一番最初に思い浮かんだのは東棟にある非常階段。昨日もあそこにいたし、もしかしたらと急いだけれどそこには誰もいなかった。
次に多目的教室、教材室、幽霊が出ると噂の第三音楽室と授業をサボれそうなところは一通り確認したけど、海月は見つからない。
色々と考えた結果、最後にたどり着いたのは王道の保健室だった。
いるわけねーよな、と思いつつも、ゆっくりとドアを開ける。
いつもキャスター付きの椅子に座って仕事をしてる養護教諭は不在で、保健室はいつも以上に静かだった。
中央には悩み相談などをしているパーティションで目隠しされたテーブルがあり、側には細長い焦げ茶色の腰掛けが置かれている。
壁には視力検査のボードや少しグロい虫歯のポスターなどもあり、保健室は落ち着くというより病院みたいで緊張する。
そんな消毒液の匂いが漂う空間にはベッドはふたつ。
ドア側のベッドは空っぽだった。でも、窓側のベッドには……。
「無用心だな。カーテンぐらい閉めとけよ」
声をかけると、横になっていた身体が俺のほうに向いた。
それは紛れもない海月だった。
当てずっぽうでここに来たけど、まさかいるとは思ってなかった。
「具合、悪いの?」
そっと近づくと、海月は目を隠すように右手を顔の上に置いた。
「……出張、中……」
「え?」
「ドアの前の札」
海月の声は聞き取れないぐらい小さくて、おまけに主語がないから一瞬なにを言ってるのか分からなかったけど、おそらく保健室のドアに出張中の札がかけられていなかったか、と俺に聞いてるんだと思う。
「気づかなかったけどかかってた?」
「……うん」
「そうなんだ。つか、勝手に札なんてかけていいの?」
「……違う。さっき先生が出張にいって、それで札をかけておくから、誰も入ってこないって……」
ああ、だからベッドの周りのカーテンを閉めてなかったってことか。
一応会話は成立しているけど、海月の様子は明らかにおかしかった。だってこんなにも普通に喋ってくれることなんてないし、そもそも喋り方がうわ言みたい。
「なんか薬でも飲んでる?」
なんとなく、意識が朦朧としているように感じた。
「別に、あんたに関係ない」
なんだよ、それ。こういう返事だけはっきりと言うなっての。
「風邪?熱は?」
だけど俺はめげることはなく、海月のおでこに触った。あんまり人の熱を測ったことなんてないけど、多分熱はない。というか、逆に冷たすぎるぐらい。
「お前、体温低すぎない?」
たしか低いのもあんまりよくないって、なんかのテレビでやってた気がする。
偏った食事とか寝不足だったりすると体温が低くなりがちで、それによって免疫力が下がったり、病気になるリスクが増えるとかなんとかって。
「身体温まるもの食えよ。学食にある豚汁うまいよ」
「……うるさい」
海月は迷惑そうに俺に背を向けてしまった。
布団をかけていても分かる華奢な背中。
身長はおそらく女子の平均ぐらいはあるし、特別に小さいわけでもないのに、なんていうか、海月は全体的に薄い。
「なあ、俺、岸って言ったら海月だから」
「は?」
唐突に投げた言葉に海月が顔だけを少し傾けた。その表情はビックリというより、なにを言ってるんだろうと困惑しているように見える。
「なんか俺さ、お前以外可愛いと思えなくなっちゃった」
同級生の友達ほど女に飢えてるわけでもないけど、タイプな顔がいたら普通に「お」って思ってたし、美人な先輩に声をかけられたらラッキーとか健全な思考は持(も)ち合わせていた。
でも海月が気になるようになってから、それがぴたりとなくなり、誰を見てもまったく興味すら抱かなくなってしまっていた。
ああいうことがあったから惹かれているのか、それとも掴み所がない彼女が心配なだけなのか。それは自分でも説明がつかない。
でも、気になる。
いや、今はそれよりももっと上。
こんな風に青い顔をしてベッドで寝てるなら、連絡ぐらいしてくれたらいいのに。
そしたらどこにいてもすぐに駆け付けるし、ずっと隣にいる。
それで、いつか話してほしいと思う。
その小さな身体に背負っているであろう、なにかを。
「あっそ」
海月の返事は一言だけだった。
それでも、どっかに行けとか、迷惑だとか罵られたりはしなかったから、俺は自分の気が済むまでここにいることにした。
さらりと、海月の黒髪が肩から垂れ下がる。
指先だけでも触ったら、さすがに怒られてしまうだろうか。
*
:
怖いものは、こう見えていっぱいある。
すぐ吠える犬。
突然のクラクションの音。
前触れもなく発生する静電気。
でも、一番怖いのは、自分と違いすぎるもの。
キラキラしたもの。
可愛いもの。
すぐに壊れる繊細なもの。
あと――佐原。
佐原は怖い。
暖かいより、熱くて。
日陰よりも日向が似合って、私をすぐに見つけてしまう。
関わらないでほしい。そうやって迷惑そうにしたって、あいつはめげない。
なんであの日、佐原なんかに頼っちゃったのかな。
なんで、あの日……。
『お前、泣いてたの?』
それは、なにをやってるんだろうっていう自己嫌悪と、もうなんだっていいやっていう諦めた気持ちと。
〝大丈夫?〟
うざったいくらい聞かれたその言葉に……。
〝大丈夫じゃない〟
そう、言いかけた自分の弱さに、泣けてきただけだ。
結局、私は四限目が終わったと同時に早退した。
佐原は過剰なぐらい心配してきて、しまいには『送っていくから』と、言う始末。本気で付いてきそうだったので隙を見てそそくさと校舎を出た。
……ああ、頭痛がひどい。
今朝飲んだはずの薬はあまり効かずに、続けて追加分を服用してしまったせいで身体がフラフラしてる。副作用はしっかり効くくせに、頭の痛みが取れないのは……。
『俺さ、お前以外可愛いと思えなくなっちゃった』
そんなバカな佐原の声がまだ耳に残ってるからだろうか。
佐原は本当にことごとく私のペースを乱してくる。
心配なんてしなくていい。私なんかに構わなくていい。
だけど、佐原との接点を作ってしまったのは私が原因で。彼を中途半端に巻き込んでしまったのは私のせいで。
佐原は今までどおり大勢の友達から慕われて、楽しそうに騒いだりしてる姿のほうが似合ってる。
わざわざ、こんなに暗い私のほうに来ることはない。
家に帰ると、すぐにスマホが鳴った。たぶん、佐原。というか、佐原以外に連絡してくる人はいない。
私はメッセージを見ることはなく、スマホにも触らなかった。
いつもなら自分の部屋に直行する足はリビングへと向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一口飲む。
こうして冷蔵庫を勝手に開けることも実はまだ躊躇いがあって、みんながいる時には絶対にやらない。
そういうルールが他にもあって、例えば家の電話は取らないとか、掃除機はかけても物には触らないとか、お風呂上がりのドライヤーは絶対に自分の部屋でかけるとか、まだまだたくさん挙げればある。
それは、全部言われたからではなく、私が自発的にやってること。
六年間この家で暮らしているけど、感覚としては暮らさせてもらってるという気持ちのほうが強くて、身の回りの物だって使う時にはかなり気を使う。
この家は、私の家じゃない。
そして家族も、私の家族じゃない。
そう心で言い続けて六年が経ってしまったけど、その時間が早かったのは長かったのかは、よく分からない。
……ガチャッ。
と、その時。リビングのドアが開いて無条件に私の心臓が跳ね上がる。帰ってきたのはスーパーの買い物袋を持った晴江さんだった。
な、なんで?
壁にかけられた時計の針はまだ2時前を指していた。もしかして早番の日だったのかもしれないと思い、気まずさで自然と目が泳いでしまう。
「学校はどうしたの?」
「……早退、しました」
歯切れ悪くぼそりと答えた。
「具合でも悪いの?」
「いえ、平気です」
「平気だったら早退なんてしてこないでしょう」
晴江さんは呆れたように買い物袋をダイニングテーブルへと置いた。同じ空間にいるのに私はすごく緊張していて、晴江さんとふたりきりになるのが一番苦手。
だから話し方もよそよそしくなるし、タメ口を使ったことは一度もない。
その距離感は一定を保ったまま変わることはなく、叔母と姪の関係だけど、他人よりも私たちは他人行儀だ。
「いつもこういうことをしてるの?」
「……え?」
「家に誰もいないからって無断で帰ったりしてきてるの?」
言い方にトゲを感じてチクリとした。
家に誰もいない時には帰ってきたらダメなんだろうか。別に悪さなんてしないし、泥棒みたいになにかを盗んだりはしないのに。
私の無言を肯定だと受け取った晴江さんは、さらに深いため息をはいた。
「まあ、いいわ。そういうことも含めて来週の三者面談で担任の先生に色々お願いしておくから」
本当はあることを隠しておきたかったけど、美波がプリントを見せてしまったから失敗に終わった。
まだ高一だっていうのに、なんで三者面談なんてやらなきゃいけないんだろう。
せめて来年だったらよかったのに。そしたら私は……。
「でも今朝、先生に頼んで順番はあなたを最後にしてもらったからね」
晴江さんが買ってきたものを次々と冷蔵庫に入れながら言う。
「美波がそうしてほしいって言ってきたの。ほら、あの子の友達ってうちの事情を知らないでしょ?私が保護者としてあなたと一緒にいるところを見られたくないみたいなの」
たしかに、美波のお母さんと私の保護者が同じだったら絶対に怪しまれるし、今まで隠してきたことがすべてバレてしまうと思う。
「高校生って色々と多感な時期だし、美波も探られたくないのよ。あなただってそうでしょう?」
言ってることは十分理解できるし、美波の気持ちも分かる。でも、私のことを公(おおやけ)にしたくないのは、晴江さんも同じ。
母親代わりだけど母親じゃないし、美波と同い年だけど私は娘じゃない。
近所の人たちにも角が立たないように上手く説明しているし、どうしたって私はこの人たちの輪に入ることはできない。
また頭がひどく疼いてきた。ズキズキ、ズキ。まるでハンマーかなにかで叩かれてるみたいな感覚。
「本当に具合が良くないなら薬でも出しておくけど」
私は痛みを必死に我慢して「平気です」と答えた。
平気です、大丈夫です、気にしないでください。
私はこの家にきて何度その言葉たちを使っただろうか。
角が立たないようにしてるのは私も同じで、弱いところは見せられない。
弱いと認めたくない自分がいる。
自分の部屋に向かった私は倒れ込むようにしてベッドへ横になった。
私がこの家に来た当初、実は養子として迎え入れたほうがいいのではないかという話が一度だけ持ち上がった。
金銭的にも苦しいわけではないし、ちゃんとした形をと勧める忠彦さんの意見を拒否したのは晴江さんだった。
『無責任なことを簡単に言わないで!』
まだ十歳という年齢だったけど、自分がとても迷惑をかけているということだけは分かっていて、リビングから響くやり取りを私はただドアの向こう側で聞いていた。
相談もなしに行方不明になった母と、母から捨てられた私。いらなくなった物を押し付けるみたいに預けられてしまった晴江さんの不満は計り知れない。
一応、叔母と姪という血縁関係はあっても、母は親戚の集まりや法事なども出来る限り参加しないようにしていたので、はっきりと言えば疎外された存在だった。
だから妹である晴江さんとも仲が悪く、母から家族についての話は一度も聞いたことがない。
晴江さんの話では母は昔から頑固で大勢でいるよりもひとりでいることを好んでいたらしい。
なにを考えてるか分からなくて友達もいなかったので、どんどん協調性が乏しくなっていき、今は亡き祖父母との関係も悪かったそうだ。
そんな人が産んだ子供を引き取りたいなんて誰も思うはずがなく、遠い親戚は探せばいるかもしれないけど、どこにいったって私の居場所はない。
私がもう少し器用で、素直に甘えられる性格だったら少しは扱いも違ったのかもしれないけど、しょせん蛙の子は蛙。
ひとりを好んで友達もいなく、協調性が乏しいなんて、まるで自分のことを言われているみたいだ。