「も?あぁ、藤原先生がなんか言った訳ね」


呆れたような声に、私は余計に馬鹿な事をしてしまったことに落ち込んだ。


「藤原先生は知らないけど、僕はゆいちゃんを嫌わない。

だって必死に僕を助けてくれた人だし。姉さんの事とは別だよ」


きっぱりと言ってくれた言葉と、その優しい眼差しに、私の胸が少し苦しい。


「あれは、本当に酷い事してると思っただけで」


「術で縛られるし、でっかい式が身体を押さえこむし、ほんと散々で。

あんな圧倒的な力で屈服されたことなんて初めてだったから、未だに思い出すたび泣きそうになるよ」


「そんなことされたんだもん、藤原のこと、嫌いになったでしょ?」


「うーん、それが、そうでもないんだよねぇ。

なんて言うか圧倒的な実力を味わって感動している部分もあるんだ。

今のジジイ達なんて実力もあまり無いのに、口だけ偉そうな人ばかりで。

そんな中で若手筆頭でもある藤原先生があれだけ凄いと、時代がかわるって感じするし。

まぁ京都だって負けてないけど」


予想外の答えだった。

もう二度と近づきないとか嫌いになると思っていたのに。

そんなにも陰陽師の中では藤原の力は凄くて魅力的だったりするのだろうか。


「そういえば、あの学校、晴陽学園の存在意義って知ってる?」


私は突然の質問に少し驚いた後、首を横に振った。


「ゆいちゃんは、本当に何も知らない人としてあの学校にいるんだね」


「どういうこと?」


「かなりショックな話しかもしれなんだけど、聞きたい?」


加茂君の瞳がまっすぐに私を見る。

ここまで言われて聞きたくないなんて言うわけがない。

私が、聞きたい、と返すと、加茂君は静かに頷いた。


「あの学園はね、色々と意味があるんだ。

一つは位置。

皇居、というか江戸城の鬼門に学園は配置されてるんだ。

鬼門ってのはそこから魑魅魍魎が入ってくるとされてて、そこを塞ぐことは大昔から都を守るために当然すべきこととされてる。

京都だと、元々の安倍晴明邸で今の京都トップのいる本邸が、同じ役割を今もしてる。

あの学園は浄化された上、鬼門も塞いでいる、東京にとって大切な要石なんだ。


二つ目は、学園にいる人達。

あの学校に入るのが特殊だってのは知ってるよね?

あそこは元々は陰陽師の家系の者を預かる場所だったんだ。

でも今はそれだけじゃなくて、霊力の強い者や、今後伸びる可能性のある者も広く入学させてる。

実は自分が陰陽師の家系だと知らない人達も沢山いるんだけど。

教師やスタッフもほとんどが関係者なんだよ」


私は静かに説明する加茂君の綺麗な横顔をじっと見ていた。

何もかもが知らない事ばかり、驚くことばかりで逆に反応のしようがない。

しかし学校の生徒が陰陽師の家系の人が多かっただなんて。





「え、じゃぁ、実咲や塔子も陰陽師だったりするの?!」


そういえば塔子は霊感が強かった。実咲も勘が鋭い。

もしかして私が知らないだけで、2人だけじゃない、クラスのみんなもそうなのではと思えてきた。


「んー、僕は誰がそうだってのは知らないんだ。

それを細かく知ってるのは、学園の上層部のごく一部だけ。

京都の本部には知らせてあるなんて話しも耳にしたんだけど、僕の派閥は知らされてないみたい。

だからこそ僕が直に見て、良さそうな人をピックアップするために来たんだし。

さっきも言ったけど、本人がその血筋って知らない人も沢山いるんだよ?

今はそういう良い血筋や能力の高い人が減ってきてるから、京都と東京で優秀な人材の奪い合いみたいな状況起きてるし。

まぁこの頃は陰陽師や霊力に関係なく、学園側も人を取り出した、なんて話しも聞いたけど」


そんなにもこの学校がそういう人達であふれていたと知って、誰も彼もがそういう風に見えてしまいそうだった。

もしも2人がそうで内緒にしていたのなら、私はどうしたら良いのだろう。


「まぁ、それは置いておいて。

そして、これが僕としては一番嫌な学園の目的だね」


そういうと私を見た。


「そして三つ目。

それは、巫女候補を探しやすくするため」


私は目を見開いて隣りに居る加茂君を見る。

彼は私の方を少し見た後に前を向くと、ずっと奥にある真っ黒になった窓をただ見つめてるようだった。


「巫女は長(おさ)自身がが見つけるもの。

だから早めに、それでその娘が汚れない前に見つけられるよう、可能性の高い者を早くから集めるためにこの学園はある。

教師とかやってれば、自動的に毎年新しい女子が入ってくるわけで。

ほんと、えげつないシステムだよねぇ。

長はそれを知ってるからこの学園に勤めることを拒否出来ない環境にいるし。

巫女になるのは名誉と思ってる人達も多いから、積極的に入学させたり、自分から入学したりする。

本当の巫女の意味なんて、知らない人の方が大多数だからね。

ほんと、東京ってよくわからないよ」


と加茂君は肩をすくめた。

私は呆然としていた。

この学園が、自分の通ってる学校が、そんなにも普通じゃなかったなんて。

それも巫女がこんなとこに出てくるなんて思いもしなかった。


「ゆいちゃん、大丈夫?」


「うん・・・・・・。ちょっと驚いてる」


「そうだよねぇ」


藤原は自分で望んで教師になっていなかったのかもしれない。

あんなに生徒を思ってやっているのに、それが全て仕方なくしているとしたら。

巫女のせいで両親はバラバラになり、巫女を捜すために望んでもいない教師になっていたのならどんなに残酷なことなのだろう。







「巫女って、何だか呪いみたいだね」


自然とそういう言葉が出てきた。

知れば知るほど、長を縛る呪いのようだ。


「呪いかぁ、確かにそうかもね。

でも、長が最後に選ぶのが巫女ってのは何でなんだろ。

自分のために尽くしたっていうなら、実の奥さんだって一緒でしょ?

むしろなんでそっち大事にしないんだろ、腹立つなぁ」


加茂君の言う事はもっともだ。

大切なお姉さんの幸せが潰される可能性があると知ってしまえば、その邪魔者は排除したくなるのも当然だと思う。


「巫女なんて、なくなればいいのにね」


あんなに憧れていた巫女というものは、既に自分の中では藤原を苦しめるものという認識に変わっていた。

その苦しみを取り除くには、無くなれば良いだけのこと。


「でも、そう出来ない理由があるんだろうね。

だからって納得出来るもんでもないけど」


「加茂君は大人だね」


「そうだったらあんなこと、ゆいちゃんにしないって。

それよりもゆいちゃんの方が、ほんと度量大きい子だなって思うよ。

正義感も強いし、能力も押さえてるのにこのレベル。

もっと磨けば良い陰陽師になるって思うな」


加茂君は真っ直ぐに私を見ている。


「私は、もう、そういう世界は遠慮したいな」


私はその真っ直ぐな視線から逃れるように俯くと、そう呟いた。


特別な世界に行きたかった。

特別な立場になってみたかった。

でもそれは私にはあまりに辛くて、悲しみしか感じない世界だった。

記憶をいっそ消して欲しいと思わなかったと言えば嘘になる。

しかしそうしてしまえば、藤原達との思い出も知った苦しみも忘れてしまうことが、私には辛く、そして寂しく思えて踏み出せなかった。


「あんなの見せられて、色々言われて、疲れるのも無理ないよ。

僕はゆいちゃんのこと、気長に待つから。

まだまだ高校生活始まったばかりだし」


「ずっとうちの高校通うの?」


「戻れって話しも出たけど、実は前々から一度は京都を出たかったから、せっかくのこのチャンス、逃したく無いし。

出来れば居られるだけこっちに居たいって思ってる」


「そっか。嬉しいよ。修学旅行とか楽しみだよね」


そう言うと、加茂君は驚いたような顔になり、ぱっと顔を背け、頬を掻いた。


「うーん、そういう天然って結構破壊力あるもんなんだねぇ」


「ん?」


「いやいや、ゆいちゃんはずっとそのままで居て」


「ちょっと、何か引っかかるんだけど」


私のムッとした声に、加茂君は苦笑いしながら謝った。

そして二人して何故か笑いがこみ上げる。


「さて、そろそろ寮に戻ろうか。

・・・・・・また、僕とデートしてくれる?」


加茂君はそういうと右手を差し出した。

私は笑ってその手を取る。


「うん。でも次は実咲と塔子も一緒にデートしようよ」


「それ、僕、2人にタコ殴りにされるのと違うの?」


はぁ、と深いため息をついたけど、何故か加茂君は嬉しそうに見えた。

そしてまた2人で手を繋いで、来た時とは見違えるように空気の澄んだ池袋を後にした。








その日の夜、私はベッドに入っても眠れずにいた。

加茂君とのデートはとても楽しくて、久しぶりに沢山笑う事が出来た。

だけど、加茂君が私に教えてくれた数々のことを、私は未だに受け止めきれずにいた。


やはり一番ショックだったのは、この学校が巫女を見つけやすい為に存在していたことだ。

あんなに嫌っている巫女と強制的に会わないといけないなんて、どんな気持ちで毎年新しい生徒達を迎え入れていたんだろうか。

ただこの学園で教師をするために仕方なく先生になったとしたら、なんて藤原には自由が無いのだろう。

そして、藤原のあの乾いた声と、冷えた目を思い出す。

今もあんな辛い仕事をしているのだろうか。

仕事を減らすと言っていたけど、ちゃんと休めているんだろうか。

もうずっと藤原の側にも居なければ、触れてもいない。


「大丈夫かな・・・・・・」


そう思って、あんなに許しちゃいけないと思った癖に、こんなにも心配する自分がよくわからない。

あんなにも拒否されたのに、側にいって少しでも助けたいと思ってしまう。


「意地っ張りなんだよ」


きっと今も意地を張ってあの恐ろしい場所で一人闘っているのかもしれない。

そんな事を思えば思うほど胸が苦しくなる。

私は苦しい気持ちをどうすることも出来ないまま、枕に顔を埋めた。








あれから夏季講習で学校に行くこともあった。

英語の担当は本来藤原のはずが、何故か別の先生が担当となり、結局学校で藤原や葛木先生に会うことは無く前半を終えた。

実咲と塔子と約束通り夏休みを満喫し、気がつけばあと一週間ちょっとで学校も始まると言う事で、私は早めに寮に戻って残りの宿題を片付けることにした。

そんなある日の夜の事。


お風呂からあがり、髪も乾かして、しばらくしたら寝ようかと思っていた時だった。

テーブルに置いてあるスマホから着信音が流れ、私はスマートフォンを手に取る。

ディスプレイに表示されていたのは、「葛木先生」という文字。

私は慌てて通話ボタンを押した。


「はい」


『東雲さんですね?』


本当に久しぶりに葛木先生の声を聞いた。

だがいつもなら柔らかく穏やかだったその声は、とても切羽詰まっているように聞こえた。


「どうか、したんですか?」


時計を見ればもうすぐ0時。

こんな時間に葛木先生が電話してくる理由は一つしかない。


『こんな事をお願いするのは、虫が良いってわかっているんです』


「藤原に何かあったんですね?」


葛木先生の言葉に私はそう言い切ると、急に向こうからの反応が無くなる。


「先生、回りくどい言い方しないで要件を言って下さい」


我ながら年上の先生に向かって酷い言い方だ。

でも、もう変にごまかされるのは嫌だった。

ずっと何も言ってこなかった先生がこんな時間に電話をしてきている。

それだけで良くない状況だということくらいはわかった。


『東雲さん、光明を助けて下さい』









私は葛木先生の車で都心に向かっていた。

あの時も、葛木先生は藤原を助けたくて私を車に乗せた。


「そろそろ話してもらえませんか?」


電話でまずは事情を話して欲しいと言ったが、先生は向かう途中で話すから、もしそれを聞いて嫌なら後で断ってくれて構わないと言った。

それだけ急いでいるのだろう、私が行くというと、すぐに寮に迎えに来た。


「光明が、非常に危険な状態まで心身が崩れています」


前を向きながら少し強ばった声で話す葛木先生の顔を、私は見る。


「あなたを保健室に連れて行ったあの日から、光明は何か自暴自棄になっているようでした。

そうはいってもきっとしばらくすれば落ち着くだろうと、私は思っていました。

でも、減らすと言った仕事を以前より増やし、本来の目的などどうなってもいいかのようでした」


「前も話してましたよね?

その本来の目的って何なんですか?」


そう、あの時にも出ていた話し。

でも藤原は私は話したくないようで教えてはくれなかった。


「・・・・・・東京の現長(げんおさ)である光明の能力を十分に知らしめ、京都側の重鎮達や反発する者を全て押さえ、

・・・・・・最終的には巫女制度を廃止することです」


周囲の景色にビルやマンションが増えていく。

やはり藤原は巫女を無くしたかったんだ。

私ですら無くなれば良いと思うのだ、きっとずっと悩んでその為に頑張ってきたのかもしれない。

なのに、そんなに頑張っていたものを簡単に諦めてしまったのだろうか。


「それを、本当に諦めたんですか?」


「わかりません。

でも以前より遙かに冷徹に対応することで、こちら側にいた人間達が困惑しています。

長の能力に圧倒されている者達もいますが、今は畏怖に近いでしょう。

でもそんな無茶なことをし続ければ、光明が壊れるのは時間の問題です」


葛木先生の声から、どれだけ逼迫している状態なのかが伝わってくる。

私には陰陽師の内部の事はよくわからない。

けど、藤原が崩れるというのは、私なんかが想像するより、きっと東京の陰陽師にとって大きな影響をもたらすのだろう。


「今、藤原は家にいるんですよね?」


「はい。合鍵は持っているのですが、結界が張られて入れませんでした」


「先生は、私ならそんな中にも入れて、藤原が私の言葉を聞くとでも思っているんですか?」


「はい」


「藤原は、私が加茂君に酷い事をしないでとあんなに言ったのに、聞かなかったじゃないですか」


「いえ、聞きましたよ」


「聞いてないですよ!」


なんで未だに葛木先生は勘違いをしているのだろう。


「あなたが『大嫌い』と言って、止めたじゃないですか」


私はその何の抑揚もない言葉を聞いて、びくりとした。


「責めているんじゃありません。

あなたの言葉は、光明にとっては重い、ということなんです」


「また私は『特別』ですか?

さすがに先生、思い込みすぎですよ」


「いえ、光明自身が気がついていないだけです。

私はずっとあの子の側で見てきているのですから。

だから、あなたじゃなければもう助けられないんです」




車は既に高速を降り、一般道を走っている。

私には葛木先生がやはり思い違いをしているようにしか思えなかった。

何かにつけ私との出来事を、無理矢理藤原の状況に結びつけてしまってるのではないだろうか。

でも自分じゃ意味が無いって言う癖に、なんで私は行くと言ってしまったのだろう。

きっと葛木先生から詳しい話しを聞かなくても、私は藤原と会うことを、電話を受けた時点で心に決めてしまっていたんだ。

私じゃダメだとわかっていても、放ってはおけなかった。

そんな自分に思わず心の中で笑ってしまう。


「今度は私はどうすればいんですか?

また、普通に戻れとでも勝手に思えば良いんですか?」


車が静かに停まり、見ればどこかの入り口前の、広々とした車止めにいた。


「え、ここが?」


「はい、ここの最上階が光明の自宅です。住んでいるのは光明1人ですが」


私は車を降りると呆然と建物を見上げた。

マンションの高さこそ凄く高くは無いが、その建物を見渡せば高級マンションだというのはわかる。


「これが部屋の鍵です」


葛木先生は私に鍵を差し出す。

私はその鍵を見た後、目の前の先生を見上げた。


「私はここで、どうなるんですか?」


どうすればいいのか、とは再度聞かなかった。

何故かこちらの方が合っている気がしたからだ。


「私は、あなたに会えば、きっと光明は戻ってくると信じています。

あなたに危害を加えるような事は、決してしないはずです」


「なんか色々曖昧ですね」


何だか呆れ気味に言ってしまった。

きっと全て先生がそうあって欲しいと願っているだけのことなんだろう。


「今まで何度も私はあなたにすがりました。

そしてあなたが傷ついてずっと私達を避けていたのも知っています。

でも、それでもあんな光明をこれ以上放っておけずに、またあなたにすがってしまった。

だからもう二度と私の顔が見たくないのならこの後に学園を去っても、陰陽師という立場を無くしたっていい。

断って良いなんていいましたが、やはり貴女に光明に会って欲しいんです」


そういうと、葛木先生は深々と私に向かって頭を下げた。

私が黙っていると、先生は頭を下げたままぴくりとも動かない。


「先生は、ずるい」


「・・・・・・・はい」


「わかっててやってるんだからタチが悪いと思います」


「その通りです」


私の言葉に答えつつも、未だに先生は頭を上げない。

私はため息をついた。


「会いに行くと言わない限り、頭を上げない気ですか?

土下座しろと言われたらやるんですか?」


「えぇ。それで良いのならいくらでも」


頭を下げたままの先生が膝を折ろうとしたのを、私は先生の腕を掴んで止めた。


「やめて下さい。先生はずるい。

そうやって、私が断れないってわかってやってる」


先生がやっと頭を上げ、私の方を向く。

私は先生の腕を掴んだまま、見上げた。


「本当に藤原が大切なら、ひっぱたいてでも止めるべきだったんじゃないですか?

酷くなるまで放置して、それで私しか出来ないなんておかしいですよ。

先生は私に嫌われるのはなんとも思って無くても、藤原に嫌われるのが怖くて逃げたんでしょ?」


自分で口にして内心笑ってしまう。

だって藤原に嫌われたくなくて逃げたのは、まさに自分だったから。

だからこそ、逃げてしまった葛木先生の気持ちがわかってしまう。

私の内心など押し殺した言葉に、葛木先生は項垂れた。


「えぇそうです、あの子に嫌われるのが怖かった。

きっと、もっと早くに止められたのに。

でも、私は東雲さんに嫌われて良いと思っている訳では無いんです。

ただ、それだけの事をしている自覚があるというだけなんです。

だから、お願いです。

光明に会って、声をかけてあげて下さい」


お願いしますと、再度先生は頭を下げた。

私が掴んでいた腕を離すと、先生はゆっくりと顔を上げた。


「わかりました。

でも入れないかもしれないし、追い返されるかもしれないですよ?」


私の言葉を聞いて、先生は私の手に合鍵をそっと握らせた。


「本当にありがとうございます。

私がずっと下にいるので、何かあれば連絡を下さい。

でも、きっと貴女なら大丈夫です」


私は、そう言う先生を一度見た後、一人マンションに入った。






エレベーターの最上階に着くと、その床にはふわふわの絨毯が敷き詰められていた。

廊下を進むと奥にドアが一つだけある。

表札はないがこのフロアに部屋のドアは一つだけ。

私はためらわずにそのドアのチャイムを鳴らした。

反応は無い。

再度鳴らすがやはり反応は無かった。

先生がここに藤原が居ると言った以上、反応が無いのはもしかしたら中で倒れているせいかもと思えて、私は急に不安になってきた。

もらった合鍵を差し込み、鍵を回すとガチャリと音がする。

ドアを少し開けてみるとチェーンもかかっておらず、私は一歩、中に入った。

肌に、ぴりっとした痛みが一瞬走ったが、私はそれを無視し、ドアを閉めた。


部屋の中は一切電気が付いていない。

廊下の奥にある磨りガラスのドアから、外の光が差し込んでいるようで、私はそこに進みそのドアをあけた。

開けると広いリビングで、中心には大きなソファーとテーブルがあり、横には大きな窓が広がっている。

カーテンが全く閉められていないせいか、部屋の中に月明かりが十分なほどに届き、思ったよりも室内は明るかった。

周囲を見渡し奥を見れば一つ、ドアがある。

もしかしたら寝室で、藤原はここにいるかもしれない。

私はいまだ電気もつけないまま、その部屋のドアを静かにあけ、中に入った。

その部屋はリビングよりは小さいが、大きな窓から外の光が差し込んで、目も慣れてきたのか、部屋の中が割とよく見える。

部屋の奥に大きなベットがあるのがわかり、私はそこに近づいた。






「何をしに来た」





低く、そして響くような声が、部屋の静寂を打ち消す。

思わず振り返ると、入ってきたドアに腕を組んでもたれかかっていたのは、藤原だった。

薄暗い中で、何故か藤原の目だけが鋭く光って見える。

その瞳はまるで、獣のような目だった。

藤原が一歩、踏み出す。

私はびくりと思わず後ずさりした。

だが、後ろにあったベットにぶつかり、その上に尻餅をつく。

慌てて目の前を見れば、見下ろすように藤原が立っていた。

怖い。

逃げようと、座ってしまったベットから急いで立ち上がろうとした。

その瞬間、スローモーションのように手が伸びてきたかと思うと、勢いよくベットに倒され、気がつけば自分の両手首が頭の真上で藤原の左手だけで押さえつけられた。

藤原の片足がベットの端に乗り、ぎしり、という音がして、私の身体が少しだけ揺れる。

すぐ近くには藤原の顔。

だが何も感じていないかのような無表情と、鋭く光る無機質な目が、私をただ見下ろしている。





「もう一度聞く。何をしに来た」


ゆっくりと、そしてぞくりとするような低い声が、まるで命令をしているかのように自分に向けられる。

私は、自分の唇が震えているのを自覚しながら必死に声を出した。


「く、葛木先生が、心配してる・・・・・・」


そう答えても、表情は一切変わらない。


「あいつはお前に、どうして欲しい、と言った?」


「藤原が大変だから、会って、声をかけて欲しいって・・・・・・」


それを聞いて、藤原は鼻で笑った。


「お前はな、生贄に差し出されたんだよ」


「いけ・・・・・・にえ?」


「以前、俺を助けるのに手っ取り早くて強力なのは無いか、聞いたな?」


私は全身が小さく震えているのを必死に押さえながら、何の感情も感じ取れない声で話す藤原を見上げる。


「それはな、セックス、だよ」


自分の身体が一気に強ばる。

心臓が鷲づかみにされ、喉の奥が急に締め付けられたような気がした。


「なぁ、好きな男に、セックスしてこいと生贄に出された気分は、どうだ?」


藤原の口の端が上がる。

まるで、獲物を追い込んでいるのを楽しんでいるかのような顔だった。

脳内で警鐘が鳴っている。

私はベットから投げ出された足をばたつかせ、掴まれている手をふりほどこうと、力を入れた。


「痛っ!」


拘束されていた両手がもっと強く締め付けられ、痛さに声が漏れる。


「たかがこれくらいで。もっとこれから痛い目に遭うっていうのに」


ずっと私の顔の横に置かれていた藤原の右手が私の顔に伸び、人差し指でゆっくりと頬を撫で、そのぞくりとする感覚と恐怖で、私はぎゅっと目を閉じた。

その指が静かに、首筋、そして鎖骨に降りてくる。

私の身体を触れているその指に、全ての神経が集まっているかのようだ。

そして自分のシャツのボタンが一つ、外される音で、思わず目を開いた。

何の色も持たないような瞳が、すぐそばで私を見下ろしている。

私は唇が震えたまま、口を開いた。


「や、だ・・・・・・」


必死に声を出した。

出したのに、震えて、かすれて、その言葉は小さい声にしかならなかった。

そんな私の言葉を聞いても、藤原の表情は変わらない。


「あいつが、どうせ俺はお前に何もしないとか、言ったんだろ?」


私は鋭く射るような目に何故か吸い込まれるような感覚を一瞬覚え、それに引きずられないように必死に歯を食いしばる。


「お前は本当に馬鹿だな。

好きな男をそこまで信じて、そしてその結果がこれっていうのは」


歪んだ笑み。

嘲笑を含んだ声。

なのにそれを見て、酷く傷ついているのは藤原自身のように思えてきた。

怖い。

未だに身体は震えている。

なのに、何故私はこんなにもこの目の前の人が心配で仕方がないんだろう。


いつも学校では笑って、くだらないことを生徒と話して。

だけど陰陽師として、その長として立つ藤原は全く私の知る藤原では無かった。

どっちが本当かなんてわからない。

でも陰陽師としての藤原は、長であることを仕方なく受け入れ、感情を殺し淡々と動いているようだった。

東京の陰陽師をまとめ、戦う時には一人最前線に立ち、そして巫女という呪いに縛られ、きっとそれから抜け出そうとしている。

不器用だ。

一人で何でも背負って。

その為にこんなにも心を凍らせていないといけないなんて、おかしい。

藤原はただきっと、真っ直ぐで必死に頑張っているだけなのに。






「・・・・・・違うよ」


私を冷たく見下ろす相手に、自分が思っていることを、素直に全て話さなければならないんだ。

そうしなきゃ、きっと藤原の心の奥には届かない。

私は、震えている身体に力を入れる。


「違う。私が信じたのは葛木先生じゃない、藤原だよ」


今度はしっかりと声が出た。

お願いだから私の声を、言葉を、聞いて欲しい。

私は瞳の中を覗くようにしっかりと見つめる。

私の言葉に、藤原の目の色が急に変わった気がした。

でもすぐにまた色のない目に戻っていく。

それに気がつきながらも、身体から、心から溢れてくる言葉を、私は必死に口に出す。


「守ってくれるって、言ったよね?

加茂君にあんな酷いことしたのも、もしかして私を心配したからじゃないの?」


「・・・・・・」


言葉は返ってこない。

でも良い。

私が伝えたいことを口に出せばいいんだから。


「もし、もしも本当に私に酷い事するんなら、こんなこと話さずにさっさとやればいいじゃない。

なんでしないの?

まるで逃げる時間をくれてるみたいだよ」


「・・・・・・違う」


藤原が独り言のように呟くと、顔が苦しそうに歪んだ。

あぁそうか。

ずっと、藤原は私を傷つけて逃げて欲しかったんだ。

自分で口に出して、ずっと感じていた違和感が解けてゆく。


「ねぇ」


私は瞳の奥が揺れているのがわかって何だかほっとした。

大丈夫。

あなたを、私がこっちに戻してあげるから。


「私はもう、こんなに藤原が苦しんでるの、見たくない。

だからもし、戻るために私が必要なら、あげる。

私を、あげるから」


そんな事をいいながら、私は不思議と穏やかな笑みを浮かべていた。

私を差す出すことで、またあんな風に笑ってくれるのならそれで良いや。

自己犠牲なんかじゃない。

心から私はそう思えた。


見上げていた冷たかった瞳が、わかりやすいほどに揺らいでいる。

私に向けられていた顔が、すっと反らされ、辛そうに瞳を閉じ、唇をぎゅっと結びながら、何かに抗っているかのようだった。

少しの間だったか、それとももっと長かったのかわからない。

ゆっくりと、私の両手が解放された。




「お前は、本当に・・・・・・馬鹿だな」




目の前には、涙をためた、綺麗な瞳が私を見下ろしていた。

私は、まだ少し痛みの残る自由になったその両手を動かし、涙を浮かべたままの藤原の頬を、両手で包んだ。


「馬鹿なのは、そっちだよ」


私が笑いかけると、またふい、と顔を背け、そのまま私の左側にどさりと身体を下ろした。

私に顔を背けていてるせいで、すぐ近くにある髪の毛が、私の頬にふわりとあたる。


「・・・・・・あぁ、そうだな」


ベットで私とは反対側を向いたまま、そう藤原は呟いた。

私はすぐ横にある藤原の髪に手を伸ばすと、ゆっくりと撫でた。

なんだか大きな子供が拗ねて寝ているみたいだ。