保育園でのあいつは、遊びの天才だった。木登りや探険、オリジナルの鬼ごっこを考えたり、おままごとも独創的で楽しかった。
 しかし、天才っていうのは一人じゃない。俺は別として、あそこには四人の天才がいたんだよ。俺の誇りである幼馴染たち。
 ヨシオは保育園に入る前からピアノを習っていた。音楽の天才だった。と言っても、俺たち素人レベルの中ではだがな。ヨシオはどんな楽器でも、保育園一の腕前で演奏していた。俺たちがヨシオを真の天才だと感じているのは、ヨシオはいつだって、純粋に音楽を楽しむことができているってところだ。楽器以外のものを使ってでも演奏をする。あいつにとっては滑り台もブランコも、鉄棒だって楽器だった。
 ケイコはスポーツの天才だ。水泳を習っていて、中学の頃には全国大会に出場したことがある。ついこの間オリンピックで金メダルを取った女子高生に、試合で勝ったこともあるくらいだ。けれどやはり、俺たちはそんなところにケイコの天才さを感じたりはしない。ケイコはどんなスポーツだって全国レベルでこなせるが、それが凄いってわけではない。ケイコの凄さは、スポーツの楽しみ方にあるんだ。ケイコは音楽さえもスポーツのように楽しむ。激しいっていう意味もあるが、それだけじゃない。ケイコを見ていると、マラソン選手のような輝きが見えてくる。
 カナエは勉強がよくできる。けれど、頭がいいのとはちょっと違う。もちろんバカじゃないが、単純に勉強の天才ってだけだ。算数も国語もいつだって満点を取れる。カナエに言わせれば、勉強っていうのは、クイズやゲームと同じだという。カナエはゲームも天才的だ。クイズ番組をテレビで一緒に見ていて、カナエが正解しなかったのを見たことがない。カナエは勉強を楽しんでいる。知識を得たり、考えたりすることが楽しいようだ。参考書や教科書を読んでいるときのカナエは、俺が漫画を読んでいるときと同じ表情になる。授業中には、暴れたりはしないが、まるでライヴ会場にいるかのような興奮具合を見せている。けれど、カナエが真に天才的なのは、どんなことでも勉強だと考えられることだ。人生死ぬまで勉強って言うだろ? それを本気で全うしている。だからカナエは、人生そのものを楽しむことができるんだ。
 遊びの天才だったケンジは、ちょっとした変わり者だ。その天才ぶりが、その都度変わるんだ。生きることの天才っていうこともできるが、俺たちはまだまだお子様だからな。そんな大袈裟な表現にはちょっと無理があるかも知れない。ケンジは、人間の天才なんだよ。
 ケンジを中心に、俺たち五人は常に行動を共にしている。小中は義務教育だから、近所住みの俺たちにとっては当然のことだが、高校まで一緒になるとは驚きだよな。偶然なんかじゃないが、揃いも揃ってケンジに付いて行くとは思わなかったよ。そんな物好きは、俺だけだと思っていたからな。