だからわからなかったんだ。その名前がなんて読むのか、結局、最期まで。
泣き声がした。
誰かが一人で泣いていた。
行って、傍にいてやらないと。
そう思うのに、自分以外の景色が、世界が途端速度を増して遠ざかっていく。俺自身にだけ急激にクローズアップし、そのうち景色だけが四角い箱の中で繰り広げられているのが遠くに見えて、気付いたら真っ白な空間に背中から投げ出されていた。
泣いている声がする。その声は遠ざかっていくのに、でも頭の中、鼓膜の奥、すぐ近くで聴こえて、やがて吸い寄せられていく。
心電計の音がする。
ふ、と開けた視界の端で、誰かが一人で泣いていた。それは黒い影だった。懸命に目を凝らしてみれば、次第に視野の靄は晴れていく。
「───あの、あの…っ、お兄ちゃん、お兄ちゃんいつ目を覚ますんですか?」
「円ちゃん落ち着いて…気持ちはわかるけど、先生からも気長に待ちましょうってお話があったじゃない。それよりあなた自分のこと」
「もう一ヶ月も経つんですよ!? お兄ちゃん返してください! お願いだから助けてください!!」
「…………ま どか……?」
息苦しくて、声が思うように出なかった。やっとの思いで絞り出した声にそれでも気づいてくれたのか、妹は、看護師ははっとして振り返る。
「──────お兄ちゃん!? お兄ちゃん!!」
「507号室の久野さん意識戻りました!! 誰か、誰か早く先生呼んできて!!」
騒々しい外野の音に頭が打ち付けられて痛い。呆然としてる間にも妹は俺の胸で泣き喚いている。
そこで俺はようやく、目を、覚ました。
混濁した意識が鮮明になったころ、妹が俺に何があったかを説明してくれた。
一ヶ月前、俺は横断歩道を歩行中、信号無視して交差点に侵入してきた乗用車に跳ねられ意識不明の重体に陥ったんだそうだ。
すぐさま病院に搬送されたものの突然のことで、回避もままならなかった俺の打ち所は悪く、一命は取り留めたものの、この意識を取り戻すかどうかは五分五分だったという。
そこまで聞いたところで、一ヶ月の夢の中で過ごした一週間・その辻褄が合致した。
入院初日、あたかも初めての体で妹とした会話が小三の時、骨折で入院した頃のやり取りとほとんど同じだったこと。
だからこの歳で、既に逝去した母の元に走る妹に違和感を覚えたこと。
母が迎えた最期の夏、初めて出逢った祖父と田舎で将棋対決をしたこと。翌年、スキルス性胃癌でいなくなるじいさんが賞金の貯金箱を、帰る最後の日に俺に託してくれたこと。
小学生の頃憧れた、斜向かいに住む看護学生の麗央那ちゃんが。暑い夏の日、海に向かった高速で酒や煙草に明け暮れる彼氏と交通事故で死んだこと。
夢の中で。入ったら二度と戻れない隔離病棟に向かったとき、俺のことを呼び止めた声が多分母さんだったこと。
…他のみんなのことはもう、正直よくわからない。
でも。最後の夢で見た拓真は、俺が実際に9歳の頃経験した過去なのは確かだ。
でもこの法則でいくと、拓真や、あの子は。みんなはもう。
窓の外を見ていると、ひょこっ、と生首が大部屋の入り口に現れた。ポニーテールの生首は、俺を見つけるとびし、と右手を空に突き出す。
「よっ」
「…また来たのか」
「あー! そういうこと言う? 世界でたーったひとりの妹が最愛の兄のことを思って毎日お見舞いに来てあげてるーって言うのにそれも寝る間も惜しんでさあ! あー私ってば超健気」
「自分で言うなや」
俺が目を覚ましてから一週間。
世界は何事もなかったみたいに、まるで平和に回っている。
「寝ても覚めても同じ顔が彷徨いてんじゃ、こっちは頭どうにかなっちまいそーなんだよ」
「はぁい。そういうと思って天才的妹・円の粋な計らいで今日はスペシャルゲストをお招き致しました〜っ、どうぞ、入ってくださーい!」
オーバーな妹の身振り手振りに眉をひそめると、大部屋の入り口に見慣れた二人組が姿を現した。チビで活発・見た目がやかましい赤髪と、相変わらずのクールで色白長駆な黒髪───ヒデと、よっちゃんだ。
「ぉお! お前ら久しぶり」
「ようやく面会の許可が降りたんだ。これ差し入れ。みかんだ食え」
「相変わらずぶっきらぼうだなよっちゃん、そしてみかんどうもありがとう」
「恭〜平〜! あ〜本物だ〜! やべぇオレ感受性豊かだから涙出てきた」
「いや目の前で目薬さすのやめろ」
「っつーかぁ! 聞いたときマジでビビったんだからなまさか歩道橋から落」
スパァン! とよっちゃんの平手がヒデの後頭部を走りヒデがベッドに消沈する。なんだよ漫才か。やっぱよっちゃんの電光石火のツッコミは健在だしピカイチだ。
「事故の衝撃で左足の骨折と内臓に損傷はあったが脳に支障はないらしい。ただしばらくは点滴と病院食が基本だ、体力は落ちると思うが腹減ったからってドカ食いするなよ」
「わーかってるってヒデほどバカじゃないから俺」
「オイ聞こえてんぞ」
「搬送先がうちの病院だったらもう少し待遇してやれたんだが…わざわざ知人って理由だけでこっちに移すのもそれはそれで費用も嵩むからお前が嫌がると思って今回は手を打たなかった。一応ここの病院長とも父さん面識あるから困ったことあったら言ってくれ、面倒な手続き云々も処理する。お前は自分の体を第一に考えろ」
「おーさすが病院長の一人息子…ありがとーマジで助かるー…
さすがにこういう時妹だけじゃ負担になるからさ、面倒かけるけど立て替えてもらった入院代とかもあとでまとめて請求してもらっていい、その間に親父に連絡取っとくから」
「わかった」
「“お前は自分の体を第一に考えろ。”…くぅー! 痺れるー!! オレもそんなこと言いたい! オレも恭平のこと第一に考えてっからな愛は無限大だかr」
「これ以上は体に障るから帰る、またな」
「ア───待ってよっちゃん首根っこ掴まないで! てかオレあれやりに来たのにギブス!! ギブスにコメント書くやつ!! 深田恭子っぽいコメント欲しいよね恭ちゃん!?」
「欲しいです」
「お兄ちゃん!!」
ギャーギャー遠ざかって行く喧騒にいつも通りノリをちゃんと合わせておいて、そのあとはぽすりとベッドの背もたれに倒れる。俺、普通に一ヶ月前まであそこの中で男子高校生やってたんだもんな。なんだかまるで遠い夢物語みたいだ。
「…お父さんには私が連絡するから、お兄ちゃん気にしないでいいよ」
「おう」
「…てか。あんまり大声出したりしないでよ、まだ本調子じゃないんだから。今だって結構しんどいくせに」
「おーさすがは我が妹。兄貴のことよくわかってるね」
「わかるよ」
何年一緒にいると思ってんの、とよっちゃんが持ってきてくれたみかんの紙袋を物色するその手にはりんごが携えられていて。バナナの方が好きなことはろくに覚えやしねーけどなって言ったら“だってバナナなら一人で食べれるじゃん”と言われた。
わかってなかったのは俺の方なんだろうか。
「全部お見通しなんだから」
「まだ言うか」
「だってお兄ちゃん落ち込んでるとき、絶対空見てるもんね」
真っ白な空間に寝そべっていると、ひた、ひた、と頭のつま先の方から裸足の足音が聞こえた。
立ったままの相手の顔は見えなくて、俺は開いた目を僅かに凝らしてみる。お迎えかな、なんて縁起でもないことを思ったら起きてください、と声が俺を呼びかけた。
『まったく、世話の焼ける人ですね』
そう言った影は、声は、拓真は、頭側からしゃがんで俺を見下ろしている。拓真のやさしい微笑みはほんの僅かな切なさを灯していて、俺にいつも生きるためのヒントを託してくれた。
声は、ノイズ全部を掻き消した透明。
『ちゃんと見てください』
「…なにを?」
『目には見えない大切なもの』
目元に手をかざされた途端、次第に意識が遠くなる。
『忘れないんでしょう、だって。
人間。失くしたくない本当に大切なものは』
─────────
──────
───
「…まただ」
もう何度目かのそれに、俺は天井を見たまま呟いた。
最近、目が覚めると泣いている。
法則がある。昼寝や仮眠の時には現れず、それは決まって眠りについてから、夜を越え、朝を迎えた時にのみ溢れているのだ。
事故に遭って意識を取り戻した患者が精神的ショックから突発的に“記憶のぶり返し”を起こすことは珍しくないらしく、医師には正常な防衛反応だと言われた。
人間の脳は元々、寝ている間、記憶するに値しない夢の処理は行わない。明け方に見る夢やその内容を思い出せなかったりするのは、目まぐるしく情報処理を行う前頭連合野という部分が取捨選択を行い、不必要な映像を切り捨てるからだ、と聞いたことがある。
今回のこれもそれに近しいのだという。要するに俺が思ってるより俺の身体は事故に怯えていて、脳が記憶するより前に傷ついて叫んでいる…と、そういう理屈。俺の意思そっちのけで。
「…女々し」
てかそんなのあんのか。
意識を取り戻してから、事故った足や腹は痛いけど容態は安定してる。ある程度療養したら退院して学校にだって行ける。…それなのに。
なんでかずっと虚しい。
心にぽっかりと穴が空いた。そんなふうに、昼夜問わずずっと空を眺めてる。探しても、願っても、
あの子はもういないのに。
「………歩こう」
三秒間。人が死ぬのに有する時間。
地球上では多くの国で、指を3つ折る間に人が死んでいる、というのは前に古典の教師が言っていた言葉。
俺が今、松葉杖で一歩を踏み出すたび、命の産声を上げた赤子が絶命してる。当たり前みたいに血が流れて、傷つけあって、それでも何事もなく笑ってる裏側の世界がある。その様はなんだか異質だ。
でもそれを口に出して慮ったら、それはそれで奇異の目で見られる。
────────忘れないんでしょう、だって。
自販機のボタンを押してペットボトルが落ちるのと同時に、拓真の声が浮かんだ。大丈夫だ。ちゃんと覚えてる。夢の中で過ごした日々のこと。ひとりひとりが伝えてくれた言葉。死んだみんなが生きてる俺に話してくれた。忘れてなんかない。俺は、何も。
何も。なのに。
「───でさぁ、聞いてよ。この前席替えしたんだけどそれが超、超、超最悪でっ!」
ペットボトルを持って病室に戻るとき、反対側から二人の女子が歩いてきた。同い年くらいの高校生だ。俺と同じように片足にギブスをはめて松葉杖をつく女子に、隣を歩く制服姿の子が身振り手振りで熱弁している。
「なんとなんと! 高木と一緒になっちゃったんだよ〜!」
「うっそマジで! でもあんた、高木くん結構かっこいいとか言ってたじゃん」
「ないないない! だってめっちゃうるさいし授業中とかもちょっかいかけてくるんだよ!? あいつが隣の席とかもう今後が思いやられるよ…」
隣の、席。
────────俺たち隣の席同盟だから
「え?」
ふ、と突拍子もなく自分の声が脳の髄から聞こえた。
呼応するみたく次第に呼吸が早くなり、小刻みに、一つ一つ、多分自分が無意識に隔離していた空間から忘れていた記憶が急激に浮上してくる。
────────ごめんね、久野くん
────────なんで星村が謝るんだよ
「あ、」
記憶のパズルはほぼ粒子化していて、型に嵌める事もままならない。でもそれぞれが意志を持ってあるべき場所を把握していて、光の塵は急激に夜を駆け、物凄い速度で集積していく。それが落雷みたく一気に地上に落ちた途端、堰を切ったように断片的な情景がフラッシュバックする。
「…っあ、」
彼女の笑顔。辛そうな顔。泣いていた顔。あの時伝えたかったこと。思い出したから走ったんだ。繋ぎ止めたかったから救おうとした。知ってたから。俺が。俺だけが、彼女が強くないことを。
“───怖いね、【児童虐待】だって。
双子だよ。おにぃ、今のご時世、ふつうに生きていられるだけで奇跡かもね”
“あー。そうな”
“ちょっと。聞いてんの、おにぃ”
“聞いてる聞いてる。なぁお前ハサミ貸してくんない?袋とじ開かねーわ”
“もうおにぃサイッテー!!”
遠い夏の日。尻目に見た、テレビ画面に映し出されていた双子の名前。星那と月菜。
小学生の頃。通りすがった病室で見上げた読めない漢字のネームプレート。深い青。───星村深青。
ミオが持ってるペンダント。あの遺骨ペンダントを渡したのは、託したのは、泣いていたのは、見つけたのは、
──────────やるよ
どうして俺は、こんなに一番、大切なことを。
「星村…っ」
「星村! 星村どこだ、星村!!」
「恭平っ!?」
「来るって聞かなかったんです、無理に動いたらだめなのに誰か、お兄ちゃん止めてください!」
「星村!!」
無理くり病院を抜け出したせいで、身体中が痛みに悲鳴を上げている。学校の教室に辿り着くと授業中だったのかクラスメイト全員の視線が一気に刺さった。知るか。どうでもいい。それでも探した。呼んだ。叫んだ。俺を見て立ち上がったヒデを見つけると一気に踏み込んでその胸ぐらを鷲掴む。
「ちょっ…恭平、苦し…っ落ち着けって、」
「知ってんだろ全部…っどこやったか話せよ、あいつは!!」
「うちの病院にいる」
声は、よっちゃんからだった。
もう世界がそれしか見えていなかった。その他の全部が透明になったみたいで、ヒデから手を離しゆっくり席を立った紺野目掛けて距離を詰める。そのまま同じようにネクタイを掴んで引き寄せると目と鼻の先で問いかける。
「───…お前」
なんで隠した。なんで嘘ついた。なんで早く言ってくれなかったんだ。
確かに怒っているのに、泣いていた。悲しかった。感情はもう制御が効かずにめちゃくちゃで、体がこれ以上にないくらい熱を孕んでいて、同じように瞳に冷静な青い炎を灯していた相手が瞬間、俺の胸ぐらを鷲掴む。
「こうなるのわかってたからだよ」
「っ」
「───考えたことあるか。さっきまで普通に隣で笑ってた友人が急に事故ったって深夜に親から言われていざ病院行ってみたら意識不明の重体で、どうなるかわからないって言われながら集中治療室の前で一晩気が気でない時間ずっと過ごしてやっと夜が明けたと思ったら昏睡状態いつ意識が戻るかわからない、連日必死な思いで呼びかけても反応しない目覚めない、そんなお前に毎日妹が、ヒデが、おれたちが!! どんな思いしてたかお前考えたことあんのかよ!!」
青い炎は、怒気を超えて泣いていた。
ヒデも、妹もそうだった。言われて振り向き、怒りながら、それでも大粒の涙を流してくれる人たちを俺は蔑ろにしようとしてたこと。その気はなくても、どんな嘘よりも裏切りに近い、自分を投げ打ったその業。一筋流れた涙をすぐさま手で振り払ったよっちゃんは、斜め下を見てぶっきらぼうに呟いた。
「放課後、15時30分。教員用昇降口で待ってろ」
「…よっちゃ」
「ちゃんと連れて行く。けど一旦病院に戻れ、生憎おれもヒデも学校だ。その調子じゃ静止振り切ってきたんだろ、おれたちもうガキじゃないんだから夕方から外出出来るよう謝って大人しくすんのが筋だ。
おれは悪いことをしたとは思ってない。お前は今言ったこと、頭冷やして一度よく考えろ。話はそれからだ」
☾
放課後、指定された学校の教員用昇降口で待っているとよっちゃんは約束通り誰よりも早く来てくれた。その後すぐ到着した事前に手配していたというタクシーに二人で乗り込んで、よっちゃんの父親が院長をしている大学病院へと向かう。
都内でも俺の入院している病院とは電車4駅ほどの場所に建物はあって、さすが病院長の息子が隣にいるお陰で受付を通さずに集中治療室に向かえたのは気を急いでいる俺には好都合だった。
──────「星村深青」。
そのネームプレートを見るだけで逡巡する俺に、口に人差し指を添えてゆっくり戸を引いてくれたのはよっちゃんだ。
開けた視界にいた。そこにいた。あった。俺が護りたくてずっとずっと探していたものは、───目を閉じて眠っていた。
白い肌に、夜みたいな紺色を帯びた黒い髪。個室の天井には星のウォールステッカーが成されていて、狂い咲きする桜みたいに、その一つがまだ暗くない部屋の一角で間違って光るのを、綺麗だと思った。
「事故のショックで意識を失ってから目が覚めてないけど、お前がとっさに庇ったお陰で奇跡的に外傷はない。
───“片側二車線の歩道橋、それも5メートルの高さから落下”して左脚の複雑骨折、折れた肋骨が胃を損傷して一時は本当に危険な状態だった。それなのに無傷のこの子より先に目を覚ましたんだ、超人かお前は」
「………言おうと思ったんだ」
「…え?」
「思い出したって。
俺たちずっと、出逢う前に出逢ってたこと」
だから手を伸ばした。伝えようとした。死なせるわけにはいかなかった。酸素マスクを着けて瞼を伏せたその身体は、確かに、呼吸をしている。でも覚まさない意識を目の前にして、今になってやっとその意味がわかった。
「あいつが怯えてたのは夜じゃない。
自分を殺そうとしたその日から、生きることを怖がってたんだ」
ミオが俺の胸で泣いたとき閉じ込めて離したくなかったのは、きっと、そのせい。
探していたものに辿り着けたと思ったのは、そのせい。
「…飛び降りたんだ。生きるのに怯えるどころか、死にたがってるのは当然だろ」
「違う」
「え?」
「本気で死にたがってる人間が、なんであんなこと言うんだよ」
夢の中。死に向かう暗闇の病院の屋上で俺を“こっち”へ突き飛ばしたあの瞬間。落下しながら確かに見て、聞いたんだ。朝焼けに眩んだ目で、笑いながら、それでも泣いていたミオを。
──────「またね」って言ったあの声を。
彼女は生きようとしてる。それなら、あの場所で過ごした時間も、記憶も、今も全部無駄じゃない。
失ってばかりじゃない。
「…星村」
屈んで、そっと額を彼女の眠るベッドの角に寄せる。
心電図モニターから届く落ち着いた定期的な音が、耳に流れ込んできた。
この家はいつだって、
あいつの嗜虐の真ん中にいる。