モーニングコールというのを体感したことのないアオイにとって、「おはよう」と耳元で大きな声で起こされた時点で、体感したくないリスト上位に入り込んだ事実を披露しようか逡巡している最中、コーヒーが目の前に出され、全てを忘れた。
 アオイの目の前には涼しい顔をしタンクトップ一枚の井上ユミがいた。すっぴんだった。化粧をしてない彼女は同級生にも見え、触れてはいけないガラス細工のように繊細な顔立ちだった。
「朝はびっくりしたでしょ?」
 井上ユミはコーヒーに角砂糖を二個入れ、クリームを一滴垂らした。
「この家は・・・・・・」
 僕の家なんだけど、と続けようと思ったアオイの言葉を遮るように、
「ホテルを予約し忘れちゃって」
 と井上ユミは舌をペコっと出して、その仕草がアオイの心をざわつかせ何もいえなくなった。
 沈黙は深く周囲を席巻し、ファンタージー世界を彷彿とさせた。コーヒーカップから立ち昇る湯気がそのような空気感を演出させたのかもしれない。
 ふーと湯気を息で搔き消した井上ユミは少女のようでもあった。
 そしてこう切り出した。
「お願いがあるんだけど」
 女という異分子めいた生き物が、お願い、を口にするとき計算めいたものが発動していることが確実視させる。お願い、が発動された時点で、男側には事実上、拒否権はなく、もし拒否しようものなら、感情の波動攻撃が待っていることは否めない。というか予想ができなければ人生という荒波は渡ってはいけないだろう。勇しき女性社会、という国家レベルの政策の後押しもあり、女性軽視しようものなら社会のゴミクズと化す。まあ、それは言い過ぎか。
 アオイはコーヒーカップに口をつけ。ゆっくりと喉を潤した。砂糖を入れ忘れた。でも、ブラックも悪くない。
「お願いとは何でしょうか?」
「そんなにかしこまらないでよ」
 笑顔トレーニングでもしてるのだろか。自然発生的に効果抜群の口角がぐいっと上がり、さらにアオイの心をざわつかせた。
「目の前に有名人がいて、かしこまらない人はいないと思いますよ」
 ちょっと待てよ、小沢アオイ。昨日、中村になんていった?
 恋愛にマニュアルは存在しない。
 アオイは自分自身の言動と行動に一貫性がないことを痛感した。目の前に、井上ユミがいるという事実が、アオイの判断を鈍らせている。焦るな。普段通り。流れに身を任せろ。
 そうだ。
 それだ。
 何が?
 自分で自分を鼓舞し問いかけておきながら、アオイは口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。
「有名人とかそういう目で見ないで欲しいのよね。れっきとした女。生身の女。昨日一緒に寝た中でしょ」
 井上ユミの突拍子のない発言にアオイはむせ返った。
 大丈夫?という声が聞こえたが、アオイは全く大丈夫ではなかった。
「俺はまさか手を出したのか」
 アオイは頭を抱えた。
「ノーノーノー。セクロスじゃないよ。添い寝みたいなもんよ」
「セクロス?」
「セックスをカジュアルな言い方にしてみただけよ」
 井上ユミは頬を赤らめながらいった。二人の間には数分前とは違う、儀礼的な雰囲気ではない、親しみめいた空気が流れた。実をいうとアオイは昨日の夜はすぐに眠りに入ったこともあり、あまり覚えていないのだ。
「そうですか」とアオイは姿勢を整え、「で、お願いとは?」切り出した。そして、すぐに井上ユミが切り出した。
「二、三日でいいから、ここに泊めてくれない?いい部屋だとは思うし。ホテルはあまり好きじゃないのよ」
「好きじゃないのよ、と言われましても」
「だからさ、かしこまらないでよ。いいでしょ」
「いいですけど、マネージャーさんとかマネジメント会社のお偉いさんとかに何か言われません?有名人って管理されているイメージが強いから」
 アオイは微々たる知識を総動員していった。
「ああ、それなら大丈夫。私、個人事業主だから。管理されるの嫌い出した。でもさ、個人事業主って一人って思うでしょ?違うのよ」
「違うんですか?」
「違うの。違うの。関らなきゃいけない人が多いのよ。たしかに印税とか管理してくれるマネジメント会社とは契約はしてるけど、契約条項は私有利にしてあるから。困ったら弁護士よ」
「そういうものなんですか」
「そういうものよ。権利と法律は、近代ビジネスを生きる上では重要よ。いくら人工知能が世界を覆うといったって、人工知能が人間の想像を超えるなんてはるか先よ。それに人工知能が人間の想像を超えたら、待ってるのは滅びね。なんだっけそれをモチーフにした映画があったわよね」
「井上ユミさんの趣旨に合致するなら、『ターミネーター』ですかね」
「それよ。シュワシュワシュワちゃん。それぐらいの反乱は起こっても不思議じゃないわ。だって海外の著名な脳科学者に会ったことあるんだけど、『人間の脳は不思議すぎて何もわかってない』っていわれたの。ハゲたジジイにそう言われたらさ、まだ当分、人類の栄光は続くんだな、て。それより世界規模の人口増加や資源の問題のが急務だろうな、て」
「想像力は終わらない」
「あなた素敵な言葉を使うのね」と井上ユミは急に立ち上がり、「ところであなた名前は?」と首を傾げた。
 なるほど、なるほど、とアオイは意味もなく二度相槌を打った。自己紹介すらしてないない状況下で、ここまで捲したてられ、この場に溶け込むとは。人生というのはなにが起こるかわからない。
「小沢アオイです」
「女の子みたいな名前ね」
「それ禁句ですよ」
「もしかして気分害した?いい名前だと思うんだけど」
「フォローされる度に、傷を抉ります」
「まだ若いんだから傷なんて優しいものよ。私に比べたら」
 井上ユミの言葉は真に迫っていた。その時だけの彼女は、あけすけな感じではなく、どこか遠くにいる存在に、彼は感じた。
「今日は仕事?」
 アオイはフランクに接してみた。勇気を出して。この場の雰囲気を変えてみようと思って。
「仕事は一応、昨日で終わりかな」
「じゃあ、休日なんだ」
「しばらく羽根を伸ばそうかな、と思って。鳥籠に飼われた鳥はなにもできないのよ。自由に羽ばたかないと」
「アオイはなにをするの?」
 アオイは名前で呼ばれてドキッとし、タンクトップから感じるDカップはあるだろう豊満なバストに目がいってしまう。朝から刺激が強すぎ、視線のやり場に困る。
「研究かな」
「研究?アオイって学者さん?」
 井上ユミはソファーに再度座った。胸がプルんと揺れた。視線で追ってしまうアオイがいた。
「ただの大学生だよ。仮説を立ててそれを立証するのが好きなんだ」
「曲作りと似てるわ。そういう時ってさ、頭の中で大きなマップを広げて、一つ一つピンを置いていくんでしょ。ああでもないこうでもない、って置いたピンを拾って、また別の白紙にピンを置いていく」
 井上ユミの言葉をアオイは反芻した。
「その作業は楽しくもあり苦痛でもある。その先に喜びが待っている」
「いいじゃない。なんだかインスピレーションが湧くわ」
「そう?」
「そうよ。で、どんな研究してるの?女性の構造じゃないでしょうね」
 井上ユミは目を細めた。
「近いね。でも、言えないんだ」
「ねえ。それってずるくない」
「ずるいかな?」
「そうよ。『絶対見ないでね』て言われたら見ちゃうでしょ。その心理と似てると思うの」
「まだ検証はすんでないんだけど」とアオイは立ち上がり、一眼レフを持ってきた。「撮っていい?」
「高いわよ」
「それって冗談?」
「撮っていいわよ」
 アオイはレンズを覗き込み、ピントを井上ユミに合わせた。
 彼女は窓の方を眺めた。横顔はアンニュイな雰囲気をより一層醸し出していた。それで薄いブラウンの髪が際立っていた。
「いいアングルだ」
「かわいく撮ってね」
「実物を超える写真は難しい」
 アオイの言葉に井上ユミは笑みを漏らした。
 ここだ、とアオイはシャッターを切った。一枚、二枚、三枚。連続で。笑みをこぼし、右手をさりげなく耳元に添える井上ユミの写真が撮れた。
「ねえ、写真を撮ってどうするの?」 
 井上ユミは当然の疑問を添えた。
「夢を解析するんだ」
 アオイはいった。
 それか、と井上ユミはぼそっと呟いた。
 アオイには何のことからわからなかった。「それか?」
 ううん、と井上ユミは首を振り、「新型のカメラだな、と思って。今はね手軽にカメラを一台持つ時代だよね。でもさ、夢を解析して何かとくするの?」といった。
「脳と心の問題かな。人間ってさ。言葉と発していることが正しいとは限らないと思うんだ。というのも井上ユミさん・・・」
「ユミでいいわ」
 アオイは目を見開いた。すぐに表情を元に戻した。「夢の中、つまりは、意識下に入り込む。コンピュータを使ってだけどね。やり方はわかってる。後は数式をプログラム化すればいい」
「アルゴリズム」
 アオイは一瞬のけぞった。「詳しいね」
「海外じゃ主流よ。使いこなせる人はごくわずかだけどね。人工知能と人間が作った作曲ではどちらが優れたヒット曲を生み出せるか。なんてね。あれもアルゴリズムの一種でしょ。アルゴリズム=解を行う為のやり方」
「そうだね。星型の人参を作るのに、人参を輪切りにして、そこから輪切りを星型切るより、星型にした人参を輪切りにした方が効率が良い」
「アオイって知的な研究者なんだ。じゃあ、いずれは私たちって夢に入り込むことができるんだ」
「理論的には。もちろん実態が入り込むわけじゃないよ。意識を潜ませる」
「なんか面白いけど、実際怖そう」
「そうだね。だから研究は慎重に行わなければいけないんだ」
「でも、なんで写真を撮るの?」
「忘れないためさ。生身の人間は被験者に使えない。だからフォトから実体を抽出する」
「そんなことが可能なの?」
「髪の毛が必要だけどね」
「髪の毛?」
「手っ取り早いのは脳波を測定したりするのが早いんだけど、研究予算は限られるし、それって他の研究者もやっていて最たる成果は得られていないのは実像なんだ。だから別の仮説を立ててみた。蓄積した記憶は脳にも宿るし、細胞にも宿るんじゃないか、てね。だから髪の毛一本でその人の情報を読み取る。アクセスしやすいように、写真を撮る。どんな人なのか、どんな趣味趣向なのか、髪の毛との情報とマッチさせる」
「全然ついていけない」 
 井上ユミは、両手を上げた。
「説明が悪いからね」
「違うのよ。私の頭の問題」
 井上ユミはこめかみを人差し指でさした。
「さて、ユミの情報でも解析するかな、なんてね」
 アオイは立ちあがった。
「ずっと研究ばかりしてるんでしょ?てかあまり友達いないでしょアオイって」
「ズバッと言うね。研究ばかりしてるし、友達もいない。いないっていうのは語弊があるな。非常に少ない」
「私の悪い癖なの。ズバッといっちゃうのわ」
「でも、それぐらいストレートに言ってもらった方が、好感が持てる」
「なら、私とデートしましょう。井上ユミとデートなんて、刺激があっていいと思うの。ずっと部屋で缶詰だなんて、煙の中にいるようなものだわ」
「実体がない」
「冗談も通じるのね」
 二人は視線は交錯した。言葉を交わさぬとも通じるなにかがそこには生まれようとしていた。
「デートか。いいね。でも、ユミは服はあるの?」
「昨日の服だけど、だから新品を買いに行くのよ」
「非常に合理的な考えだと思う」
「こんなに広いマンションに一人じゃ退屈だと思ってね。そういえば、アオイが寝ている間に部屋を覗いちゃったりしたんだけど、ドラムできるんだ」
「ドラムが演奏できることは誰にも言ってないけどね」
「友達が非常に少ないから」
「それもある、母親のなんだ」
「でも、アオイって一人暮らしでしょ」
 バツの悪そうにアオイは頷き、「両親はこの世にいない。死んだんだ」といった。
 井上ユミは言葉を失っているようだ。ドラムロールの出だしのように低い音で、「ごめん」といった。
 井上ユミが悪いのではなく、アオイの声のトーンがいけなかったのではないかと反省した。
 両親がいないからといってこの歳で寂しさはない。うまく人に溶け込めない要因のような気がしないでもない。自分のことが自分で一番わからない。
「ねえ。アオイ」
 井上ユミが背後から声を掛けた。
 アオイは振り向いた。
 涙?
 くしゃついた顔をした井上ユミの目元から一筋の涙が流れていた。
「泣いてるの?」
「もうすぐ春は終わる。終わる前にデートしましょ」
 井上ユミはアオイの問いには答えなかった。答える気もなかったのかもしれない。彼のグレーがかった心は井上ユミのくしゃついた笑みから色づいた笑みをみた瞬間、少し救われた気がした。
 春が終わる。
 桜は満開だとニュースでやっていた。確かに終わりは近い。満開になったら、徐々に徐々にあとは散るのみである。落ちる桜の花びらを横目に、アオイは季節を通りすぎていくのだろう。
 春が終わる。
 まだ、終わって欲しくないという思いが、アオイには芽生えた。
 それは目の前にいる女性のせいかもしれない、と彼は心の中で微笑み、バスルームへ向かった。