「ナツノ」


ふと名前を呼ばれて横を見る。私よりも遅く写真部の部室にやってきたシュンが、扉の横で私の名前を呼んだのだ。

放課後、写真部のシュンと私は時々この狭苦しい部室に集まっている。集まっているというよりは、私がシュンにちょっかいをかけにきている、が正しいけれど。部員は十数名いるはずなんだけれど、毎日ちゃんとここにやってきているのはシュンだけだ。他の部員の顔すら見たことがない。きっとシュンは知っているんだろうけれど。

もっとも、私は写真なんて撮る柄でもないので、ここへ来たってシュンの写真を見るか、写真を撮っているシュンを見るか、そんなことしかしていないんだけどね。


「遅いよシュンー、待ちくたびれた」
「別に待ち合わせしてないんだけど」


眉間にしわを寄せながら、部室の鍵のついた棚に仕舞われている黒い袋を取り出すシュン。その中には、高そうな一眼カメラが入っている。シュンの私物だ。それがどのくらいのレベルのものなのか、私には全然わからない。中学生の頃から、ずっとそれを相棒にしていることだけは知っている。


「今日は撮りに行くのー?」
「うん、いい季節だし」
「ギリギリ桜も咲いてるしね」
「今しか撮れないからね」
「でもどうせ現像したってまた全部束にして捨てるんでしょ」
「わかんないだろ、そんなの」


むすっとしたシュンの横顔は少しだけかわいい。あまり表情を変えないくせに、写真のことになると話は別だ。それだけカメラが大好きなんだろう。

シュンが写真を撮り出したのは中学一年生のとき。お父さんがくれた当時の型落ちデジタルカメラに随分とハマってしまって、いたるところで写真を撮っていたことを思い出す。忘れてしまうような些細な瞬間を切り残しておけることに魅力を感じるんだと、確かいつかのシュンが言っていた。


「で、どこで撮るの」
「校舎裏のプール沿い回ろうと思う、ちょうど桜も散りかけてるし」
「え、散りかけでいいの? 校門のがまだ満開に近いよ」
「消えかけのものの方が、案外綺麗に見えたりする」


ふうん、とシュンの言葉に適当な相槌を打つ。独特の感性。芸術性なんて持ち合わせていないから、時々シュンの考えを羨ましく思ったりする。きみには世界がそんな風に見えているのか、なんて柄にもなく感心したり。

そんな私にはお構いなく、大きなカメラを首からぶら下げて部室を出て行くシュンの背中を追った。

写真を撮りに行くとき、大抵シュンはほとんど口を聞いてくれない。私はただ後ろをついて歩いているだけだ。

そんな時、わたしはシュンの後ろを歩きながら考える。今日の話題はさっき言っていた消えかけのものについてだ。平凡なわたしが思いつくものなんて、バースデーケーキに刺さったロウソクの火、風に揺れるシャボン玉、まばたきの間の流れ星くらい。けれど、想像してみれば確かにそうかもしれないと思う。

すぐに消えてしまいそうなものほど綺麗に見えるものなのかもしれない。やっぱり、シュンの感性が羨ましい。


「ねーシュン、そういえばもうすぐ誕生日だね」


返事はないとわかっているんだけれど、単に後ろを歩いているだけなのはなんだか癪なので、時々何か喋り掛けてしまう。


「18歳だって、はやいよね。シュンと出会ったのは小学校1年生の時なのになあ」


靴を履いて校庭に出る。グランドで部活動に勤しむサッカー部や野球部が目に入る。もしかしたらあの中にスミくんもいるのかな、人数が多くて見つけられないや。高校3年の春。どの部活も、もうすぐ高校生活最後の大会が迫っている。

しばらく歩くと、校舎裏のプール沿いに辿り着く。この辺りは殆ど人気がない。散りかけの桜は風と対抗しながら頑張っていて、散ってしまった桜は地面を綺麗なピンク色に染めている。アスファルトに散った桜の花びらを見て、散った後も人を魅了するなんて、きみたちはずるいねえ、なんてそんなことを思う。

場所が変わって体育館が近くなったからか、中部活の音がよく聞こえる。バレー部の掛け声や集合の合図、バスケットボールの跳ねる音から吹奏楽部の下手くそな楽器の音。校舎に溢れかえった音が混ざる。私たち、もう高校3年生になったのか。よくわからないけれど、そんなことを実感したりして。

校舎に溢れる音たちが、シュンの写真に現れていたらいいなあとおもう。


「誕生日なんて、忘れてた」


ふと、シュンがカメラを構えながらそう呟いた。誕生日の話題、ちゃんと聞いてたのか。私の方が忘れるところだった。相変わらず反応が遅すぎる。でも、写真を撮っている時にきちんとした返事をくれるなんて珍しい。


「4月18日でしょ、バカだなあ」
「そっか、確かに毎年、桜が散った後に誕生日がくるんだった」
「自分の誕生日なのに、本当シュンってイベントに無頓着だよね」
「別に、毎年くるんだし、何かするわけでもない普通の日だよ」
「もー、毎年祝ってあげてるのに! 忘れたなんて言ったら怒るよ?」
「覚えてるよ。毎年ナツノが祝ってくれることはね」


自分の誕生日は忘れているのに、私が毎年祝っていることは覚えているだなんて、シュンのくせにかわいいところもある。


「だって、私がお祝いしなかったらシュンなんて、自分の誕生日忘れちゃいそうだもんね」
「ああ、忘れると思う。ナツノがいなかったら」


なんでもないみたいにそう言ってのけるシュンのこと、私はじっと見つめてみるけれど、会話が終わったと思ったのかまた写真を撮り始める。スラっとした細身の体はどの角度から見てもスタイルがいい。いつもは猫背のくせに、自分よりも高い位置にあるものを撮ろうとするときはびっくりするくらいピシッと背筋を伸ばしている。あ、それは当たり前か。

耳までかかるふさふさの黒い毛は、出会った時からずっと変わらず綺麗なままだ。散りかけの桜をレンズ越しに捉えながら、シュンは何度もシャッターを切る。


「シュンがいなかったら、私は消えちゃうかもよ」


ぼそりと呟いた声はきっと彼に聞こえなかっただろう。騒がしくなってきた帰宅部の談笑と、運動部の地面を駆ける音にかき消されて。聞こえないことをわかっていて呟いたのだから、それでいい。


シュンの誕生日がやってくる。


17歳が終わる、と聞くとなんだかとても不思議な気分だ。

華のセブンティーン、そう言われる所以はよくわかる。確かに17歳の私たちはきっと若くて一番楽しい時期なんだろう。よく言えば青春真っ盛りの年齢だ。

テレビドラマでも、映画でも、小説でも、少女漫画でも。いつだってヒロインはきっと17歳だった。

けれど自分がその年齢になったところで、本当に青春を謳歌しているのかは甚だ怪しいところだ。シュンのように恋愛のひとつもしないで終えていく17歳もあれば、今聞こえている音のように部活動に励む17歳もあるし、私のように子供じみたレンアイをして終えていく17歳だってある。

どれが正解なのかなんてわからないし、そもそも正解なんてないのかもしれないし。私たちにわかっていることは、これからもずっと歳をとり続けていくことだけ。この場所で過ごす高校時代はきっと人それぞれなんだろう。

シュンの後ろを追って歩いていたけれど、ふと懐かしいにおいにつられて顔をあげた。カルキくさい、けれど嫌いになれない、青いプールサイドのあのにおいだ。


「シュン」


幸い水泳部は今日活動をしていなかった。いつもは反応しない私の声に、またも珍しくシュンが振り向く。


「ね、きっと綺麗だからちょっと登らない?」


クイッと顎を斜め上のプール場へとあげてやる。シュンは表情ひとつ変えずに「いいよ」とつぶやいた。


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春のプールサイドは真夏よりも案外心地がいい。
ローファーも靴下も脱ぎ捨てて、ざらりとしたプールサイドへ駆け上がると、独特のあのにおいがさらに強くなって鼻孔をくすぐった。


「わー、なつかしいなあ」


うちの高校のプールは夏前、あたたかくなると水泳部がこぞってプール開きをする。室内プールではないので、冬場は使われていない。最近部員たちが少しだけ掃除をしたんだろう。今日は水泳部休みの日か、それか近くの温室プールに練習に行っているか、どちらかだ。

ゆらゆらと揺れる水面に、いくつもの桜の花びらが浮かんでいる。水色に浮かぶピンク色に、何故か心がぎゅっとなって目を逸らした。シュンも同じだ。

四角いプールの周りに植えられた桜の木は夏になるといい木陰をつくってくれる。何度この木陰に助けられたかわからない。


「滑るなよ」
「滑らないよ、元水泳部ナメんなー」
「珍しいね、ナツノがこんなところに来ようなんて言うの」
「そう?」
「もう見たくもないのかと思ってたけど」
「え、別にそんなことないよ、泳ぐことは今でも好きだし」
「全くそんな風には見えないけど」


確かに、周りから見たら、きっとそうだろう。

1年前の高校2年の夏、私は水泳部を退部した。というより、小学校から続けていた水泳自体をやめてしまった。

辞めた理由を上げればいくつもあるけれど、何故やめたかと聞かれるとうまく答えられる自信はない。泳ぐことは大好きだったけれど、未練は全くない。

いつものことだけれど、なんとなくずっと、部活の雰囲気に馴染めなくて、浮いていた。プールサイドにいるよりも水の中にいるほうが苦しくなかった。出来ればずっと水の中にいたいくらいだった。サカナになれたらいいのに、なんて思っていた。そしたら、誰の声も、誰の音も、自分の心臓の音でさえ聞こえないのにな、なんて。

周りは私を部員として認めてなんていなかっただろう。


「今日は特別だよ、水泳部がいないし」
「元水泳部のくせに」
「まあね」
「でも別に、水泳部がいたって来てもいいと思うけど」
「シュンはそういうの、鈍感すぎなんだよー」
「そう?」
「部員がいたら、私の顔なんて見たくないかなーって思うでしょ。やめたんだし、もう関係ないんだから」
「ふうん……」


人の気持ちに疎いシュンは、私の言葉に納得していない様子でプールサイドを歩き出した。いい被写体がないかゆっくりと探し歩き始める。

この時期、散った桜がプールの水面に浮くのを知っていた。桜が水に浮かぶ絵はすごく綺麗だけれど、私とシュンは少しだけそれが、苦手だ。

苦手なことを知っていて、プールサイドにあがった。もしかしたら今年は、シュンがその綺麗な一面を写真に収めてくれるんじゃないかと期待して。

私はシュンを無視して、太陽光で少し熱くなった地面に腰掛ける。夏よりは全然マシだ。そっとつま先を水面に触れさせようとして、その冷たさに驚く。1年前まで当たり前のように全身をこの水の中に預けていたのに、もう随分と前のことのように感じる。それがなんだか癪で、私はもう一度、ゆっくり、つま先を水面へと触れさせる。

シュンはその一瞬を見逃さなかった。
突然、シャッターが私に向かって切られた。


「え、ちょっと! 今、撮ったでしょ」
「撮ってない」
「ウソだ! 絶対撮った! シャッター音聞こえないわけないでしょ!」
「足元だけだし、そんなに怒ることじゃない」
「わー、こんなことなら可愛いネイルでもしてくるんだった! もう、普段撮らないくせに、シュンのバーカ!」


ふくれて私が背を向けると、珍しくシュンのククッ、という変わった笑い声が聞こえてきた。時々、シュンはそうやって声を出して笑うことがある。そのタイミングは殆ど図れないのだけれど。


「シュンってほんと、変なところで笑うよねえ」
「いつも笑ってるつもりでいるんだけど」
「それは流石にあり得ない」


無表情無感情人嫌いのくせに、自己分析が出来てなさ過ぎる。シュンが笑っているのなんて、これだけ一緒にいる私だって珍しいと感じるくらいだ。機嫌がいい時くらいもっと笑えばいいのに。


「ところで、ナツノはなんかあったの」


カメラを構えるのをやめたシュンは、ヨイショと私の横に座り込む。シュンは普段滅多に自分から話を振らないので少々びっくりしてしまう。


「なんかって、何」
「いや、いつも以上によく喋るし。こんなところに来たいって言うし、何かあったのかと思っただけ」
「なにそれ、シュンに私のなにがわかるの、バカ」
「わからないわけない、何年一緒にいると思ってる」


からかったつもりで笑ったのに、そんなの御構い無しに至って真剣な声でそう問いかけてくる。シュンは時々すごく勘がいい。人に無頓着なくせにね。実は私のことなんてなんでもお見通しなのかもしれない。
私がシュンのことをよくわかるように、シュンもわたしのことを実はよくわかっている。多分、自分以上に。


「別に何もないー」
「いいよそういう強がり。で、何?」
「なんでもなーいー」
「ナツノ、ちゃんと言え」
「もう……」


本当に、大したことは何もない。けれど確かにシュンに「何かあるだろ」と言われるとそうなのかもしれないと思ってしまう。私は案外わかりやすい子なのかもしれない。


「何?」
「別に大したことじゃないけど……スミくんにさ、春まつりに行こうって誘われたの」
「スミくんって、新しい彼氏か」
「うん、そう、シュンも知ってるでしょ?」
「ああ、有名だよ。ナツノがスミと付き合うなんて意外だったけど」


スミ、とシュンが呼び捨てしたことも意外だ。スミくん、シュンみたいな人見知りの人嫌いにもツテがあるのか。人付き合いが得意な人間の交流関係の広さは末恐ろしい。
ちなみに、スミくんと私はクラスが同じだけれど、シュンは2つ先。この3年間でも、一度も同じクラスになっていないと思う。


「意外って、私もそう思う」
「それで、誘われて、どうしたの」
「どうしたのって……」
「うん」
「もちろん、断ったよ」
「ふうん、別に、行ってもよかったのに」
「友だちと先約があるって、言った」


本当は友だちと約束なんてしていなかった。春まつりは、シュンと毎年行くから嘘をついた。

スミくんのこと。好きだなんて一度も言っていない。スミくん以前の彼氏もそう。彼氏という名前のつく対象に対して好きだとか、恋しいだとか、そんな感情を持ったことがない。告白されて頷いた、ただそれだけのことなのに、どうして人は人との間に名前を付けたがるのだろう。

まるでそれが特別のように人は言う。簡単に言葉に出せるのなら、それは特別と呼ぶのはお門違いだ。

特別な感情は、言えないからこそ、特別になり得るのに。


「先約なんてないくせに、相変わらず嘘つきだな」
「だって、毎年一緒に行ってるじゃん」
「じゃあそう言えばよかったのに」
「そういうのは、言わない方がいいこともあるんだよ」
「ふうん、」


あ、納得してない顔だ。
少しだけ間を開けて、シュンを見る。


「……シュン、今年も、一緒に行ってくれる?」


ちいさな声だった。自分でも本当に情けないと思う。


「うん、ナツノと行くよ」


アッサリとそう返事が返ってきて、安堵したからか全身に汗をドッとかいていることに気がついた。シュンの方を見ると、高い空をただジッと見つめているだけだった。


春まつりは、毎年4月中旬という中途半端な時期に行われる。春まつりというのは名ばかりで、毎年ほとんどの桜が満開の時期を終えているのは言うでもない。

この街の中心に流れる大きな川沿いに植えられた桜の木と、夜桜を照らすオレンジ色の提灯たち。みんな、桜を楽しみにというよりは、道を埋め尽くすたくさんの屋台目当てでやってくる。夏祭りよりも気温がちょうどいいので、毎年この川沿いは車の通行止めを行うほどの大混雑だ。

そんな町の一大イベントである春まつりに、わたしは毎年シュンと一緒に行っている。

1日中桜並木の川沿いが賑わうその日。提灯の明かりが桜を照らす夜、それは桜がいちばん綺麗に見える時間帯。

毎年、その年いちばん気に入った春服を着て、夕方6時に最寄駅に待ち合わせる。シュンは大抵いつも白いシャツに黒のジーンズを着て、首からカメラをぶら下げている。

きっと、今年も。


「今年も、桜、まだ咲いてるかな」
「大丈夫だよ、きっと咲いてる」
「だと、いいけどね」


春まつりに桜は咲いていないといけない。手向ける花がないと困るのは私たちだ。


「シュン、写真、いいの? 全然撮ってないけど」
「うん、いいよ、今日は」
「ふうん」
「またいいの撮ったら見せる、春はいい季節だし」
「そうだね、ありがと」


どうせ現像したら全てを束ねて捨てるくせに、と思いながら応える。わたしはプールサイドのにおいを一度吸って、それから水に浮かぶ桜を見て、やっぱり苦手だと思った。