真っ暗な世界のくせに、やけに空が明るかった。
 空一面を覆っている無数の星と、水面にまでくっきりと映る整いすぎた丸い月。
 空気が澄んでいて、氷のような風が体中に突き刺さる。
 目の前にあるのは、まるで俺を呼んでいるかのように、どこまでも広がる大きな湖。浅い波までも作り出す、それの名は藤咲湖(ふじさきこ)。別名〝自殺湖〟とも呼ばれている。
 細い道を通ってすぐそばにある地元の病院に入院している人達が、よくここで自殺するらしい。
 本当かどうかは俺も知らない。ただ一つ言えることは、今スリッパを履いてパジャマ姿のままここに立っている俺が、そこに入院してる患者だということは事実だ。
 病院から抜け出した時刻はきっかり零時。
簡単だった。
 それほど大きくないあの病院では、二階に入院患者が寝ている。
 俺が寝ている部屋には、今は他に誰もいなくて、二階の中でも端から二番目の場所にある。
 窓をそっと開けて、すぐ隣に伸びているパイプをつたって地に足をつけた。
 そこで死んだって良かったんだ。結局死ぬなら、どこでも良かった。
 ただ、湖にでも行って綺麗な星空を眺めながら死ぬのもいいんじゃないかって。
 うん、思った通り綺麗だ。なんでもっと早く気付かなかったんだろう。
 虫の音も聞こえない時期。
 人の寄り付かない時間帯。
 電灯すらない場所。
 耳に優しい浅い波の音が、俺を急かした。真っ黒いそれが、何度もこっちへ近づいてきては離れ、またやって来る。
 心臓の鼓動が、脈が、どんどん熱く速くなった。
 葉のない木々が風に揺られ、背中を押してくる。
 はいれ、はいれ、はやく。
 どんなに小さな音も、全て耳に入り込んできて、そう聞こえた。
 目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込む。
 そうして、さっと酸素を捨てた。
 パタパタと歩きにくいスリッパで、無我夢中で飛び出す。血液が凍ってしまいそうな水の中に、足を滑らせた。
 冷たいとか、痛いとか、寒いとか、そんなもの感じない。
 ただ早く逝きたい。もう嫌なんだ。
 何も聞こえない。何も感じない。
 あの妙に明るい星々に吸い込まれる。
 右に左に水を掻いた。服が水を含んで重い。どんどん重みは増して、徐々に沈んでいく。そのまま深くまで落ちて、何に囚われることなく、死んでいきたい。
 自殺なんて、馬鹿なことをするやつだと思われたっていい。
 他人から見たら、忍耐力がないやつだと思うだろ。
 勝手に思っておけよ。
 所詮自分以外の気持ちなんて、これっぽっちもわかんねぇんだから。どのくらい辛いとか、どのくらい嫌いとか、好きとかだって、どんなものでも人それぞれだろ。
 俺は、生きるのが怖い。だから死ぬんだ。
 視界が闇に染まる。
 淡い月の光が、静かに湖底に伸びているように見えた。
 ──綺麗だな。
 体がふわりと浮きながら、単純にそう思った。
 苦しい。息ができなくて苦しい。
 最後の泡が輝きながら水面へと上っていく。
でも、こんな苦しみすぐに終わる。
 体は酸素を欲しがって、暴れた。勝手に顔が宙を向く。でも決して与えない。
 それでも俺はもがいていた。だけどもう、手を伸ばしても水面には届かなくて。
 閉じかかる瞼の間から、届かない光を見つめた。
 俺は後悔してるのか? 決心したくせに。いやそんなことない。もうすぐ望み通りになる。俺はもう、思い残すことなんて……。
 ──思い残すことなんて?
 すると突然強い力が働いた。グイッと引っ張られるような衝動に、ついに魂が抜ける瞬間が来たかと、目を開けてみる。
 体が浮いた。
 宙には満天の星と、雲ひとつない空で大きく光を放つ満月もあった。そんな幻想的な景色を長く見つめた気がしたが、ドサッという衝撃音とともに、体が何かに打ち付けられる。
『え?』と声を出そうとした次の瞬間、物凄い鼻の痛みと吐き気が俺を襲った。
「おえっ!! ゲホッゲホッ」
 ツンとした鼻の痛みは全く取れない。吐き気も止まらず、汚いとわかっておきながらも我慢することはできなかった。それは明らか水らしきものだった。
 喉がまだ気持ち悪くうねる。意識はうつらだが、頭と心臓がドクドクと脈を打つうちに、やっと少しは思考が働いた。
 天国って、こんなに苦しいものなのか……?
 目が暗闇に慣れてきた頃、やっと耳に音が入った。
「君! 何してるの!? こんな寒い日に湖なんか入ったら死ぬよ!?」
 突然後ろから降ってきたその声は、辺りに響くほどの高い音。
 瞬時に女だとわかった。
 死ぬよって……。
 ──ああそうか。やっぱり死ねなかったんだ。道理で苦しいはずだ。この世界は……苦しい。
 闇の中で今、自分が手をついているのは、やはり地で。これが現実なんだと思い知らされる。
 吸い込みたくもない酸素を体が勝手に補充して、息が荒くて声が出ない。鼻も痛くて、押さえるので精一杯だった。
 水をたっぷり含んだ髪から雫が垂れ落ち、また体を濡らす。それに追い打ちをかけるように風が吹いた。
「な……んで」
 ゆっくりと起き上がって座り、体を固く締めながら、闇の中のシルエットでしかわからない女を睨みつけた。
「なんで……なんで邪魔すんだよ!」
 助けてもらったなんて思えない。死にたかったのに。やっと安心出来ると思ったのに。
 そんな思いが巡って、ああ、まだ生きているんだな、と思ってしまった。
「死にたいの……?」
 何も知らない女は、小さく波に紛れて聞いてきた。
「……そうだよ」
 それ以外なにがあって、こんな真冬の真夜中にここに来る必要があるんだ。
 もう一度誰かと話すことになるなんて思わなかった。
 こいつは警察か、自殺防止屋か何かか? 何も知らないくせに、止めないでくれよ。
 何も……知らないくせに。
「……いつ死んでもおかしくないってさ」
 気付けば口が動いていた。
 ああ、俺は顔も名前もわからない奴に、知って欲しいのか。馬鹿だな俺は。そんなことしたって、こんな痛み、俺にしかわかんねぇのに。
「寝てる間に脳の機能が停止して、知らない間にぽっくりだってよ……。その方が痛み無く死ねるって思ってる奴いるかもしれねぇけど。けど俺は……明日があると思って生きるのは怖い。いつ明日が来なくなるのか、わからないのが怖い……」
 言ったところで何も変わらない言葉たちが溢れ出た。
 死ぬんだって。何回聞かされたんだろう。『死ぬ』なんて言葉、昔は気軽に口にしていたのに。
 人はいつしか死ぬなんてこと、わかってるくせに。
 一度開けてしまった心の扉は、もう元にはもどらなくて、ポロポロと溢れ出る。頬に流れた生暖かい雫を、砂のついた手で擦った。
 誰も何も言わない、静かで冷たい空間。
 俺の嗚咽だけが、波と風と一緒に流れ、広がって消える。
 星はまだ、瞬いていた。
「……私も、人より長く生きられないの」
 突然、沈黙が破られた。
 ──人より長く生きられない。平均年齢が七・八十の日本で、彼女も俺も同じく早死にするんだ。
 同じ……か。
「お前も、何か病気なのか……?」
「ううん、違うよ。すごく健康。でもね、長くは生きられないんだ。そういう運命なの」
 そんな言い方をする女に腹が立った。
 健康なのに、なんで長く生きられないんだよ。どうしてそれを運命だとか、簡単にまとめられるんだよ。
 同情か。くだらない。
「……なんだよそれ」
 全然同じなんかじゃない。考え方がそもそも違うのだから。病気でもない、体が弱い訳でもない、健康体の持ち主。それが早死するんだとか。どうせ六十歳くらいで『早死』って言ってんだろ。俺より早く死ぬことなんかないくせに。
 ビュッと強い風が全身を突き抜けた。思わず顔を歪め、それが相手にバレたよう。そばに置いてあったらしい分厚いコートを、濡れている俺に被せてきた。
 払ってやろうかと思ったが、あえてそれを固く濡れた自分に巻き付ける。
 新手の嫌がらせだ。ムカついたから。
「私は病気じゃないよ。でも君と同じ痛みを知ってる。知ってるけど、例え自分が早死する運命だとしても、自ら死を選択することはないよ。だって私は生きたいから。それも本当は同じなんでしょ?」
 一気に口にした彼女の言葉とほぼ同時に、波に乗ってスリッパが片方返ってきた。
 だから同じじゃないって。お前と俺じゃあ全然違うんだよ。
 でも、思い残すことなんて『ない』とは言えない自分がいた。
 木々がさらさらと風に揺られている。今はもう、俺を急かす声は聞こえない。毛先から雫が飛んでいった。
「生きている限り、死は必ずやってくるよ。どれほど長く生きられようと、どんな生き物でも。それでも私たちが生きているのはね、誰かに生かされているからだよ」
 周りに流れる冷たい風と同様、自然と、あっさりと、心の奥に染み込んできた。
 生かされている……か。
 そうか。へぇ。こんな状態の俺でも、生かされてるんだ。
 不思議と納得してしまった。まるで他人事のように。
 隣に座る謎の女は、スっと立ち上がり、長いスカートについたらしい砂を軽く払って、俺に手を伸ばした。
「病院に帰ろ? 寒いでしょう?」
 俺は伸ばされた手を無視して立ち上がった。おぼつかない足取りで病院へと向かう。
 どうして自分がこんなことをしているのか、正直わからなかった。死にたかった俺は今、生きるために病院に戻っているのだ。
 彼女も何も言わずについてくる。
 湖へ繋がる小道を、今度は裸足で歩いた。五分もしないうちに、木々と垣根に囲まれた病院が見えてくる。
 案の定、夜勤の看護師さんが血相を変えて走り回っている様子がガラス越しに見えた。
 思わず背の低い垣根に隠れる。後ろの彼女も、同じく体を小さくして寄ってきた。
「今度、コート取りに行くね」
 電灯に照らされてやっと姿の見えた彼女は、片方しかないスリッパを俺に渡し、病院裏の道へ駆けて行く。
 白い腕が、淡い光を放っているように見えた。