのね。ピアノは埃が溜まり、音は曇っていた。ピアノ自体の寿命が近かったのかもしれない。でも、人工呼吸みたいに空気を供給し循環させれば、ピアノ本来の輝きが戻ると思ったわ。埃を振り払い、調律をし、私自身は指と手首のストレッチを入念にし、一音を出した。最初は全然ダメ」

 女は興奮していた。唾を飛ばし、髪を掻き上げ、目を輝かせながら。楽しそうに喋る女は愛らしく、もしこの場に男がいたら後ろから、または前から抱きしめ、

「ベッドの中で続きは聞くよ」なんてセリフが飛ぶかもしれない。カナエは何か言おうとしたが、女は止まらない。

「全然ダメだったのよ。そう、全然ダメだったの。でもね。何事も三分なの。長くてもダメ。三分後、音は蘇ったの。楽しく弾いたわ。指を鍵盤の上で動かす度に、スケールが頭の中で螺旋階段のように流れでたの。体に躍動が戻ってくる感覚があった。何も覚えていない自分が怖かった。音は私を覚えていたの」
 ふう、と満足を覚えたのか女は息を吐いた。

「最後の言葉素敵だわ」
 カナエはいった。お世辞抜きに、心から。

「あなたもピアノを演奏できるの?ここにピアノがあるということは」
 女は身を乗り出して訊いた。

「たしなむ程度よ」

「なら、連弾でもしましょ」

「あなたのピアノはクラシックというよりも、ジャズ向きよ」

「そんなの関係ないわ」
 女はカナエの手を取った。しっかりと力強く。が、カナエは女の手を振り払った。カナエはピアノを弾きたくなかった。察したように、

「弾きたくないのね」と女はいった。
 カナエは頷き、沈黙が流れた。

「これからどうするか話し合いましょう」
 カナエは努めて明るい口調で女に話し掛けた。

「そんな決まってるじゃない。当分の間、ここに住むわ」

 女の表情は明るかった。拒否権はカナエにある。女はカナエの言葉をグレーかかった瞳を輝かせながら待っている。餌をねだる子犬のようで、カナエは自然と笑みがこぼれた。記憶のない女の素性を明らかにしていくのも、面白いかもしれない。というのも事実だ。仕事上、助手が欲しかったのも事実であり、記憶、というアドバンテージもまた好都合だ。

 カナエは首を傾げた。やはり女の顔をどこかで見たことがある。カナエの記憶もどこか抜け落ちているのか、記憶の音像がぼやけ統一感を見出せなかった。

「記憶が戻ったらここからすぐに出ていってもらう」
 カナエはきっぱりといった。

 女は一瞬、ビクッとなったが、すぐに平静に戻り、「住んでる間にあなたと連弾がしたい」という願望を入れ込んだ。

「連弾は記憶が戻ったらのご褒美ね」

「物分りがいいのね、あなたって」
 女はいった。

「最初にやるべきことは、まずは今からしっかりと睡眠をとることと、明日から記憶の手がかりを探るわ。バッグの中身から推理していきましょ」

「推理ってシャーロックホームズみたいね」

「ワトソンはいないわ」

「どういう意味?」

「どちらもスタイリッシュだから」

 二人は視線を交錯させた。女の指が鍵盤に触れ、ミ、の音が出た。そして、笑いが起きた。

 時刻は午前三時。

 長い一日だった。カナエはベッドに横になり、目を閉じた。