「これ、私の一番好きな話なの。
 スーザンバーレイの、“わすれられないおくりもの”って絵本で…」
 
 
 瞠った目の片方からぽろ、と涙が落ちる。自分でも無意識で、ミオがギョッとした瞬間思わず慌てて背を向けた。
 
 
「…泣いてる…」

「泣いてない」

「涙出てる」

「花粉!」


 あーすげー花粉だ、とか言いながら後から後から溢れてくるそれを何とか押し殺そうとしたって、堰を切ったように零れ出すから困る。
 
 ダサい。ダサすぎる。男が絵本で泣くとか。いやでもめちゃくちゃいい話だった。

 誤魔化しきれてない誤魔化しで背を向ける俺を、ミオはどう思ったんだろう。忘れた頃に、背中から優しい問いかけが届いた。
 
 
「恭平にも、忘れられない物語はある?」

「……昔、幼い頃。病気になって寝込んだときとかに、母さんが決まって読み聞かせてくれる絵本があった。葉っぱの一生の話で、四季折々を綴りながら進んでいく、今思えば寓話。でも文字が多くて、大抵同じとこで寝ちゃうからさ。しばらく経ってから物語の結末が気になって探したんだよ。父さんの書斎、寝室、子供部屋…けど、きっと隠してたんだろうな、中々見つからなくて。やっと見つかって読んだのは全部が終わってからだった」


 それ以上言及されるのが嫌で早口で話した。着地で間違えたな、と背を向けたままの俺に、それでも耳を掠めたのはミオの優しい声色だ。


「恭平も、物語に救われたんだね」


 ギシ、とベッドが軋む。振り向くと、立ち上がったミオがぐっと伸びをしているところだった。
 
 
「そろそろ戻る。検査ってったって、こんな長いこと留守にしてたら、さすがにみんなが心配する」

「…おう」

「今度来るときは涙ちゃんと拭いとけよ」

「るっせバカ!」


 カッとなって涙目のまま吠えると、意地悪く笑ったミオがしし、と口元に手を添えて、そそくさと出て行った。…うわーすっげやな奴だなあいつ。そしてそんなやつに弱み握られた。
 
 女子に泣き顔を見られた羞恥心やら、今後の立ち回りにくさやらで赤くなったり青くなったりした末、最後の涙を拭ってベッドに寝転ぶ。
 

“恭平も、物語に救われたんだね”


──────恭平“も”ってなんだよ。

 お前にも、それを失くせない理由があんのかよ。
 
 小骨が引っかかったような感覚を探ろうとするのに、うと、と眠りの世界に引っ張られる。

 心地よい微睡みに抵抗する間もなく、俺はそのまま眠ってしまった。













 ぱち、と目が醒める。

 視界いっぱいに広がる、無機質な大部屋の天井。



 

「いでで」

 二時間近く眠っていたみたいだ。
 
 寝返りを打たなかったのか腰が痛く、起き上がるなりぐっと伸びをする。体が凝り固まっていたのか、バキバキ、と背中が鳴った。
 
 時刻は14時を回っている。俺の盲腸の手術は16時か17時か、確かそこらへんだったからまだ時間に余裕はあるはずだけど。てか手術当日の患者ってこんなフリーな感じなのか。あまりにも野放しにし過ぎじゃね。…付き添いとか無いからだろうか。
 
 手術当日は9時まで食事は摂っていい、とのことだったけれど、それ以降は絶飲・絶食との説明を受けた。朝軽く食べたっきりで飲み食いなしとなると腹も減る。呼応するようにくう、と間抜けな腹の音が鳴ってわかってるよ、と思った。食事はまだしも絶飲ってのも結構キツい。
 
 
「…気晴らしにでも行くか」


 病院の図書コーナーは小児病棟の近くにあったはずだ。キッズスペース、所謂ミオたちがいつも集まっているそこは多目的スペースにあたる。ロビーのコンビニ近くにも確かこじんまりした書店があった気がするが、恐らく小児向けの絵本なんかは置いてない。
 
 俺が昔に読んだあの絵本はあるのだろうか。
 
 純粋に興味本位だった。てんけ、てんけ、と松葉杖を突いて廊下を歩くと、エレベーターに乗り込んで一階のボタンを押す。数秒経ってから鈍い音と共に扉が開く。
 
 もう見慣れた景色を数歩歩いてから、あれ、と思う。妙だ。
 
「………人の気配がしない」
 
 いつもなら、エレベーターが開くなり遠くの方で子どもたちがはしゃぐ声や、廊下に出ればひとたびその姿が見られた。でも今日は声どころか、人っ子ひとり見当たらない。…天気がいいから外で遊んでるとか? 集団検査の日とか。いやまさか。

 そこでどこからともなくワゴンを押すような音がして、反射的に部屋の扉に隠れる。なんで隠れたかはわからない。でも完全に勘だった。ガラガラガラ、と激しい音を鳴らして廊下を通りすがったのは、看護師二人だ。
 

「───で、首は縦に振ったわけ?」

「全然。長いこと説得が続いてるみたいだけどだんまり決め込んでるらしいわよ」

「かれこれもう二時間になるじゃない、なんのために他の子達を外にやったと思ってるの…最後まで手がかかるんだから」

「だから先生も強行手段に踏み切ったんでしょ」


 遅いわよ、なんてやりとりがワゴンの車輪の音にかき消される。他の子達を外へやった。強行手段? 訝しみながら彼女らの行く先を目で追い、ぐっと細める。と、小児病棟の奥、ミオの部屋に人集りが出来ていた。
 


 
「ねえミオちゃん、何も私たち、あなたをどうこうしようとして言ってるんじゃないの。“集中ケアルーム”に入ったら、ここよりもっと貴女の病気を知ってるエキスパートの先生たちが、あなたの病気の改善のために頑張ってくれるのよ。先進医療も備わってる」

「…」

「自分の意志で行った方が楽だと思うな」

「…」

「…どうしても嫌だって言うのね」


 説得を続けていた、ミオの専属カウンセラーと思しき小太りの女性が退く。彼女が目配せをする前に、この空間に明らかに浮いている感染予防着を纏った連中が、ミオを取り押さえた。


「いやだ離せ! 隔離病棟なんかに行きたくない!」

「ミオちゃん君は病気なんだよ。君が思ってるよりずっと重篤な。このままのさばらせてるわけにいかないんだ。アレを」

 予防着の合図で看護師が何かを手渡す。あれは───注射器だ。

「顔抑えてろ噛み付くぞ」

「大丈夫だよーちょっとチクッとするだけだからねー」

「やだっ…───やだやだ、嫌!! 恭平!!」


 体が先に動いていた。全力で予防着に飛びついて注射器をふんだくる。そのまま他の医師が間合いに入ってくる前に、注射器を予防着医師の首に突き付けた。
 
 あーやっべ俺足折れてんの忘れてた。
 
 松葉杖を置いて走ったのが原因だ。突如気が遠くなるような左足の激痛に見舞われて首を擡げる。取り押さえた予防着が抵抗した瞬間、その注射器を男の腕に突き刺した。
 鎮静剤か何かだろう。目を瞠ったかと思うと、口を開けてかーかーと鼾をかき出す予防着を看護師に投げて渡す。
 
「誰だ、何をやってんだお前は! 頭おかしいんじゃないのか!?」

「いやそれこっちの台詞だわ! 何やってんだよあんたら、こんな注射器使ってさ、強引に隔離病棟に連れてこうなんてまともな人間のすることじゃないだろ。ミオの気持ち全然尊重してないじゃん」

「毎晩彼女のためだけに人員を割くわけにはいかない」

「そんな理由で、」

「小児病棟の患者数名が不眠・怯え等の症状を訴えている。いずれも彼女の病室に近い新規の患者だ」


 

 目の前が真っ暗になる。それって、と訊き返す前に医師がその場を軽く見回した。


「彼女のせいで怪我を負った者もいる。今この場にいないスタッフがそうだ。彼女の病気は既に小児病棟で手に負える段階を超えている、ましてや心身共に未熟な子どもたちの場合、体だけじゃなく本人たちの気付かない所で精神に支障を来すことだって考えられる。それは即ち彼らの術後の経過に影響を及ぼすということだ」

「…っ」

「もうその子の病気はその子だけの問題じゃないんだ。
 彼女のせいで、この病棟の患者が危険に晒されるんだよ。君だって、それは望んでないだろう?」
 
「…恭平、どいて」

「っけど」

「もういいんだ」


 医師の言葉に、俺の後ろにいたミオが俯いて前に出る。成す術はなかった。だって、そんな風に言われて何を言い返せるって言うんだ。
 
 他の患者に影響が及んでいることも。医師が言うんだから間違いない。事実きっとそうなんだろう。でもそれをミオの目の前で言う必要はあったのか。そんなこと言われてミオが首を縦に振らないわけがない。その為にここでみんなに尽くしてきたミオをあんたらは、
 
 子どもたちを理由に連れてこうって言うのか。
 

「…恭平」

 考えるより先に動いていた。反射的にミオの手首を掴んだことで、彼女が驚いたように振り返る。
 
「お前の意見を聞かせてくれ。他人のことはこの際全部無しにしろ。ミオが何を優先したいのか。俺はその通り動くから」

「…」

「ミオ、お前はどうしたいんだ」

「………あたしは……」


 真っ直ぐ睨み据えてやると、深い夜みたいな青に途端、星が散りばめられた。無数の光が散って、両目から溢れ出す。
 
 
「………みんなと、一緒にいたい」


 以外ねえだろ普通。
 
 軽く笑って、即座にその手を引いて背に回す。はっとして前のめりになった大人たちにばっと手のひらを突き出した。
 
「三日」

「なん」

「三日猶予をくれ。俺が入院してる残り三日。その期間に必ずミオの夜驚症を克服させる」


 
「は、はぁ? 10年かかって治らなかった病気よ!? そんなこと出来るわけ」

「お願いします」


 自分勝手で傲慢だ。他人のことを顧みていないに違いない。それでもミオを救いたかった。ともすれば崩折れてしまいそうな希望にすら、今は縋る他なかった。深く頭を下げる俺に、医師たちが絆されたのかはわからない。
 
「せいぜい悪足掻きするといい」
 
 少しの間があってから誰かがそれだけ言い残して、顔を上げた時にはもう、大勢の医師たちが背を向けて歩いていくところだった。

 傍らにはミオがいる。
 
 何を言うべきか、と考えていたら向こう側から誰かがやる気のない足取りで歩いてきた。金髪黒縁眼鏡のナース、レオナちゃんだ。
 

「いたいたー。もー探したんだからーちょっとだけ」

「ちょっとかよ」
 
「急にいなくなんないでよ。忘れてんでしょ、今からきみ手術だからね。盲腸」

「そうだった」

「はいGO GO」

「わーかったから押すなって」


 それが仮にも患者に取る態度か。足折れてて早く行けない俺の背中を片手ではよ、って誘導するレオナちゃんに渋々その場を離れる。
 
 あー今から手術か憂鬱だな、と思ったとき、背後から「恭平」と呼び止められた。
 

「…ありがとう」

「…まだこっからだよ」













 残された時間は、退院までの三日間。
 

 


「ただいまー」

 小児病棟、多目的ホールの一角。扉を開けて帰ってきた俺が上着を脱ぐ仕草をすると、奥からぱたぱたとルナが駆けてきた。
 
「おかえりなさいあなた、おしごとお疲れさま」

「いやーマジで疲れたよ、取引先の新人がかくかくしかじかでぽんこつでさぁ」

 ルナと俺は、夫婦である。
 
 もちろん本当のではない。というのもただいま、ままごとの真っ最中なのだ。たいへんねー、なんて言いながら俺の脱いだ上着を受け取る仕草まで忠実に再現するルナは、よもや5歳児とは思えない演技力ですっかり俺の奥さんに成り切っている。

 
「汗かいたでしょ。お風呂にする、ごはんにする、それともわ、た、し?」

「お前それどこで覚えたの」

「ヤダもう早く座って♡ 今日はアナタの大好きな煮っころがしでーす!」

「俺の好きなもの渋くない?」


 マジでほんと5歳児かお前。背中にチャックとかついてんじゃあるまいな、と絶妙な設定を訝りながら椅子に座る。同じように隣に腰かけたルナが、おもちゃの器と箸を取って、それからふー、ふー、と息を吹きかけた。


「はい、あーん♡」

「…いや俺足折れてはいるけど腕は使えるから。自分で食べれるよ」

「だめだよ! 新婚さんなんだから! 前に新婚さんはみんな奥さんが旦那さんにあーんってするって言ってたもん」

「それどこ情報だよだいぶ稀だぞ!」

「………恭ちゃんルナにあーんして欲しくない…?」


 うる、と涙目で見上げられてうっと言葉に詰まる。息子役で待機しているセナの目が光ったように見えてぶんぶん顔を振るといや、と笑ってみせる。そのままぱく、と食べる仕草をしたらふわ、ともちもちのほっぺたが落ちんばかりに破顔した。


「美味しい?」

「うん美味しい」

「えへへーっ。そしたら今度はこっちね」


 演技なのに心底嬉しそうに食卓を囲う姿が目に見えるんだから凄い。ルナの一種の才能かもしれない。一つ一つの料理を説明しながらこれはね、なんて語る姿は愛嬌で溢れてるし、見た目だって目も大きくて可愛らしいから、きっとこの先大きくなったらモテんだろうな、なんて親目線で見ていたらぐい、と俺とルナの間に誰かが割って入ってきた。

 ミオだ。



 
「ちょ、ミオ。お前娘役だろまだ入ってくんの早いぞ」

「どっかの誰かさんが子どもに向かってガチで鼻の下伸ばしてっから自主規制入んないとなーと思って」

「誰が鼻の下伸ばすか!」

「えーっ? 恭ちゃんルナにときめいちゃったの!? 嬉しいっ! 恭ちゃん、じゃあルナのお嫁さんにしてあげるーっ」

「婿じゃなくて?」


 ミオを押し退けてぎゅーっと真っ向から抱きつかれて苦しい、と思うのに可愛いから無下に出来ない。苦笑いしていたら押し退けられて猫が毛を逆立てるような反応をしたミオが反対からぐい、と俺の腕を取った。


「ルナ! 恭平はやめとけこいつお前に本気で手をだしかねない変態だぞ」

「出さねーわ!」

「いいよ! だって恭ちゃんはルナの将来のお婿さんだもん! ねーっ」

「ねーと言われても」

「大体ミオちゃんだってずるい! 恭ちゃんと二人っきりでどっか行ったりしてんのルナ知ってるんだから! ひとのもの盗るなんて意地汚いわよこの…っ泥棒猫!」

「ルナほんとお前どこでそれ覚えたの」

「恭ちゃんは渡さないっ!」

「こっちだって渡さない!」

「いだだだだだ! 両サイドから腕引くなもげる! 息子! 息子役! セナ警察呼べ」

「警察ーっ!!」

「いや叫ぶんじゃなくて電話しろ!!」

「───ごめんください。愛人(ミオ)の息子の拓真です。覚えてますか、父さん」

「だーっ! どんなドロドロままごとだよややこしいっ!!」


 







          五日目








 

「はー…やれやれだぜ、偉い目にあった。なぁミオ」


 ままごと、という名のドロドロ人情劇を終え肩を回す。自由時間が終わり、例の如く子どもたちが検査やら検温やらで病室に戻るのを見送ると多目的ホールは静寂に包まれた。だと言うのに、隣に立つミオは聞こえてるはずが腕を組んでそっぽを向いたままだ。


「おい」

「…」

「たかだかままごとだろ。何ムキになってんだよ」

「ムキになんかなってない!」

「なってんだろ現在進行形で」


 冷静なトーンで言ったらかえってそれが癪に障ったのか、キッと睨みつけられた。それでいてどこか拗ねたような反応にますます意味がわからず小首を傾げていると、バシッと着ていたパーカーを投げつけられる。


「いてっ! 何すんだバカ」

「恭平のバカ、タコ!」

「ぁあ!? てかどこ行くんだよ夜驚症克服の作戦考えんじゃねーのかよ」

「あたしは検査だ! てめー一人でやってろクズ!」

「……っはぁー!?」


 いきり立って叫ぶなりどかどかと歩いていく背中に訳がわからず叫ぶ。俺そんな怒らせるようなことしたか!?


「恭平さんって、結構ニブいですよね」

「拓真」


 さりげなくフレームインした車椅子がキ、と小さな音を立てて俺の隣に停まる。何が、と仏頂面で口を尖らせたら、曲がり角へと消えて行くミオを見送った拓真が、ゆっくりと顔を上げて。

 にこ、と微笑んだ。


「ヤキモチですよ」


「…誰が?」

「…もういいです」


 かく、と漫画みたいに車椅子の肘置きに置いていた腕を外す拓真に、一層理解が出来ず疑問符を浮かべる。ヤキモチって、あれか。俺にか。別にルナのこと取って食いやしねーよって言うのに、拓真にはやれやれといった感じで首を左右に振られた。なんなんだ。


「…つーかあいつ口悪すぎだろ。どんな教育受けたら一体あんな乱暴な口叩けるようになんのか、甚だ疑問でしかねーわ」

「それは、バレないようにしてるんじゃないですか」

「何を」

「さあ?」


 肩を竦めてすっとぼける拓真に、目を細める。


「人が嘘をつくのは決まって、自分か、大切なものを守りたい時の二つに一つです」