中学の頃、父親が女を作って出て行った。

 元からちゃらんぽらんな男で、家にも金だけ入れに月一で帰ってくるような適当なやつだった。おれが小学生の頃はまだ日曜は家にいた。でも平日は仕事を理由にほとんど家に帰ってくることはなかったし、約束していた遊園地、水族館、運動会、参観日は立て続く残業でまともに一緒に行った試しはなく、母親に「私たちのために働いてくれてるから」と言われる度それが全てなのだと言い聞かせて我慢した。

 だがそれもとどのつまり社内で出来た女と時間作りたかったそれってだけで。その全てを知った時に学んだ。正直者はバカを見る。信じて待った人間に成功なんざ降ってこない。結局周り蹴落としてでも掴み取らなきゃそれは砂のように手から滑り落ちてしまうのだ。


 その末路がこれだ。


「11時から、高木と面会の約束をしていた日野です」

 バイトと称して、父親の仕事先に来た。受付でそう告げるおれに受付員の女性二人は顔を見合わせている。無理もない。多分取引先とのアポかなんかと勘違いしてたんだろう。

「…あの、失礼ですがどう言ったご用件で」

「……、颯太?」


 片時も忘れたことはなかった。脳が指令を送るより先にその声に振り向いて、因縁の人物のご登場に自然と瞳孔が開き、口を結ぶ。

 僕の知り合いです、と受付に伝えた言葉すら引っかかった。


「………大きくなったな」

「人間だからな。子はほっといたって育つよ」


 何に感極まって泣きそうになっているのか、気がしれないし知りたくもなかった。ありがちな台詞で感動の再会を果たそうとしているなら他でやればいい。おれはお前の人生のキャストじゃない。捨てたのはそっちだ。主導権くらい握らせろ。

 よもや曲がりなりにも子どもがするべきじゃない態度で「男」をロビーのソファに座らせて、向かいに座れば元気か、なんて言う言葉すら無視した。事態は急を要している。



「…鬱病」

「思い当たる節しかないだろ。元凶が“自分”とあっては」

 大手企業に勤め、お高そうなスーツに吊り下げ名札を身に付けた「男」はおれの来訪に終始嬉しそうな笑顔を見せていた。それが癪に障ったから手短に済まそうと巻きで核心に触れたのに、それを聞いて男はえっと、なんて言葉を濁らせる。

 プライドなんてかなぐり捨てるしかなかった。だから頭を下げたのだ。


「戻ってきて欲しい。母さんのために。一回した間違いは消えない、でもそうでもしないともう」

「…それは無理だ」

「なん」

「妻子がいる」


 最後の希望なんかに縋るんじゃなかった。

 見離された何かをどうしてもう一度信用しようだなんて思ったのか。多分余裕がなくて頭もおかしかったに違いない。


「…妻や、子は私の過去を知った上でそれでもいいと受け止めてくれている。お前の、颯太のことも話したんだ。あの女は危険だ。結婚してすぐに異変に気がついた、だからお前を置いて家を出たんだ。悪いことをしたとは思ってる、でもお前を片時でも捨てようだなんて思ったことはない。迎えに来るために準備が必要だっただけだ。今まで散々寂しい思いをさせて悪かった。こう言ってはなんだが、いい機会だ。颯太、私たちと一緒に来てくれ。もう一度やり直そう。そうしたら全部」

「…父親のあんたが、母親の悪口を子どものおれに言うんだな」

「颯」

「………死んでくれよ頼むから」


 




 きっと嘘ではなかった。

 父さんが仕送りを送ってくる住所をいつも封の裏側に記載していたのも、中に何かしらのメッセージを残していたことも、だって目を通せばすぐに気づけたことだ。愛されていないわけではなかったことも知ってしまった。

 でも、それでおれが母さんを見捨てる理由にはならない。

 そんなことがあっても、父さんからはいっぱしの父親気取りで生活費が送られてきた。見るのも反吐が出るほどで、文字通り熨斗をつけて返してやったらそれ以降封は来なくなった。

 悲劇のヒーローなんか気取ってない。一心不乱に走ってれば光は見出せるのかと思ってた。でも今走ってるここがもはやどこだかわからない。