直線的な道もいばらの道もいずれは終わるが、道はずっと続いているものと私は思っていた。
 老紳士が運転する車はブレーキをブレーキと感じさせる事なく止まった。私はどうやら眠っていたようだ。眠い目をこすり、瞬きを数回したときに、車のドアが開いた。
 外は暗かった。
一陣の風が吹いた。
 私の髪をさらった。少し汗臭く、疲労は蓄積されているようだが、頭はスッキリとしていた。
「ここは」
 私は目の前の要塞めいた館を見ながらいった。
 相変わらずの場に不釣り合いな、ハハハ、と笑い老紳士は、「『イシノヤカタ』ですとも。あなたはこの館に入って見つめなければなりません。見つめた先で戻るもよし、滞在するもよし」といった。
「どういった人がこの館に住んでるの?」
 私は訊いた。
「それはあなたが一番ご存知ではないでしょうか」
「ご存知」
 私は繰り返した。
「そうですとも。『イシノヤカタ』は、あなたでありあなたではない。まあ、説明するより実際に入ってみた方が実感が湧くかもしれません」
「体験と経験」
「ご名答。これに勝る妙薬はございません。逃げか攻め、どちらを選択しても、長期的には大差はないのです。人は短略的に判断します。短期情報を重要視します。なぜだかわかりますか?」
「先を見ることができないから」
「ご名答。そうなんです。『イシキノヤカタ』には様々な物事が集約されています。一つ一つ覗き、真実を見るもよし、逃げるもし、攻めるもよし、必ず事実に遭遇します」
「事実に遭遇したら、私はどうなるの?」
「わかりません」
 老紳士の声に冷たい響きが伴った。
「無責任ね」
「責任には対価が伴います」
「そうね。今の世の中、無償ほど怖いものはないわ」
「ご名答。無償の裏には利権が広がっています」
 老紳士は抑揚のない声でいった。四十代に見えた老紳士は五十代にも見えた。
「あなたの低音ボイスはベーシストみたいね」
 私はハイトーンな声で返した。
「はじめて言われました。嬉しくもなります。ベーシストではネイサンイーストが好きですね。安定的であり模範的」
「彼は楽しそうに弾くわね」
「人生を楽しんでいます。音を楽しんでいるのが伝わってきます」と老紳士はいい、腕時計を確認し、「さあ、時間です」と『イシノヤカタ』を指差した。
 老紳士はくるりとターンし、運転席に乗り込み、エンジンを掛けた。BMWはあっという間に、煙を吐き出し、直線的な道を疾走した。私は一人になり、大きな要的な館の前に佇むことしかできなかった。引き返すこともできたが、結局は行くあてもなく迷える子羊のように目的地が決まっている方が楽だという認識が歩を館に向けた。
 館周辺にはたくさんの草木があり、たくさんの郵便ポストがあった。私は目につく限りの郵便ポストを開けていったが、中には何も入ってなかった。入っていないものに執着していても仕方がない。
 執着。
 私はかつてなにかに執着していなかっただろうか。ぽっかりと空いた記憶の空洞が埋まることのない悲鳴を上げている。頭を押さえ、こめかみを揉み、舗装の良い道を歩くが頭痛は一向に収まらなかった。精神的に、参っていた時期がある。誰しも何かしらの悩みや不満を抱えているものだ。抜け出したくても抜け出せない、足掻けば足掻くほど傷口がどんどん広がっていく。人間的不協和は身体を蝕み精神を崩壊させていく。
 破壊。
 私は一度、壊れたのだろうか。わからない。
 頭を横に振った。
 気づけば館の前に来ていた。扉は大きく、プレートに、ウェルカム、と印字されていた。ケーキの上の誕生日プレートのように。
 私はノックをした。
 反応はなかった。
 私は再度、ノックをした。
 扉の奥で人の気配がした。気配がした数秒後、扉は音も立てず開いた。
「お待ちしておりました」
 目の前の男には表情がなかった。モザイクがかっているのだ。手招きをしていた。背丈は私と同じぐらいで、男のが若干高い。スーツはチャコールで、どことなく雰囲気にマッチし違和感はなかった。
 私は開け放たれた扉の中に入った。
 館内部は赤い内装をしていた。扉を入って奥にはフロントがあるが誰もいなかった。ソファーが大量にあり、壁には誰が描いたかわからない絵画が飾られていた。決して品の良い場とはいえなかった。
「ここはどういった場所なんです」
 前を歩く男は止まった。そして振り向いた。
「意志、ですよ。あなたの意志。忘れかけていた意志。人は迷い込むと得てしてどこかに逃げてします。夢なのか現実なのか。時にわからなくなる時があるでしょう?違いますか」
「突然そんなことを言われてわかりません」
「キャラメルとガムはどちらが好きですか?」
「ガムです」
「そうなんです。成分は似ているのに、ガムが圧倒的に指示を得ます。なぜだかわかりますか?」
「わかりません」
 男は頷いた。想定した門答集の一つなのかもしれない。「単純ですよ。ええ、単純ですよ。残るからです」
「残る?」
「ここはそういう場所です。逃げ込めば見つけなければならない。意識の深い部分。そう思っていてください」
「となると、この場所は私であり私ではない」
「捉えようによってはそうなります。でも、全てが正しいとは限りません」
「というと?」
「人というのは都合のよく解釈します。自己愛の典型ですね。『私はこんなに』『僕はこんなにも』私、僕、俺でもなんでもいいです」とごくりと男は唾を飲み込んだ。
 そして続けた。
「視野を狭める要因であり記憶を狭める要因でもあります」
「私もその一人ということですか?」
「場合によっては」と男は私の手を取った。「人は不快な記憶を忘れることによって防衛する生き物です。違いますか」
 私は何も応えられなかった。明確な回答を提示することができなかった。
 男は手を取りエレベーターの前に向かった。館=エレベーターという図式が私には想像がつかなかった。螺旋階段のイメージが強く、長方形大の入れ物は不釣り合いであり不可解でもあった。
「ここは何階まであるの?」
「難しい質問ですね」
「なぜです?」
「ここは『イシキノヤカタ』。意識は意志であり思考であり夢でもある。階層は無数に存在します。存在を存在し得る要因は当人にあります」
「となると私次第で階層が入れ替わったり形を変えたりする。この見てる者、捉えている者、感じている者、全てが、私」
「いい線ですね。しかし正確なところは誰にもわからないです。正しいと決めつければ正しい。正しくないと思えば正しくない。不思議なんて者は何もありません。不思議は知らないと同義です」
 チン。
 エレベーターの音が鳴った。
 扉が開いた。
 男にエスコートされる形で私は中に入った。
「ボタンを押してください」
 男はいった。
「何階でもいいの?」
「答えは決まっているはずです」
 男は全てを見透かしたような声を放った。
 私は階数ボタンに近づき、13、と印字されたボタンを押した。
 ボタンを押したが男は何も言わなかった。だが、うんうん、と頷いていた。奇妙で不快だった。
 エレベーターは動き出した。ゆっくりと意志を持ってるかのように。
 エレベーターの可動音は静かであり不快な音ではなかった。一見して無意味な音の羅列も束と化せばメロディーになり、私たちのような聴衆に聞かれることになる。人は音からは逃れられないし、たとえ逃れられたとしても、音の飢えは唐突に襲ってくる。私はそうだ。
「一つ気になったことがあるの」
 私は男に訊いた。
「無数の疑問は真実に辿り着く過程にはよくあることです。なんなりと」
「あなたのことを私は知ってるんじゃないかなって」
 うんうん、と男は頷いた。「入れ物は一緒でも、中身は違います。あなたが知っている人かもしれないですが、もう一度言います。中身が違います」
「人には二面性があるみたいに」
 私はふっと笑みをこぼした。男はなんの反応も示さなかった。
「二面性とは防具みたいなものです」
「防具?」
 男は、そうです。と深く頷いた。「表を見せといて本来の自分、すなわち弱い自我を覆い隠しているのです」
「あなたの解釈だと、普段は攻撃的で明るい人間の裏は弱くも脆く、普段は気の弱そうな人間の裏は非常に意志が強固。そんな風に聞こえるんだけど」
 私はいった。
「もちろん。全員がそうあるとは限りません。あくまで可能性の話です。でも、あなたの解釈は概ね合っていると思います。そもそも、人を理解するのは並大抵のことではできません。理解している、という人間に限って、理解から程遠いところに居住して、自分自身の存在価値に悩むのです」
 なるほど、と私は頷いた。「保身に走る権力者は典型的ね」
「彼らは保身を守りと解釈しないで攻撃に転嫁します。意識のすり替えが、視野を狭くし、破滅へと向かう序曲です」
「逆に保身に走る人の方が多いと思うわ」
「人間というのは自分が可愛いですから」
「当然よね。自分が生きてるんだもん」
「たとえば、複数の家族が集まって、それぞれの家族に子供がいたとします。仲睦まじい会話を広げていたとします。『〇〇さんのお子さん本当に可愛い』『〇〇さんの方こそ優秀な子じゃない』と当たり障りのない会話に注視します。しかし」
 私は右手で制した。話の顛末がわかった気がしたからだ。「自分の子のが優れて可愛い」
「ええ、その通りです。出来、不出来は関係ありません。自分の分身は可愛いのです。それが醜くても不出来でも」
「あなた大学の教壇に立ったら」
「遠慮しときます」
「なぜ?」
「人前が苦手なのです。今はあなた一人ですから雄弁に語ることは可能ですが、多数の人間に見られると吐き気がします。視線が怖いのです」
「いい声してるのにね。勿体無い。多数を相手に話をする場合に、どうすればいいかわかる?」
 私は揺さぶりをかけた。
「どうするのですか?」
 男は話に乗ってきた。
「あなたの視界に映るもの全てを案山子にしちゃえばいいのよ。案山子一号、案山子二号、ってね」
 フフフ、と抑え気味の笑みを漏らした男は、「あなたは面白い人だ。もしかしたら本当にどこかで会っているかもしれませんね。生きるは連鎖の連続ですから」といった。
 チン。
 私は階数表示を見上げた。
 エレベーターは十三階を明滅させていた。
「到着です」
 男の声と共にエレベーターの扉は開き、男は、「さあ」と私を促した。私はエレベーターを降りた。
「この先はどうすればいいの」 
 私は訊いた。
「わたくしとはここでお別れです。あなたが見つけなければなりません」
「人生と同じように」
「渇いたら濡らせばいいのです」
「洒落たことを言うのね」
「時間です」
「あら、冷たい人。また会えるのかしら」
 男の無言は、もう会えない、と言っているに等しかった。
 エレベーターの扉はゆっくりと閉じられ、男のモザイクがかった顔は、どこか微笑んでいるように見えた。
 私はしばらくエレベーターの扉を見つめ、降りた周囲を見回した。内装は赤で、たくさんの部屋があった。館というよりはホテルのようだった。どこかの部屋に入るべきなのだろうが、どの部屋に入ればいいかわからない。選択肢が多いほど人は迷い、戸惑う。
 私は歩みを進めた。人生というのは歩いて、歩いて、歩いても、先の見えない展開の連続だ。それでも歩みを止めてはならない。
 小人はどうしているだろう。老紳士は何をしているだろう。一体彼らは、どんな意味があったのだろう。
 最大の疑問は、私はどこにいるのだろう。
 様々な疑問が渦巻き、赤い内装に見飽きてきた。直線的な通路が続き、変わり映えのしない風景と単調な歩みが、どことなく私のペースを狂わせていた。
 不思議なことに喉の渇きはなかった。
 あれほど老紳士の車では喉が渇いていたのに。
 人体は不思議で満ち溢れ、不思議に魅了されていく研究者たち。
 研究者。
 私は何か大事なことを忘れている気がする。
 今しがた思い描いた三単語は、私にとって重要なキーになり得る。頭の片隅にあるが細部までは思い出せない。思い出さなければ私にとっては大いなる損失のような気がした。
 風。
 顔に風を感じた。春風のような生暖かさ。春は記憶をふと想起させやすい。いつでも春には出会いがあり別れがあった。春は人を魅力にさせ、夏よりもどこか人の気持ちを軽やかにさせる。
 私にとって春はなんだったのだろう。
 風が呼んでいる。
 呼んでいる先に、私の待つものがあると思った。
 私の歩くスピードを速めた。電線したストッキングを履き替えるように。風を感じた先に橙色の灯りが漏れていた。扉が少し開いていた。
 私は忍び足になり、音を立てず、扉の隙間を覗こうと前かがみになり、些細な音も漏らさず耳を立てた。
 ふーというため息が漏れ聞こえた。
 誰かがいる。
 ため息の音質からして男のようだ。
 私は意を決し、背筋を伸ばし、扉に手を掛け、部屋の中に入った。