「久野、ちょっと」


 秋が過ぎ、冬の始め。新しい担任が久野くんを呼び出したことがあった。

 新しい担任というのは、丁度その頃元々私たちの担任をしていた古典の先生がおめでたになり、酷い悪阻でとても教壇に立てる状況ではなくなってしまい、まるで舞台俳優の衣装替えのようなスピードで担任が入れ替わったのだ。

 卒業まで、残り四ヶ月。受験前でピリピリしている思春期の高校生、更にそんな時期に配当された新担任もストレスが多かったのか、久野くんはよく、その頃廊下で先生と口論になっていた。


「だから! 面談に呼ぶ親がいねーんだって何度も言わせんなボケ」

「ボッ…お前! それが教師に対する口の利き方か!」


 あぁ、大丈夫かな。はらはらと自分の席で廊下を見つめていると、ガタンと前の席の椅子が鳴って目の前が赤く染まった。ピンクっぽい赤色に髪を染めた、朝井出くんだ。彼は廊下に一瞥をくれてから、二重まぶたの大きな目に私を映す。


「気になる?」

「えっ? あ、や、えと」

「…星村ちゃんになら話してもいいかな」

「え?」


 顔を逸らした彼が、ちら、と視線だけを私にくれる。それからまたそっぽを向くと、座り直して指で二度、私を手招きした。


「…あいつさ。小学生の頃親失くしてんのよ。…癌だったかな。親父さんともそれを機に疎遠になっちまってるみたいで、成人するまではって養育費? ちゃんと送られてはくんだけど、普段は妹と二人みたいよ。だから怒んの。親連れてこーいみたいなの言われると。自分はまだいいんだけど、中学ん時なんか妹の担任にブチ切れたらしいわ」

「───…そう、なんだ」








 物事の本質を上っ面でしか見ていない。

 その時浮かんだのは、奇しくもあの日、あの男が私に言った言葉だった。言わば氷山の一角。実際この目で見えているものなんて物事のほんの一部分で、最早手が負えない状況に事態が深刻化していることが、世の中には、ある。

 何に関して思っているのだろう。私か。家族か。その全てにおいてか。こんなことを考えるのは、あいつに毒されている証拠じゃないのか。間違いを言いくるめて正当化した結論は、───逃げなんじゃないのか。

 あてもない、意味も見出せないことを止め処なく考えた果てにごつん、と机に額を落とす。