俺がルナのトイレに付き添ったとき、ルナはもう8割型寝ているような状態で、病室に戻ってベッドに寝かしつける手間はかからなかった。布団を被せてすやすやと寝息を立てるのを確認してさっさと病室を出ると、さっき行ったルートをあくまで失敗しないよう、急いだ。
丁度ナースステーションのカウンター下を屈んでいたミオに合図を受け、四つん這いで這い蹲って廊下を抜ける。こんなミッションインポッシブルが目下で繰り広げられていることを、カウンター内で話している夜勤の看護師二人は予想だにしなかったろう。
後で聞いた話、本来であれば巡回中、病室をきちんと確認する看護師たちもミオの病室に限っては彼女の病気のこともあって好き好んで寄り付かないそうだ。
普段、夜驚症を発症して看護師を呼びつけがちなミオの元へ出向いて、わざわざ大人しく眠っている日の彼女の症状を誘発する必要はないという、建前だ。
その証拠に、「今日は平和な夜ね」なんて会話が頭上から聞こえた。
廊下の突き当たりにある非常階段の扉を押すと、重たいギ、という音がした。見上げた夜は空にところどころ雲がかかっていて、合間には疎らな星が光っているのが見える。
「ここまで辿り着いたの、はじめてかもしれない。わくわくする」
「俺は今もなお目の前に立ちはだかる最終難関の階段に泣きそうだよ。ポールにしろポールに、消防署みたいな」
声を出さずに笑うミオを見下ろして、ふとついさっきの彼女の表情が蘇った。
俺の発言に驚いたような顔をした。あれは、なんだったんだろう。
「………なあミオ、さっきさ」
「?」
「…いや、やっぱいいや」
油断は禁物で、雑談もその辺に松葉杖を託して足音を立てないよう階段を降りる。
無事コンクリートから病院の敷地の地面に着地すると、小走りになるミオを追いかけて松葉杖で走った。
病院の綻び、正面玄関とは別の穴が開いたフェンスの扉を開けて、病院の外に出る。
かしゃん、と軽い音が鳴り、振り返ると学校みたいなコンクリート打ちっ放しの病院の外観が遠ざかっていく。それは夜だとどこか廃病院のようにも見えて、あの中に収監されてたんだな、と思うといよいよ自分たちが脱獄犯にも思えてテンションが上がった。
☾
夜を駆けると、丘に辿り着いた。
見晴らしのいい高台から、月が雲の毛布を被って、夜にひとりで眠っているのが見える。
深い青色の絵の具に、バケツいっぱいのスパンコールを散りばめたみたいな天望は、ミオが言った絶景の天体観測スポットの所以を身を以て思い知らされる。
満月の夜は、強すぎる月の光のせいで古い星の光が見えなくなる、と聞いたことがある。だとすると今宵は満月じゃないのかもしれない。
煌々と光る月に、それを囃すようにさんざめく星が泣きたくなるくらい綺麗なことを、たぶん生きてて初めて知った。