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 いつか実家を出て一人暮らしをしたいと、中学生の頃からずっと胸に抱いていた。けれど中学を出たばかりの子どもが、県外へ出て一人暮らしをすることなんて出来るはずがないと、そのときの僕はちゃんと理解できていた。

 だから親の望むままに勉強をして、偏差値の高い地元の高校へ進学をすることを決めた。

 まだ小学生の頃の僕には、たくさんの夢があった。友達の家で見せてもらった漫画を読んで、いつか漫画を書く人になりたいと思った。友達の家でやらせてもらったゲームに熱中して、ゲームを作る人になりたいと思った。子どもの頃の僕は、そんな大きな夢が出来たと、母へ自慢をするように伝えていた。

 けれど母はそういう時は決まって、その夢を目指すのは難しいんだよと僕に教えた。漫画家も、ゲームを作る人も、目指すのは難しい。無邪気だった僕は、子どもの描いた拙い絵を母に見せて、「こんなに上手く描けるんだよ」と、自慢した。母は「そんなことより、宿題は終わったの?」と言うだけで、描いた絵に興味を示してはくれなかった。

 子どもの頃から、あまり運動が得意ではなかった。それでも友人に誘われたから、中学の頃はバドミントン部へ入部した。想像していた以上に練習が大変で、顧問の先生も厳しい人だったけれど、辛い練習にも必死に耐えた。時間が経つにつれて、一緒に入部した友達との差は開き続けたけれど、それでも休まずに練習に打ち込んだ。大会へ出られなくても、学年が上がり、新しく出来た後輩に実力で抜かされても、部活を辞めたりはしなかった。

 その努力を顧問の先生は認めてくれたのか、中学二年秋の大会の団体戦と個人戦に出させてもらえることになった。団体戦では、二軍の一番下で出場ということだったが、大会に出られるならそれでもよかった。だけど一番辛かったのは、両親が大会を見に来てくれないことだった。部活の大会に見に来てくれる友達の親を見ながら僕は、ただうらやましいと思っていた。

 僕には兄と妹がいる。事あるごとに兄との比較をされて、妹とも比較をされてきた。かけられる期待は兄の方が大きく、一番下の妹は比較的甘やかされていた。僕はたまたま体の作りが運動向きではなく、兄よりも運動ができなかった。それを自覚していたからこそ、努力で掴み取ったチャンスを見に来てほしかった。けれど誰も、見に来てはくれなかった。

 間に挟まれた不出来な僕は、比較的放任されながらも、勉強だけはやりなさいと事あるごとに言われ続けた。

 中学生活を半ばほど過ぎた頃、僕は兄妹からの比較を避けるために、ゆくゆくは一人暮らしをしたいとぼんやり思い始めていた。

 部活の引退試合の時も、両親は観戦に来てくれなった。惨敗だった試合の結果を顧問の先生に報告した時、先生は僕の肩に手を置いて「お疲れ」と言ってくれて、僕は涙を流した。僕はただ、その一言だけでよかった。


 高校へ入学してから、水無月奏に恋をした。特に褒められたことがなく、喜ばれた経験の乏しかった僕が、誰かのために喜んだり悲しんだりする水無月を好きになるのは、至極当然のことだった。

 初めて女の子に告白をした。だけど振られてしまい、どこか遠い地へ行きたいという思いが強くなった。

 だから僕は勉強をして、他県の国立を志望校に選び合格した。合格通知を見せた時に両親は喜んでくれたけれど、僕の心にはもう、何も響かなくなっていた。

 ある時僕は、幼少期に親から褒められる経験をしなかった子どもは、自己否定を続ける人間になるとどこかで聞いた。僕はその事実にどうしてか、痛く共感した。

 荒井さんと水無月に、多岐川さんは僕に好意を寄せてくれていると教えてもらっても、結局最後の最後まで、その言葉を信じることができなかった。僕がそういう、卑屈な人間で、自分に自信を持てないからだ。

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