「…あれ? あれっ…!?」


 慌てて学生鞄の中身をごちゃごちゃ掻き分けていたらごつん、と机に衝撃があった。それはいつも教科書を忘れた時にくっ付けてくる久野くんの机で、彼は椅子を手繰り寄せながら小声でニヤニヤと私の顔を窺ってくる。


「あれあれ? めっずらしい。星村教科書忘れたの」

「え、あ、そんな…! そんなはずは」

「いいよいいよ。貸すから」

「え、ぇえ!? 悪いから大丈夫だよ」

「遠慮すんなって。こっちはいつもお世話になってますから」


 瞬間、肩がぶつかるほどの距離に久野くんを感じて息が止まる。口から心臓が飛び出そうになるとはこのことか、とバレないようにばくばくと鳴る鼓動をどうにか抑えて代わりに冷や汗が浮かんできた頃、教壇から久野ー、と呼び声が上がった。小太りの日本史教諭の声に、席についたクラスメイトの視線が彼に一点集中する。


「お前また教科書忘れたんか」

「え。ちげえます」

「嘘つけー。ネタは上がってんだぞ常習はーん」

「降参だよ刑事さん…お縄かけてくだせえ」

「時代背景がふるーい」


 間延びした先生のツッコミでどっ、とクラスに笑いが起きて、両手首を前に突き出す動作をしていた久野くんは鼻で笑って居直った。それ以上は言及せずいつも通り授業が始まってから、私は慌てて隣の彼に声をかける。


「…ごめんね、久野くん…私のせいで」


 肩身が狭くて肩をすぼめて小声で言ったら、心底不思議そうな面持ちで眉を顰められた。


「…なんで星村が謝るんだよ?」

「え?」

「別に、星村はなんも悪いことしてないんだから謝る必要ないだろ。強いて言うならいっつも教科書忘れてる俺のせい、因果応報」


───────────謝れよ。


 そう言われて初めて、普段。豹変した時に出るあの男に自分が是非問わず謝っていることを思い浮かべて、脳がその支配に毒されていることを思い知った。

 気を抜いたら泣いてしまいそうで、ありがとう、と素っ気なく伝える。自宅と学校。その両者に世界の縮図があって、笠井が言った通りの狂気と幸福の錯綜に、私は戸惑う。