ある日部屋に戻ると、死んだ兄がそこにいた。

「え。お兄ちゃん……?」

 お兄ちゃんは私の顔を見ると、「よぉ!」と笑った。

 いや、笑ってる場合じゃなくて。

 なんで居るの?

 死んじゃったでしょ、だって。

 何の違和感も感じさせず、生前と変わらない姿。

 生きてる時に定位置だったパステルブルーのソファーの上に、兄はすっかり寛いだ様子でいた。

「ゆ、幽霊?」

「はは。戻ってきちゃった」

「は? 意味わかんない」

「お前冷静だな、意外と」

 おかしいな、と首を傾げる兄に、私も同じ様に首を傾げた。

 全く知らない他人の幽霊なら絶叫驚愕しただろうけど、身内の、しかもずっと一緒に暮らしてきた人物だと、どうも相手が幽霊だと実感が湧かない。

 しかも私は、兄が死んだ時からしばらくの記憶が無かった。葬儀の時の記憶も、その後のバタバタした生活の記憶もさっぱり抜け落ちていた。

 だからこそ、兄ももしかしたら生きてるんじゃないかと思ってしまうのかもしれない。

 兄の死因は交通事故。

 居眠り運転のトラックが対向車線を大きくはみ出してきて、そのまま兄の車と衝突した……。

 実は私もその車に同乗していた。実家を出て兄妹で二人暮らししていた私達は、その日何年振りかに実家へ帰る途中で。

 奇跡的に助かった私に残ったのは、左手足の痺れと、事故から数週間後の兄のいない日常。

 まるでタイムスリップしたみたい。事故の日から、知らない内に数週間。

カレンダー一枚にも満たない間に、私が失ったものは沢山ありすぎる。

「戻ってきたって……。お兄ちゃん、幽霊になっちゃう位……事故を怨んで」

「いや別に。事故はもういいや」

「もういいやって。いいのそれで?」

「終わった事だしなー。相手を許せるかはわかんねぇけどさ。自分は良くても残された母さんとかを思えば、なぁ……」

「……」

昔から、超が付くほど優しく温和だった兄。こんな事になってもそれが健在だとは…恐れ入る。

でも、だったら。

なんでここに?

何が心残り?

  

 それから数日。

 兄はやっぱり定位置のソファーの上で、のんびり過ごしていた。幽霊がのんびり寛いでいる姿は……どう考えてもおかしい。

 しかも、兄が座るパステルブルーのソファーは、青空をイメージして私が選んだもので。白いふわふわのクッションは雲みたいだと何個か購入した品だ。

 ひとつは枕に、ひとつは抱え、残りは足元。

 空と雲を想像させるそこに呑気に寝そべってる幽霊の兄は、シュールすぎてツッコむ気にもならない。

「ねぇ、お兄ちゃんの心残りって何なの? それ解決しないと成仏出来ないんでしょ?」

「うーん……何だろうなぁ」

「はぁ?」

「生きてる時って、まさか自分が今日死ぬかもとか考えないだろ? 後で良いやって先送りしてきた事とか沢山あったし……どれが幽霊になった原因かなんて、解らないっていうか……」

「成仏しない位の心残りだよ? すっごい大きい事に決まってるじゃん! 解らないなんて絶対無いよ」

 兄は「うーん」と唸った。

「彼女を独り残してしまった事とか?」

「お兄ちゃん彼女いなかったじゃん」

「友達に貸したDVDの今後とか?」

「友達よりDVD!?」

「冷蔵庫にあったプリン……賞味期限近かったんだよなぁ。供えて貰ったら、俺食えんのかな?」

「……もうとっくに賞味期限切れだよ。てか、怒るよ!? 真面目に考えてないでしょ!」

 兄は私の言葉にヘラッと笑った。

 笑うと目尻に皺が出来て、良い人そうな顔が増々良い人になる。生前と全く変わらない笑顔を目の前にすると、今こうして一緒にいる事が凄く変な気がした。

 夢なのか現実なのか、わからなくなりそうだ。

「優子こそ、何でそんなムキになってるんだよ。幽霊の兄貴は面倒だから、早くいなくなってほしいのか?」

 ソファーの上で兄が少し複雑そうな顔をした。

 そんなわけないじゃん

 呟く。

 居て欲しいに決まってる。

 家族が死んだなんて認めたくない。幽霊でもいいから、そこに存在していて欲しいって、思う。

  

 でもそれじゃ、駄目だ。

「お兄ちゃんが死んじゃったのは悲しいよ。もっと一緒に居られると思ってたし。だけどさ、死んじゃったお兄ちゃんが成仏出来ないでこの世に残ってるのは、もっと悲しい。お母さんとお父さんも、知ったらきっと悲しむ……」

「……優子」

「あんなに優しかった息子なのに天国に行けてないって、もっと苦しくなっちゃうよ」

 ただでさえ、失った悲しみに苦しんでいるのに。

 縋りたい唯一の想像世界にすら、救いを感じられなくなってしまったら……。

「お前って本当、兄思い親思いの良い奴だなぁ」

 兄は笑った。穏やかな微笑みで。

 抱えていた白いクッションを見つめると、それを私にポンと投げた。

「優子は俺の自慢の妹だよ」

「お兄ちゃん……」

「俺なんかより全然優しい良い子でさ。思いやりもあるし明るいし、結構美人顔でモテるし」

「ほ、褒め過ぎじゃない?」

「頑固で素直になれないのが、致命的だけど」

「……」

 持ち上げられた瞬間、落とされたぞ……私。

 でも、本当の事だから何も反論できない。

 頑固で素直じゃないのは、自分でもよくわかってる。

 結局、兄の心残りについての話は進まず。

 上手く煙に巻かれた感がするのは、気のせい?

 成仏する気あるのかな、お兄ちゃん。

 そう思い兄を見ると、兄は窓の外、ベランダを眺めていた。

 レースのカーテン越しに見える植木鉢は、本来は部屋の中にあるべき観葉植物のもの。

 外に置き去りにされたそれは、枯れて見るも無残な姿になっている。

 私は、水やりが少なく手入れしやすい観葉植物ですら、枯らしてしまう女。……苦手なのだ。花木を育てるのは。

 逆に、それが大好きなのはうちの母親だ。趣味はガーデニング。実家の庭は花だらけで、部屋も緑と様々な色で溢れてる。

 勿論、観葉植物だって家のそこらじゅうにあった。

 あのベランダの枯れた鉢は、本当だったら元気に育ってるはずだった。ここではなく、実家でだけど。

  

 それが何故ここに置きっぱなしなのかと言うと……。

 届ける事が出来なかったからだ。緑青いうちに。

 あれは、あの事故の日、私が母にあげる為に用意したもの。

 手紙を添えて一緒に渡そうと思っていたのに、当日あろうことか肝心なそれらを忘れて出掛けてしまった。

 朝水やりをするためにベランダに出して、そのままだったのがいけなかったのだ。

 置いて行かれた緑は、事故を免れて。

 だけど、兄は死に、私もいない数週間……世話してくれる人に恵まれず、両手に乗る程の小さな観葉植物は枯れてしまった。

 渡せなくなった鉢と手紙。

 事故後、何度も実家へ行こうとしたけど、なかなか出来ないでいる。せめて手紙だけでも、と思っても、渡せない。行く決心と勇気が、揺らいでしまっているせいだった。

「優子? どうした?」

「お兄ちゃん……まさか……」

「え?」

「お兄ちゃんの心残りって……私の事?」

「……」

 哀しそうな微笑みが、全て教えてくれた……。

 実は私、実家の親とは少し気まずかったりする。

 理由は数年前の上京。

 猛反対する両親と大喧嘩のすえ、ほぼ強引に決行されたそれだ。

 その時は、こじれる仲を心配した兄が、私と一緒に暮らす事を両親に提案し説得してくれて……。

 結果、難しい問題を抱える事もなく、兄に頼りっぱなしの独り立ちを果たした私。

 だけど、その代わりに親との仲はぎこちなくなった。

 大喧嘩の時のわだかまりが、自分だけ、なかなか抜けなかったからだ。まあ、私が一方的にぎくしゃくしてるだけといえば、そうなんだけど……。

 母は、しょっちゅう荷物や手紙を送ってきてくれた。

 あんなに反対してたのに、手紙には「身体に気を付けなさい」とか「頑張ってね」とか書いてきたりして。

 そんな母に「ありがとう」の言葉すら、返す事が出来ないでいる。頑固で素直じゃない性格が、見事に災いしてた。

 気が付けば時ばかりが過ぎ、仲直りのきっかけを完全に見失ってる状態。

 

 良い方法も分からず、タイミングも逃しっぱなし。電話すら出来ずにいた。

 そんな状態を変えてくれたのは、やはり兄だった……。

 悩むよりも、思い切って会いに行けばいい、と。

「ごめん、お兄ちゃん。私、まだお母さん達に会いに行けてないや……」

「……優子」

「せっかくお兄ちゃんに背中押してもらって、家に帰る勇気出たのに。今は、その勇気消えちゃってて」

「……」

「ホント、私って最悪だよね。あの日も肝心なもの忘れるし。そもそも、私がもっとちゃんとしてたら、あの日はなかった訳じゃん? お兄ちゃんが死ぬ事も無かったんだよ? 私のせいだよ……全部。私がお兄ちゃん巻き込んだ」

「お前、そんな風に……」

「それなのに私だけ……。申し訳なくて、親の顔なんて見れない。こわいよ…」

 兄の顔が、悲しげに歪む。

「事故は優子のせいじゃない。母さん達だって、そう思ってる。だからそう言うな」

 ぽんぽん、と大きな手が私の頭を撫でる様に包んだ。

 


 その日の夜、私は久しぶりに夢を見た。

 実家にいる夢。

 鮮明なイメージ。

 仏壇のある和室に行くと、薄暗い中で母がひとり座っていた。

 テーブルの上には、ピンクの便箋と家族写真。

 母は、小さな声で写真に向かって呟いている。

『真一、ごめんね。ちゃんと守ってあげられなくて、ごめんね……ごめんね、』

 声と背中が揺れていた。

 私は思わず、仏壇へ目を向ける……。


 ***


 目を覚ました時は朝ではなく夜中。

 開けた目からは、ぼろぼろ涙が零れてくる。

 私は涙を拭う事も忘れて、タンスの引き出しを探った。

 一番上の段、右側の、小物をしまう小さな引き出し。

 そこから、一通の封筒を出した。

「やっぱり、それか……」

 封筒から便箋を取り出したところで、後ろから兄が声をかけてくる。

 音も無く背後に立った兄へ、私は振り向いて言った。

「お兄ちゃん。私……」

「思い出したのか?」

「私……私も、あの事故で死んでたんだね……」

 くしゃりとピンクの便箋を握りしめて。

 私は唇を噛んだ。

 

『真一、ごめんね。…ちゃんと守ってあげられなくて、ごめんね……ごめんね、優子…!』



 母は、そう言って泣いた。

 私の…名前?

 視線を向けた仏壇。

 そこには、

 笑顔の兄と並ぶ、もう一つの笑顔があった。

……私、だった……。

 それを見た瞬間、全部理解して。

 そして私は思い出した。

 甦る記憶――。



 左手足に走る激痛。全身が自分の物では無いような、不思議な感覚。ぼんやりしてくる意識。

 その中で、兄の声を聞いた。かすれた小声……「……ゆうこ、大丈夫か……、しっかり、しろ…」

 それが、最期。

 私は……兄よりも先に、逝ったのだ。


 夢か現実かわからなくなりそうだった数日間。

 幽霊の兄と過ごした数日。

 これは全部、現実だ。

 ただこの部屋は、

 幽霊の私が作り出した、夢……。

 まぼろし。