でも時間はやってくる。
弘海先輩は満足したようにそれをポケットにまた戻して、


「そろそろ行かなきゃ」


目を細めた。
花がほころぶような笑顔は私にはくすぐったくて、嬉しくて、このままずっと引き留めてしまいたくなる。

この会えなかった分、ずっといつまででも弘海先輩のそばにいたいのに、朝陽は弘海先輩を連れて行ってしまいそうになるから、もう少しだけ寝ておいてと思う。


「杏那」

「はい?」

「呼んでみただけ」

「何ですか、それ」

「朝になったら消えてしまう魔法かもしれないから」


夢は、朝には覚めてしまう。
夢は、太陽が世界から姿を消す時にだけ見られる、幻想。
弘海先輩は、ずっとその中を生きてきて、そして、朝には全部消えてしまうことも知っている。
朝陽は、絶望の始まりの合図。


その手首の腕時計は、持ち主がいない間もずっと時を刻み続けていた。
弘海先輩の時間を、そして私の時間を。
太陽はとっくに顔を出して、まだ私たちに顔を見せていないだけ。
ほら、日曜日の始まりは遅いじゃない。


「どこにも消えませんよ」

「朝陽を浴びたら、光になってしまうかも」

「私はドラキュラですか?」


そこまで言って、くしゃみが出た。
寒さに少しだけ身震いすると、やっぱり中で待ってたらよかったね、と巻いていたマフラーを私に巻いてくれた。

近くなる距離。交わる視線。手を伸ばせば届く距離にある温度。

すると、マフラーで手前に引っ張られて、そっと唇が重なった。

触れた部分は暖かくて、コーヒーの匂いが鼻腔をかすめた。

視線がかち合い、もう一度、今度は確かめ合うように、ゆっくり重なる。

初めてのキスは、温かくて、涙が出るほど甘かった。