そこに僕の憧れた人はもういなかった。
窓際の壁に沿うように置かれたベッドの上、腰掛けている白髪の女性がぼんやりと空中を見ている。
何を見るでもないその瞳には何を写して、何を思っているのだろうか。
彼女は僕を、覚えているのだろうか。

「ごめんなさいね、散らかっていて」
「あ、いえ。お構いなく」

テキパキとした動きを見せるのは、このは先生の娘さんだ。
僕よりいくらか年下だろうと言った風貌だが、雰囲気はどことなく、このは先生に似ている。

「お母さん、町田 元信さんだって。お母さんの生徒さんだったんだって、わかる?」

声に反応して、このは先生は顔をゆっくりとこちらにむける。

「……だれ?」

僕の顔を見て訝しげな表情を浮かべるこの人は、もう僕の知るこのは先生ではない、のかもしれない。

「このは先生……」

呟いた言葉に肩を震わせ、怯えるような、威嚇するような雰囲気を漂わせている。
自分が何者であるのか、そこにいるのが誰なのか、分かるわからないは日毎、いや時間毎に変わるのだと、全く動じていない様子の娘さんは言う。
「私のこともわからない時だってあるんですから。ごめんなさいね」と、明るく言うその姿に悲壮感は見受けられない。
全てを受け入れているように思える。
そこに至るまでに、どれだけの葛藤があっただろう。

「それにしてもすごい偶然でしたね」
「僕も名前を拝見した時に驚きました。見学にいらした時の雰囲気がこのは先生にとてもよく似ていて、もしかしてと思ったんですよ」

娘さんは施設で話した僕のことを覚えていてくれて、個人的に尋ねた僕のことを気味悪がらずに受け入れてくれた。
小学生の頃に担任を持ってもらっていた先生が、自分の勤め先にやってくるとは思ってもみなかった。
案外、人は自分以外の人の“老い”に鈍感な生き物だ。
けれど、僕と同じように当たり前に人にも同じだけの時間が流れる。
それは子供にとっては成長で、大人にとっては老いと呼ばれるものに等しい。


「お母さん、今日はいい天気ですよ」
「うん」
「お茶飲む?」
「うん」

よいしょ、と立ち上がり、娘さんは会釈をしてお茶を入れるために部屋を出て行った。
恐らく、娘さんは僕とこのは先生で話でも出来るようにと出て行ったのだろうが、僕にはその心の準備は全くなかった。
何せ相手はもう、僕を認識することが出来ていないのだから。
僕の知り得る彼女は、まだ若く黒髪の美しい、笑顔が朗らかで、厳しく指導した後には少しばかり甘やかす。
あなたは僕が憧れを抱いたひと。