こんなにも美しい世界で、また君に出会えたということ。

 朝陽が家のドアを開けた時、ちょうど姉である朝美が玄関の前を通りがかった。まだ心の準備が不十分だったため、その不意の出来事で心臓がドクンと早鐘を打つ。

 朝美は弟である朝陽から視線を外し、その後ろにいる紫乃を見つめた。見つめられた紫乃は、遠慮がちに小さく頭を下げる。

「あの、私、東雲紫乃です。朝陽くんのお友達です」

 東雲紫乃という名前を聞いた朝美は、その瞳を忙しなくパチクリさせた。それから再び朝陽を見た後に、ニヤリと悪い笑みを浮かべる。

 朝陽は口元を引きつらせながら、無理やりな笑みを作った。

「おかあさーん! 朝陽が家に女の子連れ込んでるよー!」
「ちょっと姉ちゃん?!」
「え、え?」

 今度は紫乃が両目をパチクリさせる。そして朝美に腕を掴まれたかと思えば、そのまま家の中へと引き寄せられた。

「ねえおかあさーん! 紫乃ちゃんめっちゃ可愛いんだけど! ちょっと早くこっち来てよー!」

 紫乃が視線で助け舟を求めたが、暴走した朝美を止めることができないと分かっている朝陽は、苦渋の表情をしながら視線をそらした。心の中で紫乃にごめんと謝罪する。

 そうこうしているうちに、リビングの方から母親が出てきた。

「あらあらまあまあ、あなたが紫乃ちゃん? うちの朝陽と仲良くしてくれてありがとね」
「あ、はい……」

 完全に萎縮してしまった紫乃は、母親に両肩を掴まれて、身体をびくりと震わせる。靴を履いたまま家の奥に連れて行かれそうになり、慌てて玄関の中で踏みとどまった。

「あ、あの、お話が……」
「あらあら、なにかしら?」

 紫乃はちらりと朝陽へ視線を送る。こればかりは自分から話したほうがいいと思い、紫乃を連れてきた経緯の説明をした。

「実はホテルに泊まってたんだけど、今日までの予約しかしてないんだ。だからしばらく家に泊めてあげたくて……」
「そんなの、もちろんいいに決まってるじゃない!」

 即答だった。

 思春期の男の家に女の子を泊めることに抵抗を見せて欲しいと、朝陽は自分のことながらに思う。

「あ、でもお父さんがなんて言うか……」
「そんなのお父さんは関係ないわよ。だってあの人いつも九時には寝るし、なにも心配することなんてないわ。はいこの話はおしまい!」

 母は一度大きく手を打ち鳴らす。その音に紫乃はまたびくりと身体を震わせた。今度は朝美が紫乃へ近寄り、質問を浴びせかける。

「ねえねえ、紫乃ちゃんっていつから朝陽と付き合ってるの?」
「へ?」

 その朝美の言葉に、紫乃は驚いた表情を見せる。それから不思議そうな顔をして朝陽を見た。その瞳は、純粋な色に満ちている。

「え、紫乃と朝陽くんって付き合ってるんですか……?」
「えっ、だって朝陽が付き合ってるって言ってたけど」
「何言ってるの。僕付き合ってるなんて一言も言ってないけど」

 なぜか紫乃はホッとしたような表情を見せて、それを見た朝陽が首をかしげると、すぐに曖昧な笑みを浮かべる。

 その変化を朝陽が不思議に思っていると、朝美が視界に入って紫乃が隠れてしまったため、思考は途中で放り投げられた。朝美は初対面であるにもかかわらず、自分より背の低い紫乃に抱きついて、頭頂部のあたりを頬ずりし始める。

 この姉と母は距離感という言葉を知らないのかもしれないと、朝陽は心の中で頭を抱えた。

 半ば連れ去られるように家の中へ招待された紫乃は、リビングで新聞を読んでいた父に挨拶をして「ん、まあゆっくりしていけ」という言葉をもらった。新聞で表情を隠しているのは、もしかすると照れ隠しなのかもしれない。

 それから紫乃は再び朝美に手を握られて、風呂場の方へ連行されていった。リビングを離れる時に不意に見えた紫乃の表情が穏やかだったのは、朝美が姉のように振舞ってくれて嬉しかったからなのかもしれない。

 リビングにぽつんと残された朝陽は、ようやく訪れた平穏を噛みしめるように椅子へ座った。

「おい朝陽」

 先ほどから黙って新聞を読んでいた父が、今は顔を上げている。どうしたのだろうと思い、朝陽は首をかしげた。

「彼女とはいつから付き合ってるんだ。もう親御さんには挨拶に行ったのか?」
「だから付き合ってないってば……」

 母のついた嘘は、麻倉家に根深く刻み込まれていた。
 朝美から借りたパジャマは紫乃には少し大きく、裾と丈を折り曲げて着ている。

 風呂上がりにすぐ朝美に髪を乾かしてもらったため、長い髪は動くたびに毛先までまとまることなくサラサラと揺れていた。そしてそのたびに、シャンプーの匂いが辺りを漂う。

 朝美のシャンプーの匂いを嗅ぎ慣れているはずの朝陽だが、紫乃から漂うそれは変に心を乱れさせた。意識しないように努めるが、紫乃が隣に座ってしまったため意識せざるを得なくなる。今の紫乃は、日中一緒に遊んでいる時よりもどこか大人びて見えた。

 父は風呂へ入り、朝美は珍しく意味深な顔をして母の夕食作りの手伝いをしているため、リビングのソファに座っているのは朝陽と紫乃だけだった。

「なんか、不思議だなぁ……」

 物思いにふけるような声で、キッチンにいる二人に聞こえない声量で紫乃は呟く。

「え、突然どうしたの?」
「お姉ちゃんが出来たみたいだなって」

 そう言って紫乃はくすりと笑った。やはり朝美が姉のように振舞ってくれて嬉しいのだろう。ニコニコした表情のまま、身体をそらして大きな伸びをした。

 胸元から盛り上がったそれが視界に入り、朝陽は慌てて視線を外す。

「ごめん。うるさい姉で……」
「ううん。賑やかでいいと思うな」
「そうかな」
「お姉ちゃんがいたとしたら、朝美さんみたいな人がいいなって思うよ」

 朝美がいることが当たり前になっていたから、朝陽はそんなことを考えたこともなかった。だけど同時に、朝美じゃない他の理想像を考えたことがなかったから、朝陽の中ではかけがえのない人物なのだろう。

「紫乃は兄弟とかいないの?」

 そう訊いてすぐに、自分の曖昧な記憶の中に、紫乃に兄弟はいなかったことに気付いた。もちろん、姉と妹もいない。

 何度か遊びに行って、紫乃とその母親以外の人物と接触した覚えは一度もなかった。

 そう、思っていた。

「いるよ、妹が一人ね。今年高校に入学したの」
「えっ」

 朝陽は思わず驚きの声を漏らす。自分の記憶がどこまで正しいものなのか、一瞬でわからなくなってしまった。

 一度いると言われてしまうと、朝陽は『もしかするといたかもしれない』と思うようになってしまう。母が、まだ幼い妹を抱いていたような、そんな記憶が芽生えてしまう。人の記憶というものはだいぶ適当なのだと、朝陽は身をもって理解した。

「紫乃に妹なんて、いたっけ」
「あ」

 紫乃は唐突に、何かを思い出したかのようにハッとした表情をする。それから何か大事なことを誤魔化すように、彼女の唇がぎこちなく動いた。

 それから紫乃はいつもの表情に戻ってしまったため、湧いた疑問はすぐに消えていく。

「そういえば、朝陽くんは知らなかったよね、私に妹がいること。昔は人見知りだったから、会ってないと思うけど」
「へえ、そうなんだ。記憶になかったからびっくりしちゃった。紫乃の妹って、どんな子なの?」

 朝陽と朝美のように、妹は似ても似つかない性格をしているのかもしれない。自分の妹のことを話そうとする紫乃は、いつもより明るい笑顔を浮かべていて、きっと仲の良い姉妹なんだろうなと朝陽は自分のことのように嬉しくなった。

「乃々っていうの。昔はあんまり自己主張が激しくなくておとなしい子だったんだけどね、今はいつも笑顔を浮かべているような子だよ。お姉ちゃんお姉ちゃんって言いながらいつも話しかけて来て、毎日病院にお見舞いにも来てくれたっけ」
「仲が良いんだね」

 そう言うと、紫乃は屈託のない笑みを浮かべて頷いた。

 乃々。朝陽はその名前を頭の中で反芻する。一度、会って見たいと思った。

 それから朝美がダイニングへお皿を運んでいるのを見て、紫乃は「私も手伝います」と言ってそれに加わる。朝陽も一緒に夕食の準備に加わると、ふと家族が一人増えたような気がして嬉しくなった。

 カレーを盛り付ける大皿を運んでいるときに、朝美は小悪魔のような微笑みを見せて、朝陽の胸を優しく小突く。それからこちらへそっと耳打ちした。

「お姉ちゃん、可愛い義妹がほしいなぁ」
「はぁ、なに言ってんの……」

 朝陽は心底呆れたようにため息をつく。紫乃には聞こえていなかったようで、お皿を運びながらニコニコと鼻歌を歌っていた。

※※※※

 夕食の時間、紫乃はカレーを口へ運ぶたびに口元をほころばせ幸せな表情を浮かべ、何度も美味しいという感想を口にしていた。その感想を正面で聞いていた母はいつにも増して上機嫌で、食事の場はいつもより賑やかだった。

 夕食が終わって、当然のように紫乃が皿洗いに加わる。母はお客様なんだから座っててと言ったが、紫乃は「お世話になったのでこれぐらい手伝います」と言って聞かなかった。朝陽も二人と並んで皿洗いをおこなった。

 それから時刻が夜の九時を過ぎても父はリビングでテレビを見ていて、椅子の上から離れようとはしなかった。紫乃はもう完全に麻倉家に打ち解けて、母と朝美の言葉に笑顔で相槌を打っている。

「でさ、こいつ小学一年の時に一時期すっごく落ち込んでたの。私が理由聞いても教えてくれなかったからずっと気になってたんだけど、まさか紫乃ちゃんと離れ離れになってたなんてね」
「あの姉ちゃん、その話は……」
「照れんなってー、ういやつだなぁ!」

 酒で酔っ払っているかのように上機嫌な朝美は、朝陽の背中を三度バシバシ叩いた。その力が思ったより強かったため、むせてしまい小さく咳をする。紫乃に心配されて、顔を引きつらせながら大丈夫だよと微笑んだ。

「お母さん、紫乃ちゃんと朝陽の馴れ初め聞きたいなぁ。そういえば聞いてなかったし」
「私と朝陽くんですか?」
「そうそう! ねえ朝陽、どっちから話しかけたの?」

 突然こちらに話を振られて戸惑いつつも、覚えている限りの経緯を説明した。キャッチボールの球が東雲家の庭に入ってしまったこと。それを取りに行ったこと。紫乃のお母さんに家の中へ入れてもらったこと。そして小さな部屋の中で、紫乃と出会ったこと。

 病気を患っていたことは全て伏せた。今更その話をしたところで心配されるだけだろうし、紫乃も思い出したくないだろうと考えたから。

 その経緯を聞いた朝美は、「なんか漫画みたいだね」という素直な感想を漏らす。たしかに漫画みたいな出会いだなと、朝陽も自分のことながらに感じた。

「朝陽くん、家に来るたびに私のために絵本を読んでくれたんです。それが毎回の楽しみでした」
「うわ、小さい頃の朝陽なかなかやるじゃん」
「いや、もうこの話やめようよ……」
「じゃあ紫乃ちゃんはうちの息子のどういうところが好き?」
「えっと……」

 母の質問を受けた紫乃は、チラと伺うようにこちらを見た。さすがに彼女は照れくさそうにしていて、朝陽もつられて顔が熱くなる。

「えっと……優しいところとか、頼りになるところが好きなんだと思います」
「えー! 朝陽が頼りになるぅ?」
「こら朝美、弟にそんなこと言うんじゃありません。朝陽だってやればできる子なんだから」
「やればできるって何」
「ちゃんと褒めてるから大丈夫よ」

 母の言葉にムッとしたが、朝陽は何も言わずに黙っておいた。

 それから会話はいろんな方向へと弾んだが、十一時を超えたあたりに父がようやく立ち上がったのを見て、みんな我に返った。

「もう寝る時間だ。お客さんに夜更かしはさせるなよ」

 怒っている風にも聞こえるが、ちゃんと紫乃のことを気遣った優しい言葉だった。部屋を出る際に父は一度振り返って「まあ、なんだ……ゆっくりしていけ」と、照れたように声をかける。

 母がくすりと笑みを漏らしたのが、父に聞こえたのだろう。耳を少し朱色に染めて、そそくさとリビングを出て行った。

「もうほんと、あの人は朝陽に似てるわね」
「えっ、全然似てないでしょ……」
「そんなことないわよ」

 そう言って母も立ち上がり話を打ち切る。隣で朝美は大きなあくびをしていた。

「紫乃ちゃんの寝る場所は、普通に朝陽の部屋でいいわよね」
「あ、私は別にどこでも……」
「いや何言ってんの。普通に姉ちゃんの部屋でしょ」

 母と姉に流されっぱなしだが、この主張だけは最後まで貫き通した。紫乃は眠気まなこの朝美に手を引かれ、「今日はありがとうございます。おやすみなさい」と挨拶をしてリビングを出て行った。

 部屋には母と朝陽の二人が残される。

「じゃあ僕もそろそろ」
「ちょっと待って」

 歩き出していたが呼び止められて、朝陽は立ち止まる。母は先ほどのおちゃらけた態度が嘘だったかのように、至って真面目な表情をしていた。

 しかしすぐに、それは柔和な笑みへと変わる。

「珠樹ちゃんとも、仲良くするのよ?」
「えっ、うん」

 どうしてそこで珠樹の名前が出てくるのだろうと思ったが、あまり深くは考えずに頷いた。珠樹と仲良くしないなんて、朝陽には考えられないことだから。

 その反応に満足したのか、母もリビングを出て自室へと戻る。

 喉が渇いたため一度コップにお茶を入れて飲み下してから、朝美の隣にある自室へと向かった。
 どんなに頑張っても、なかなか寝付くことのできない夜がある。

 とりわけ今日はいろいろなことがあって、様々な思考が頭の中を巡っている。早く昔のことを思い出さなければいけない。朝陽自身が蓋をした、過去の記憶を。

 しかしそれは霧のようにおぼろげで、なかなか掴み取ることができない。そのたびに、紫乃への申し訳なさがつのった。

 しばらくは眠れないだろうと悟り、朝陽はベッドから身体を起こす。夏の夜は生暖かく、額から汗が出て輪郭をなぞり下っていった。

 眠る前に麦茶を飲んだというのに、もう喉がカラカラに渇いてしまっている。不快感を消すために、朝陽はリビングへ向かうべく部屋を出た。

 すぐ隣から、ちょうど同じくらいのタイミングでドアの開く音が響く。

「あっ、朝陽くん」

 紫乃だった。

 目が合った瞬間、いたずらがバレた子どものようにバツが悪そうに笑う。その手には画面が鈍く光るスマホが握られていた。

「もしかして、眠れなかった?」
「あ、ううん。そうじゃなくて、起こしたら悪いなって思ったの」

 スマホの画面をこちらへ向ける。バックライトの明るさは最小にしてあるのだろうが、暗い部屋で使うと寝ている人を起こしてしまうかもしれない。

「綾坂さんからメール?」
「そんな感じかな。時間があるから、早めに返しておこうかなって。朝陽くんは?」
「僕はちょっと喉が渇いて。リビングに行くけど、一緒に来る?」

 紫乃がコクリと頷いたのを見て、朝陽はリビングへと歩き出す。しかしすぐに、右手が暖かくて柔らかいものに包まれてびくりと全身を震わせた。

 何が触れたのかと思い恐る恐る振り向くと、紫乃が申し訳なさそうな表情を浮かべて右手を掴んでいた。その行為に、胸がどくんと大きく鼓動する。

「え、あ、どうしたの?」

 そう訊くと、紫乃は手を握る力を強めた。心なしか少し身体が震えているように見えて、内に沸いていた不純な感情は吹き飛ぶ。

「ごめん。最近ちょっと、暗闇が怖くなっちゃって……」
「ああ、そういうときもあるよね」
「朝陽くんも?」
「うん。なんかそういう時は不安になるっていうか、誰かと話したくなるっていうか」

 暗い場所にいると、意味もなくこれからのことに不安を感じるようになる。自分が死んだらどうなるのか、このまま暗闇が晴れないんじゃないか。そういうとりとめのないことが次々と浮かんできて、心の奥をざわつかせる。

 もし不安を感じているのならば、助けになりたいと朝陽は思った。紫乃はもう、たくさん苦しんだのだから。

 その手を握り返すと、紫乃はホッと安心したような吐息を漏らした。

「あ、なんか安心してきたかも」
「そう?」
「すごい心臓がバクバク言ってたけど、朝陽くんのおかげで落ち着いてきた」
「それならよかった」

 安心したと告げられると、唐突に今の状況に気恥ずかしさを覚え始めた。仕方ないとはいえ紫乃の手を繋いでいるから、家族に見られるといらぬ勘違いをされるかもしれない。そう思い、朝陽は姉の部屋に耳をすませたが、少し大きな寝息が聞こえるだけだった。

「あんな寝息だったら、やっぱり眠れないよね」

 それは図星だったのか、申し訳なさそうに笑みをこぼす。

「最初はぐっすりだったんだけど、途中で起きちゃって」
「ごめんなさい。うるさい姉で……」
「ううん。私は大好きだよ」
「それ姉ちゃんに言わない方がいいかも。あの人褒められたら調子に乗る人だから」
「朝陽くんがそう言うなら気をつけるね」

 二人で静かにくすりと微笑む。

 リビングへ向かって電気をつけると、明るさで一瞬朝陽の目が眩んだ。慣れてきた頃に手を繋いでいる紫乃を見ると、まだ眩しいのかまぶたを半分だけ開けている。

 しばらくして明るさに慣れたのであろう紫乃は、一度繋いでいる手を見つめてから朝陽の顔を見た。二人の視線はぶつかり、初めに紫乃の方がゆらゆらと瞳が揺れる。それから耳を赤くしたかと思えば、慌てて繋いでいた手を離した。

「ご、ごめんねっ! いつまでも繋いでてっ!」
「ぼ、僕の方こそ! あ、なんか飲み物用意するよ!」

 朝陽も気恥ずかしくなり、逃げるようにリビングを離れてキッチンへ向かった。冷蔵庫の中を確認すると、牛乳と麦茶が保存されている。

「紫乃って、苦手な飲み物とかある?」
「えっと、ないかな」

 その言葉に安心して、マグカップに牛乳を注ぎ、ココアパウダーを適量入れた。それから電子レンジで数秒温めて、リビングでメールの返事を打っている紫乃の元へ戻る。

 朝陽は紫乃の対面へ座った。

「はいこれ。熱いから気をつけて」
「ありがと」

 マグカップを包み込むように持った紫乃は、一度ココアを口にすると幸せそうな表情を浮かべる。

 朝陽もココアを一口飲んだ。

 口の中で甘さが広がり、疲れた身体をゆっくり弛緩させてくれる。これなら今すぐにでも眠れそうだった。

「もうメールは出したの?」
「うん。ココアを作ってくれてる時に」
「紫乃は、綾坂さんとすごく仲がいいんだね」
「今は仲が良いけど、最初は結構大変だったよ」

 紫乃はマグカップのふちを親指でなぞる。昔を思い出しているのか、心ここに在らずという感じだった。

「でも、気が合ったから友達になったんじゃないの?」
「気が合ったのかな。性格とか全然違うし、ただのクラスメイトとかだったらここまで仲良くなれてなかったかも。私は彼女のこと、大好きなんだけどね」
「なんか、複雑なんだね」
「朝陽くんと玉泉さんの関係みたいなものだよ」

 その言葉に朝陽は首をかしげる。先ほどから曖昧にぼかした言い回しをしていることもあって、実はあまり理解出来ていなかった。

 そんな彼を見て、紫乃はくすりと笑う。その表情はほんの少し、初めて再開した時のような大人っぽさを秘めていた。

「彼女はね、私の命の恩人なの」

 それってどういうこと。そう訊こうとしたが、それよりも先に紫乃が「詳しいことは言えないんだけどね」と付け加えて申し訳なさそうに微笑んだ。

 一瞬海で溺れたことがあるのかと考えたが、そもそも海水の色に疑問を浮かべていたから行ったことはないのだろう。

 紫乃はもう一度、ココアを口に含む。立ち上った湯気が鼻先のあたりまで上り、ゆらゆらと消えていった。

「話せる時が来たら、朝陽くんにも説明するよ。できればその後も、仲良くしてくれると嬉しいかな」
「それは当たり前だけど……もしかして何か厄介なことに巻き込まれてたりするの?」
「ないないそれはないよ。ただ今は話せないってだけ」

 紫乃は残りのココアを大事そうに飲み下すと、立ち上がってキッチンの方へマグカップを洗いに行った。よく出来た子だなと思いつつ、朝陽も自分の使ったものを洗う。肩の触れ合うような距離で照れ臭さを覚えたが、心の中は幸福感に満ちていた。

 しかしマグカップを洗っている間、紫乃が落ち込んでいる表情を見せていたことに、最後まで朝陽は気付くことがなかった。

 それから部屋へ戻る時、リビングの電気を消す前に自然と紫乃の手を握る。彼女は驚いた表情を見せるが、朝陽も内心自分の行動に驚いていた。

「朝陽くん、男の子だね」

 そのふにゃりとした笑顔にやられて、すぐに電気を落とした。

 部屋の前に着いて手を離すと、紫乃は「ありがとう」とお礼を言う。しばらく沈黙が続いて、それに耐えられなくなった朝陽は自分の部屋へと逃げ出そうとした。

 しかし薄暗闇の中で紫乃の声が響き、逃げ出そうとした足は引き止められる。彼女の表情をうかがうことは出来なかった。

「一番大切なものって、なんだと思う?」

 その問いに、朝陽は首をかしげる。おそらく紫乃にその行動は見えていなかったのだろうが、彼女は次の言葉を続けた。

「覚えてる?」
「え、覚えてるって?」

 自ら蓋をした記憶を思い返す。その出来事をもう、朝陽は再開した時からぼんやりと思い出していた。

「もしかして、星の王子さま?」

 それは子どもの頃、朝陽が紫乃へ読み聞かせた本だった。そのお話の中でキツネの言った、誰もが一度は聞いたことがあるんじゃないかという有名なセリフ。

 そのセリフを思い出した時、朝陽の頭はズシンと重さを感じ始め、ひどく不快な焦燥感となって心を揺らした。

 小さく呟くように、その言葉を口から漏らす。

「いちばんたいせつなものは、目には見えない……」

 紫乃はその返答に満足したのか、くすりと笑みをこぼした。それから暗闇の中でも視認できる位置まで近付いてきて、「おやすみ」と呟く。

 一瞬何を言われたのか理解することができなかったが、すぐに我に返り朝陽も「おやすみ……」と返した。

 どうして突然その話をしてきたのかは分からない。だけど紫乃のおかげで、朝陽はあの時の出来事を思い出した。

 そうだ。

 紫乃は、あの言葉を聞いた時……
 その日、朝陽は偶然にも東雲家にボールを投げ入れてしまった。
 正直なところ逃げ出してしまいたかったが、逃げてしまえばもっとややこしいことになるかもしれないと思い、勇気を振り絞って東雲家のインターホンを鳴らす。

 玄関から出てきたのは、自分の母親より少し若いぐらいの女性。最初、彼女が泣いているのかと思ったが、それは違うということにすぐ気付く。よく見ると右目の下には泣きぼくろがあり、それが涙に見えただけだった。

 朝陽は声が震えながらも事情を説明すると、庭へ行きボールを探しに行ってくれた。戻ってきたときにはその手に一つのボールが握られていて、朝陽はホッと安堵する。

 そして不意に、一粒の涙が頬を伝った。怒られるかもしれないと身構えていたが、その女性は優しい表情のまま朝陽の頭を撫でてくれたのだ。

 一向に泣き止まないその姿を見て、女性は家の中へと入れてくれた。美味しいケーキを振舞われ、朝陽の表情に笑顔が戻る。

 そんなときに、一つの写真が目に入った。

 そこには、目の前の彼女そっくりな少女が映っている。彼女はカメラ目線でピースをしているが、隣にいる少女は恥ずかしがっているのか、目線をやや外していた。

 その写真を見ていると、彼女はとても嬉しそうな笑みを浮かべる。

「可愛いでしょ。私によく似た、自慢の娘なの」

 確かに、写真に映っている娘は、目の前の彼女とよく似ているなと朝陽は思った。

 朝陽はその少女に純粋な興味を示した。会って一度話をしてみたい。ベッドの上の少女が、とても孤独そうに見えたから。

 すぐに少女の母へお願いをした。母は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、最後には嬉しそうな笑みを浮かべて朝陽の言葉を了承する。その瞳には、綺麗な涙がたまっていた。

 そして朝陽はベッドの上の少女、東雲紫乃と出会った。
 昼間なのに布団を頭までかぶり、髪の毛は枕の上に四方八方へ散らばっている。部屋のドアが開く音で、紫乃は身体をピクリと震わせた。

「おかあさん……?」
「今日は紫乃に、お友達を連れてきたの」
「おともだち……?」

 そう言われても、紫乃は布団の中から顔を出さない。むしろ誰かの気配を感じたのか、芋虫のように布団ごと身体を丸めて自己防衛をしてしまった。

 母はそんな紫乃を見て薄く微笑んだ後、朝陽の背中を軽く押してあげる。それから耳元で「娘のこと、よろしく頼んだわよ」と囁いて、リビングの方へと戻っていった。

 部屋に取り残された朝陽は、とりあえずベッドの上の芋虫へ近付く。

「えっと。僕、あさひって言うんだけど……」
「あさひ、くん……?」

 わずかな反応が帰ってきたことに喜びを覚えるが、紫乃は布団の中から顔を出そうとはしなかった。警戒されているとなんとなく察した朝陽は、無理にそれ以上近付いたりはしない。

「あの、お名前なんていうの?」
「名前……?」

 わずかな沈黙の後、紫乃は例のごとく布団から顔を出さずに答えた。

「しののめ、しの……」
「しのっていうんだ」
「七歳です……好きな食べ物はウインナーで、嫌いな食べ物はピーマンです……」
「ピーマンが食べれないの?」

 その質問をすると、丸まった布団がゴソリと動いた。おそらく紫乃は首を縦に振ったのだろう。

「ピーマンは、苦くて美味しくないから……」
「ええ、そんなことはないと思うけど」

 今度の紫乃は、首を振ることも言葉を返すこともしない。何か会話の糸口がないかと思い、朝陽は必死に話題を探す。
 そうして辺りを見渡しているうちに、絵本がたくさん詰まった本棚が置いてあることに気付いた。

「もしかして、絵本が好きなの?」
「ごめ、ごめんなさい……」
「え、なんで謝るの」

 疑問に思いつつ、朝陽は本棚へ近付く。小学生になって絵本をあまり読まなくなったが、幼稚園の頃に読んだことのあるものばかりが詰め込まれていて、なんだか懐かしい気持ちになった。

「あ、桃太郎も持ってるんだね」

 それは朝陽の特にお気に入りの絵本だった。思わず本棚から引き抜いて、中身を開いて読み始める。犬が仲間に加わったあたりで我に返り、パタンと絵本を閉じた。

「犬ってかわいいよね」
「イヌ……?」
「うん。桃太郎にも出てくるでしょ?」

 もう一度絵本を開いて、白い犬を紫乃の方へ見せようとしたが、布団にくるまっていたため見せることはできなかった。

「イヌ、怖い……」
「え、そんなことないよ」
「だっていつもワンワン言って驚かせてくるもん……」

 彼女がそう言った時、窓の向こうでタイミング悪く犬の鳴き声が聴こえた。その声に紫乃は驚いたのか、小さな悲鳴を上げて布団が小刻みに揺れる。

「鳴き声は怖いけど、でも毛がふさふさしてて気持ちいいよ?」

 それきり、また紫乃は口をつぐんでしまう。しかし今度の沈黙はあまり長くなく、布団の中から控えめな声が飛んできた。

「イヌって、ふさふさしてるの……?」
「もしかして見たことない?」

 布団がゴソリと動いた。

 それは肯定を示している。もしかすると、彼女はあまり外へ出たことがないのかもしれないと朝陽は思った。

「触ってみたら気持ちよさそうにしてくれるし、きっとすぐに仲良しになれるよ。ちょっと一緒に探しに行ってみない?」

 そんなことを、朝陽は自然と言えるようになっていた。とりあえず、写真に映っている彼女の顔を見る口実が欲しかったのだ。

 しかし紫乃は布団をガサゴソと小刻みに揺らす。それは否定を示していた。

「しの、お外に出られないから……というより、出たくない……」
「え、どうして?」
「病気なの……外に行くと、迷惑かけちゃうから……」
「病気って、なんの病気?」
「……」

 それきり紫乃は何も喋らなかった。分厚い布団にくるまり続け、朝陽のことを拒絶する。どうにかしてその繭を破ることはできないかと考えたが、幼い思考では解決策が思い浮かばない。

 だから朝陽もそれきり何も喋らなかった。黙っていればどこかへ行ったと思って布団の中から出てくれるかもしれないという打算もあったが、結局紫乃は繭の中からは出てこない。

 日が落ち始め夕日が差し込んできた頃、そろそろお家に帰らねばと思い立った朝陽は立ち上がる。無意識のうちに、そんな言葉を漏らしていた。

「またきてもいいよね」

 返事はなかった。

 だからそれを肯定と受け取り、次の日も東雲家へ遊びに行った。幸いなことに夏休みということもあって、時間はたっぷりとある。紫乃の母は、次の日も朝陽が家に訪れたことを喜んでいた。

 特にこれといって話題があるわけではないが、毎日紫乃の家へと通う日が続く。

 そういう日が一週間ばかり続いた頃、朝陽は一つの妙案を思いついた。自分の家の押入れから絵本を引っ張り出して、紫乃の部屋の本棚になかったものを探し出す。その中で特に自分の好きなお話を選んで、東雲家に遊びに行った。

 例のごとく紫乃は芋虫になっているが、もう慣れてしまったから気にしない。朝陽はベッドの上の紫乃に聞こえるように、絵本の読み聞かせを行なった。

 初めは全く反応を見せなかったが、物語が終盤に差し掛かるに連れて、芋虫がこちらへと近付いてくる。ようやく心が通わせられた気がして、朝陽は嬉しい気持ちになった。

「海の中から湧き上がってきた宝箱には、たくさんの宝石が入っていました。お宝を手に入れて裕福になったおじいさんは、おばあさんと一緒に末永く幸せに過ごしました。おしまい!」

 絵本を読み終わり、パタンと音を立てて閉じる。

 しばらく紫乃の反応を窺っていると、布団の中から声が聞こえてきた。

「海って、綺麗なの……?」

 朝陽たちの住んでいる地域は内陸側で、海に面してはいない。そのため実際に見たことがないため、写真で見た情景を思い浮かべた。

「すっごい青くてね、お魚がいっぱい泳いでるんだよ」
「そうなんだ……」
「お空には白い鳥がいっぱい飛んでてね、海が太陽の光でキラキラ輝いてるんだ」
「……」

 少しは海に興味を示してくれたように思えたが、すぐに全てを諦めてしまったかのような声で紫乃は呟く。

「でも海を見れなきゃ、カギのかかった宝箱とおんなじだよ……」
「そんなこと……」
「朝陽くんに、しのの気持ちなんてわからないから……」

 その言葉が胸の内側にグサリと突き刺さって、思わず涙がこぼれそうになってしまう。しかし母から前に教えられた言葉を思い出し、朝陽は踏みとどまった。

 男の子が、女の子の前で泣いたりしてはいけない。

「……じゃあそのカギが見つかるまで、僕は待つよ。しのの病気が治るまで、僕は待ってる。だから病気が治ったら、一緒にいろんなものを見に行こう。紫乃が行きたいって言ったところなら、どこへだって連れて行くよ」
「無理だよ。だって、治らないんだから……」

 無慈悲にも彼女はそう告げる。

「だって、そういう病気なんだもん。海だって、イヌだって、道に咲いているお花だって、しのには一生見ることができないの……だからしのにとって、そんなもの綺麗じゃない……」

 それは、明らかな拒絶。開きかけていた扉は、大きな鍵がかけられたかのように固く閉ざされてしまい、もう朝陽が触れることは叶わない。

 それでもその孤独に触れたくて手を伸ばすけれど、結局見えない壁に阻まれて届くことはなかった。

「もう、しののへやに来ないで……どっちにしても、しのはもうすぐ……」

 母の教えてくれた言葉は、守ることが出来なかった。目からはぽろぽろと涙がこぼれ、頬を濡らしていく。目の前の少女に見られなかったことが、朝陽にとっての唯一の救いだった。

 しかし紫乃の母に大丈夫かと心配されて、不甲斐なさに余計涙が溢れてくる。最後に残った理性を総動員して、震えながらも朝陽は訴えた。

「しのは、悪くないんです……僕が勝手に泣いただけだから……」

 一番泣きたいのは彼女の方だと、子どもながらに理解できていた。だからあの場でどうしても泣くわけにはいかなかったのだ。

 紫乃の母は、朝陽を抱き寄せて頭を撫でてあげた。そして小さく呟く。

「ごめんね。朝陽くんに、全部背負わせちゃって……」

 背負ったわけではないと言いたかった。僕はただ、自分の意思で紫乃と仲良くなりたかったのだと。

 だけど壊れた感情が邪魔をして、それを言葉にすることが出来なかった、ただ、仲良くなりたいだけなのに。

 それだけが、朝陽の望みだった。
 あれから二日ばかりが経った。

 日課になりつつあった東雲家の訪問は二日前に途切れ、ぼんやりとテレビを見て過ごす生活が続いている。姉の朝美はよく外へ遊びに行くが、今日は珍しく朝陽の隣に座って一緒にテレビを見ていた。

「あさひ、友達いないの?」
「はるきくん」
「じゃあはるきくんと遊びに行ってくれば?」
「はるきくんとはこの前、キャッチボールして遊んだから」
「毎日遊びに行けばいいじゃん」
「今日はクラスのお友達と遊んでるんだって」
「混ぜてもらえば?」
「その人と僕はちがうクラスだから」
「じゃあべつの友達は?」
「……」

 その姉からの質問に朝陽は黙り込む。

 小学一年の朝陽には、休日に遊びに行くほどの友達は、春樹という幼馴染しかいなかった。

「仕方ないなぁ、あさみが遊んだげる」
「え、いいの?」
「今日はすんごい暇だからね」

 そう言って朝美は部屋に戻り、可愛いアニメ柄がプリントされたトランプを持ってくる。たまに姉が遊んでくれることが、朝陽は嬉しかった。バリエーションは少なく基本的にトランプぐらいだが、大好きな姉と遊べるならそんなことはどうでもいい。

 それから一時間ほどの間、二人でトランプをして遊んだ。久しぶりに朝陽の表情に笑顔が戻り、それを見た朝美は安心したように微笑む。

 いつもより気分の落ち込んでいる弟を見て、何か元気付けてあげたかったのだろう。友達と海に遊びに行く約束を、一週間前に母へ話していたことを、笑顔の朝陽が思い出すことはなかった。

 途中母が加わって、二人の輪は三人に増える。笑顔の息子を見て、母はホッとした表情を見せた。

 ふと紫乃の部屋でした会話を思い出し、朝陽は質問を投げかける。

「宝箱のカギをなくしちゃったら、どうすればいいのかな。カギをなくしちゃったら、もう一生、中の綺麗なものを見ることができないもん」
「あさひ、なんか難しいこと考えてるんだね」

 朝美はよくわからないといった風に首をかしげる。幼い朝陽にも、実はよくわかってはいない。

 母は言った。

「それじゃあ、もっと綺麗なものを二人で見つければいいのよ。それか、一緒にカギを探してあげるとかね」
「でも、その子はお外に出られないよ?」
「それでも綺麗なものは見つけられると思うわ」

 大人の言うことはよくわからない。閉ざされた部屋の中で、綺麗なものを見つけることなんて出来るはずがないのだから。

「うーん。じゃあ、お母さんが朝陽に宿題を出してあげる」
「え、宿題……」
「大丈夫よ。ただ絵本を読むだけだから」

 宿題と聞いて顔をしかめる朝陽にくすりと微笑んだあと、母はリビングを離れてどこかへ行った。やがて三分後ぐらいに戻ってくると、その手には一冊の絵本が握られていた。

「これ、読んでみなさい。今のあなたにきっと必要な本だから」

 そう言われて恐る恐る開いてみると、たしかに母の言った通りそれは朝陽にも馴染みのある一冊の絵本だった。

「あさひ、小学生にもなって絵本読むの? 子どもだね」
「でもそれ、お母さんの本よ?大人でも絵本を読んでいいと思うけどなぁ」

 母はニコニコと微笑む。子どもにとって親の言葉は絶対に等しい。子どもみたいだとバカにしたけれど、母が読むならと思ったのか、朝美も「あさみも読む。終わったら貸してね」と朝陽へお願いした。

 宿題と言われて身構えてしまったが、母の言葉を信じて少しでも読んでみようという気になった。さっそくその絵本を持って自分の部屋へとこもる。

 あらためて題名を見てみると、それは一部が漢字で書かれていて、小学生の朝陽には読むことができなかった。

「……の……こさま?」

 やはりお母さんのくれた本は難しいじゃないかと投げ出してしまいそうになったが、少しだけだと言い聞かせて一ページ目を開いてみる。表紙と違い本文にはしっかりとルビが振ってあり、朝陽でも難なく読むことができた。

 そして読み進めて行くうちに、その本のタイトルが星の王子さまであるということを理解する。内容は、ある星の王子さまがいろいろな星へ旅に行くというもの。

 その旅の中では、色々な人物との出会いがある。星から星へ旅をするというのは面白みがあったが、朝陽にはその物語の本質は半分ほども理解することができなかった。

 半ばくじけそうになって退屈さを感じてきた時、王子さまは地球へとやってくる。そこでとあるキツネと出会い、大切なことを教えられた。

 その言葉を読んだ時、母が伝えたかったのはこの一文なのだと理解できた。

「いちばんたいせつはものは、目には見えない……」

 それはきっと、人と人との繋がりのことを言っているのではないかと朝陽は思った。人との繋がりは、絶対に目で見ることができない。一番綺麗で、純粋で、大切なものだからこそ、神様は目には見えない場所に隠してしまったのだ。

 だとするならば、それを紫乃にも教えてあげたい。そして今度こそ友達になって、いつか一緒に海へ行くのだ。

 パタンと絵本を閉じて、母に何も言わずに家を飛び出す。紫乃の家は、もう完全に覚えていた。

 十分も経たないうちに見慣れた一軒家に辿り着き、迷わずにインターホンを鳴らす。紫乃の母が玄関から出てくる時間すらもどかしく、無意識のうちに両足で地面を叩いていた。

 やがて玄関から母が出てくると、朝陽はまくしたてるように用件を伝えた。その必死な姿に動揺しているようにも見えるが、二日ぶりに来てくれたこともあって母は安堵の表情を作っている。

 紫乃の部屋に通された朝陽は、迷わずにベッドの側へと近寄った。びくりと芋虫が震える。

「もうこないでって言ったじゃん……」
「やだ」

 明らかな拒絶を突っぱねた。
 そして持ってきた本を広げる。

「今日はしののために、ある本を持ってきたよ」
「いらない。どうせ、しのが聞いても悲しくなるだけだもん」
「そんなことない」

 拒否の言葉を無視して、今度は声を出して絵本を読み始めた。様々な星を巡る王子さまのお話。その旅の果てである地球。最後に出会ったキツネから教わった言葉。

「いちばんたいせつはものは、目には見えない」

 その全てを読み終わり絵本を閉じると、部屋の中に静寂が訪れた。お互いの息遣いさえも鮮明に聞こえてきて、もしかすると紫乃は寝ているんじゃないかと不安になる。

 しかしすぐに、布団の中からすんという鼻をすする音が聞こえてきた。泣いている。すぐに朝陽はそれを理解した。

「あ、あの、しの……?」

 自分が強引だったかもしれないと不安になる。また逃げ出したくなってしまったが、今度こそ持ちこたえた。泣かせてしまったなら、最後には謝らなきゃいけない。これも朝陽が母から学んだ言葉だった。

「しの、ごめん……」

 それが聞こえていたのかはわからない。

 だけど紫乃はゴソリと布団を揺らしたかと思えば、その中からひょっこり顔だけを覗かせる。

 まっすぐと、朝陽はその少女を見た。しかし彼女は恥ずかしいのか、朝陽と目線を合わせてはくれない。

 涙でぐちゃぐちゃになっているが、写真で見た通りの女の子だった。まるで、世界の優しいものを全て詰め込んだかのような、かわいらしい少女。触れてしまえば壊れてしまいそうな危うさを秘めているが、それでも朝陽はその女の子と触れ合いたかった。

「ねぇ、僕と……」

 友達になってほしい。

 その言葉に紫乃が頷いたのを見て、朝陽はやっぱりちょっとだけ泣いた。

 そして二人は約束をする。いつか、たいせつなものを探しに行く旅に出ようと。その約束に今度こそ紫乃は頷いた。

 それから朝陽は毎日のように紫乃の家に通っては、図書館で借りてきた絵本を読み聞かせた。世界のいろんなものを見たことがない紫乃は、どんなものにでも興味を示している。

 たとえばそれは道に咲くタンポポであったり、暗闇でパチパチと弾ける花火だったり。自分の知っているなるべく多くのことを紫乃に教えてあげた。

 紫乃はその全てに興味を示したが、決して朝陽と目を合わせようとはしなかった。そのことに、朝陽は最後まで気付きはしなかった。

 彼女は身体が弱いのか、ベッドで寝転がって咳をしていることが多い。そんな時、朝陽は紫乃の母に薬をもらって、彼女に飲ませてあげたりもした。

 そういう日が何日か過ぎた頃、その日は突然やってくる。紫乃が突然どこか遠くの場所へ引っ越していった。

 その事実を知った朝陽は、部屋の中で泣き崩れる。どうしてこんなことになってしまったのか。もしかすると、僕が何かをしたのかもしれない。そんなとりとめのない、確認も出来ない事柄が、いくつもいくつも朝陽の頭の中に浮かんでくる。

 もう会えないのだと悟ったある日、あの輝かしい思い出を全て忘れようと決心した。

 そして月日が経ち、新たな引っ越し先で玉泉珠樹という女の子に出会う。その少女は、嵐のように激しくてわんぱくな女の子だった。
 綾坂彩はキャスター付きの大きなスーツケースをゴロゴロと引きずりながら、見たこともない田舎町の景色を歩く。

 あらかじめ東雲紫乃に麻倉朝陽の住んでいる場所を訊ねたが、彼女は彼の家の場所を知ってはいなかった。どうやら彼女は、彼の家にお邪魔したことはないらしい。

 そのため県と市名しか情報がなく、本当にこの田舎町に朝陽が住んでいるのかは定かでない。数泊出来るお金と着替えは持ってきたため、しばらくは探し回ることができるが、そんなに悠長に探し回れるほどの余裕はない。

 彩はなるべく人の多い地域へ向かい、周辺を歩く同世代の人間を呼び止めては声をかけるということを繰り返した。しかしそれは何度も空振りに終わり、お昼が来たため近くの喫茶店にとりあえず腰を落ち着ける。

 店員にアイスコーヒーとサンドイッチを注文して受け取った後、スマホを開いてメールを見る。

 昨日も確認した紫乃からのメールをもう一度開く。そこには彩への感謝の言葉が綴られていて、最後に、『本当に申し訳ないけどお願いします』と添えられていた。

 いつものように現状報告のメールを打ち終わった彩は、スマホを待機モードに落としてポケットにしまう。それからアイスコーヒーを飲みつつサンドイッチを食べて、もう一度麻倉朝陽探しを再開させた。

「それにしても、暑い……」

 一応彩は日除けの麦わら帽子をかぶってきたが、それでも暑いことには変わりがない。額から汗が吹き出してきて、ハンカチでそれを拭った。休みながら探さないと先に自分の限界が来てしまうと思い、彩は公園を見つけてはベンチに座り休憩をする。

 暑さでうなだれているとき、公園の外の道を歩いている制服姿の男を見つけた。正直今は動きたくもないぐらい疲れているが、もしあの人が麻倉朝陽だったらと考えると、自然と重たい腰は持ち上がっていた。

 公園の外を歩く彼へと近付く。

「あのー、ちょっと話を伺ってもいいですか?」
「はい?」

 彼は一瞬首を傾げるが、すぐに姿勢をピンと正す。おそらく彩の容姿に驚いたのだろう。彼女は外を歩けば、多くの目を惹きつけるほどの綺麗な容姿を持っている。

 つまり彼はそんな美少女に話しかけられて緊張しているのだ。

「あ、え、なんですか……?」
「実は、麻倉朝陽くんという方を探していまして」
「え、麻倉朝陽?」

 彼は文字通り目を丸める。

 これは良い結果が得られそうだなと思い、彩の疲れが和らいでいった。しかし何やら事情があるらしく、彼は渋い表情を浮かべる。

「あの、実は朝陽のやつ、小学生の時に引っ越したんですよ……」
 もしかすると長い話になるかもしれないと言われた彩は、彼に連れられてファミレスへと入る。

 奢りますよと言われて最初は遠慮をしたが、結局最後に押し切られてしまった彩は、なるべく財布に負担のかからないものを注文した。

 やがて彼の注文した、たらこスパゲッティと、彩の注文したミートドリアが運ばれてくる。それを食べながら、話を始めた。

「や、いきなりで悪いんだけどさ、朝陽との関係性を教えてもらっていい? 一応友達の個人情報なので」

 ここに来る前に年齢の話になって、お互いが同い年だということが判明したため、今はもう喋り方がくだけたものになっている。ちなみに彼の名前は晴野(はるの)春樹(はるき)という。

「私自身、朝陽くんにあったことはないんだよね。友達のお願いで、遠路はるばるここへ探しに来たの」

 そう言って彩は、自分の身分証明書となるものを春樹に見せた。

 そこには綾坂彩の名前と顔写真、生年月日、学校名が記載されている。学校名には県の名前が入っているため、彩が遠くから来たということは伝わっているだろう。

「遠くからわざわざ来たっていうのは分かったけど、なんで君が来たの? そのお友達さんが探しに来るのが普通じゃない?」
「その子、割と対人コミュニケーションが得意じゃないんだよね。だから私が手伝ってるの」
「へぇ、綾坂さんとそのお友達さんってすごく仲が良いんだね」

「はい」と言って、素直に彩は頷いた。

「そのお友達っていうのは、やっぱり朝陽のお友達?」
「友達だよ。といっても、小学一年の数週間程度しか一緒にいられなかったらしいの。私の友達が引っ越しちゃったから」
「小学一年の頃なら、俺が知る限りそんな友達いなかったと思うんだけど」
「あぁ、それは……」

 彩は朝陽と紫乃の関係性について話した。

 キャッチボールの球が家の庭へ入ってしまったこと。それがきっかけで、二人は友達になったこと。

 思い当たる節があったのか、話をしている最中彼は昔を懐かしむような表情を浮かべていた。

「なるほどね。あの時かぁ」
「あの時?」
「あぁいや、その時朝陽と一緒にキャッチボールをしてたんだよ。そんで朝陽が人の家にボールを飛ばしたから、ビビって俺だけ逃げたんだ」

 懐かしいなぁと呟く春樹の表情はとても穏やかで、きっと昔は仲が良かったのだろうことが容易に想像出来た。

「うん。嘘をついてたり、君が悪い人じゃないってことはよくわかったよ」
「今の話だけでわかったの?」
「だって、あの公園にいたのは俺と朝陽の二人だけだったし」

 そう言うと、春樹はスマホを取り出して文字を打って彩に見せる。そこにはここから割と遠い場所にある、浜織町という名前が書かれていた。

「悪いんだけど、実は引っ越しする町しか聞けてないんだ。小学二年の頃からなんとなく疎遠になっちゃって」
「ううん大丈夫! 町の名前がわかっただけでも、すごい進歩だから!」

 彩がお礼を言って微笑みを見せると、春樹は目をそらして鼻先を人差し指でかいた。それから窺うような視線を向ける。

「あの、さ。綾坂さんって彼氏とかいる?」
「え、いないけど。どうしたの?」

 その返答に春樹はホッとした表情を見せたが、彩にはどうしてそんな表情を見せたのかが分からなかった。

「いやぁ、綾坂さんってほら可愛いから、周りの人が放っておかないんじゃない?」
「え、可愛いって。ありがとうございます? でもそんな、お世辞とか言わなくてもいいよ」
「いやいやほんと可愛いって。ぶっちゃけ綾坂さんみたいな可愛い人初めて見たもん」

 春樹は分かりやすい好意の目を見せるが、そういうことに鈍感な彩は困ったような表情を見せて曖昧に微笑み、もう一度ありがとうございますとお礼を言う。

 病院生活が長く続いていたため、お年寄りの入院患者からは可愛いと何度も言われていた。いつのまにか言われ慣れてしまって、春樹の言葉は全然彩に響いてはいない。

 綾坂彩はいわゆる天然であり、純粋培養の善人なのだ。

「晴野くんの方こそ、男らしくてかっこいいと思うよ」
「え、まじ?! うわあめっちゃ嬉しい!」

 相手が喜んでくれると、自分のことのように嬉しくなる。彩は春樹のことを見て、ニコニコと微笑んでいた。

「ねえねえ、これからまたどっか行かない? 俺また奢るからさ」
「お誘いはとても嬉しいんだけど、結構時間が限られてて……実は家族には黙って飛び出してきたの」
「あ、あぁ、そうなんだ……じゃあさ、メアド交換しない?」
「それなら全然構わないよ」

 二人はご飯を食べ終わると、手早くメールアドレスを交換してファミレスを出た。

「麻倉朝陽さんのことを教えてくれて、それにご飯までご馳走してくれるなんて本当にありがとね」
「いやいや、困ったときはお互い様だから。朝陽のこと見つけられるの祈ってるよ」

 彩はにこりと微笑んで頭を下げた後、もう一度大きなスーツケースをゴロゴロ引いて歩き出した。そしてスマホを取り出して、紫乃に現状報告のメールを打ち込む。

 朝陽の所在が分かったこと。今は浜織という町にいるということ。それと朝陽の友達である、春樹という男の子とメアドを交換したこと。

 電車の中で一度意識を沈めた後に目を覚ますと、紫乃からの返信がメールボックスに入っていた。内容は彩への感謝の言葉であり、やっぱりそれを見て彼女は嬉しくなる。

 自分の胸に手を当てて、祈るように呟いた。

「次は紫乃が頑張ってね。私はあなたのこと、応援してるから」
 インターホンの音で朝陽は目を覚ました。目を開けると薄く開いたカーテンの隙間から陽光が差し込んでいて、思わずまぶたを狭める。

 やがて眩しさに慣れた頃に起き上がって、眠気を飛ばすために大きく伸びをした。

 母が起きているだろうと踏んで、朝陽は玄関には向かわずにぼーっとしていると、不意に机の上のスマホがブブブと振動する。こんな朝早くに誰だろうと思い起動させてみると、相手は珠樹だった。

 開いてみると、ボックスに二、三通メールが溜まっている。

『ねえちょっと訊きたいことがあるんだけどっ!』
『今から朝陽の家に行くから』
『ねえ今起きてんの?!』

「うわ、まずい……」

 理由はわからないけれど、珠樹が怒っているのだということは容易に想像できた。おそらく、インターホンを鳴らした主も珠樹なのだろう。

 その答え合せをするように、一階から朝陽を呼ぶ母の声が聞こえてきた。手早く私服に着替えて玄関へ向かうと、愛想笑いを浮かべた珠樹が母と談笑している。制服を着ているから、学校へ部活に向かう途中なのだろう。

 朝陽が来たのを確認すると、母はリビングの方へと引っ込んで行った。同時に珠樹から愛想笑いがスッと消えて、眉が内側に寄り、目元は鋭さを持ち始める。

「ねえ、訊きたいことがあるんだけど」
「えっと、なにかな……」
「昨日、朝美姉から聞いた」

 朝美が何か言ったのだろうか。あの人はいつも適当なことを言うから、朝陽の身体は自然と震え上がる。

「東雲さんが、朝陽の家に泊まったって?」
「あ」

 そういえば珠樹に説明していなかったことを思い出す。朝陽は昨日の経緯を伝えた。

「紫乃が今日までしかホテルの部屋を押さえてなかったんだよ。だから別の場所を探さなきゃいけなくて、それなら僕の家に泊まればって」
「思春期の男の子がいる家に女の子を泊めるなんておかしい」
「でも仕方ないじゃん。それに、紫乃は姉ちゃんの部屋で寝たよ?」
「朝美姉の部屋で寝たからって、朝陽が何も出来ないわけじゃないでしょ」
「なんで僕が手を出すこと前提なの……」

 呆れたようにため息を吐くと、紫乃は肩を怒らせながら詰め寄った。朝陽はびっくりして、半歩ほど身を引く。

「ねぇ、私、中学一年の時以来、朝陽の家に泊まってないんだけど」
「それは珠樹がもう大きくなったから……」
「なんだ、自覚あるんじゃん」

 実は、中学生になって大きくなったから、男の家に外泊を許可しなくなったというわけでもない。もちろんそれも一因ではあるが、最大の要因は珠樹が海で溺れかけてしまったということにある。

 あの出来事以来、珠樹の母は娘に対して少し敏感になってしまった。心配をして怒鳴り散らすというわけではないが、極度に不安を抱くようになったのだ。どこにいるのか、何をしているのかを何度も確認してくる。

 そんな母を不安にさせたくないから、あの出来事以来珠樹は外泊を行なっていない。そういう事情があることは、彼女にも分かっている。

「でも、それとこれとじゃ話が別でしょ? 紫乃を泊めなかったら、最悪野宿になってたかもしれないんだよ?」
「それじゃあ、一度私に相談してくれれば……」
「いやいや、珠樹の家はお父さんが厳しいじゃん……見ず知らずの人を泊めてはくれないでしょ」
「うっ……」

 珠樹は言葉を詰まらせる。朝陽もその選択を一度は考えていたが、すぐに候補から外していた。

 勢いをなくしたようにも見えたが、何かを思い出したのかすぐにまた目元に鋭さが宿る。

「昨日、東雲さんと遊びに行ったんだって?」
「まあ、そうだけど……」
「なんで私も誘わなかったの」
「いや誘ったよ。そしたら部活があるって」
「うっ……」

 すっかり忘れていたのか、苦虫を噛み潰したような表情になった。なんだか珠樹を責めているような気分になってきて、朝陽は申し訳ない気持ちになる。

 自分の説明不足だったなと反省した。

「……朝陽くん、どうしたの?」

 そうこう話しているうちに、紫乃が玄関から出てきた。寝起きなのか眠気まなこをこすっていて、朝陽の目の前にいる珠樹には気づいていない。

「なんか、外から朝陽くんの声が聞こえてきて……それで紫乃、気になって……」
「ごめんちょっと珠樹と話してたんだ」
「……珠樹?」

 眠気まなこのままゆらゆらと近付く。目が合うと珠樹は一度会釈をした。しかし紫乃は会釈をせずに目を丸めて、突然ふらっと身体が揺れる。

 すぐにそれに気付いた朝陽は、慌てて紫乃のことを抱きとめた。

「紫乃、大丈夫?!」
「うわ、あ、ごめん」

 朝陽の腕の中にいる紫乃は、何が起きたか分からないといった風に目を丸めて驚いていた。そして自分が抱きしめられているということに気付き、薄っすらと耳が赤くなる。

 珠樹も紫乃へ近寄った。

「ちょ、ちょっと、東雲さん大丈夫?」
「あ、玉泉さん……おはようございます……」
「おはようございます……じゃなくて! もしかして体調悪いの?」
「体調は悪くないと思いますけど……」

 そう言うと、お礼を言った後に朝陽から離れた。珠樹はすぐに、紫乃のおでこに手のひらを当てて検温する。突然手を当てられた彼女は、くすぐったそうに身をよじって目をつぶっていた。

「熱はないね」
「紫乃、大丈夫?」
「あ、うん。全然平気だよ。ほらすごい元気!」

 紫乃は二人の前で腕をぶんぶんと振り回している。なんだか子どもっぽくて可愛いなと感じたが、朝陽はすぐに我に返った。

「ほんとに、隠してない?」
「体調は大丈夫だって。寝ぼけてたからちょっとふらついただけ」
「朝陽、たぶん体調はどこもおかしくないと思うよ」

 その手で検温した珠樹が言うなら間違いはないのだろう。取り越し苦労ならそれでいいのだが、万が一のことを考えてしまうと不安の気持ちが押し寄せてくる。

「てか、ごめん。感情的になってた……玉泉さんも起こしちゃったし」
「僕は気にしてないよ」
「私も気にしてません」

 二人はそう言うが、珠樹は反省しているのか、いつもより身体を縮こませていた。そんな彼女を見て、紫乃は首をかしげる。

「玉泉さんは、朝陽くんと何のお話をしていたんですか?」
「お話っていうか……私が一方的に話してたっていうか……」

 上手い言葉が見つからないのか、なかなか声に乗らずに口の中でもぐもぐしている。珠樹がこんなに言い淀むのは珍しいため、朝陽は助け舟を出すことにした。

「紫乃が無事に眠れてたか心配してたみたいだよ。一応男の僕が住んでる家だし、それに姉ちゃんとかも……」

 紫乃はハッキリとは言わずに、苦笑いを浮かべる。やはり朝美の横ではぐっすり眠れなかったのだろう。

「朝美姉の寝息すごいからね」
「あ、いえ、でも朝陽くんのおかげで結構ぐっすり眠れたんですよ」

 珠樹はキッと朝陽を睨んだ。

「だから違うってば。眠れるようにココアを作ってあげただけ」
「へえ優しいんだね」

 嫌味を言っているかのような、感情のこもっていない声。また怒らせてしまっているのだということはすぐにわかった。

「というか珠樹部活は? コンクール近いんじゃないの?」
「おいなんだ、私が部活に行ってほしいのか?」

 朝陽はすぐに頷く。心の中には他意など一つもなかった。

「今日は行かない。私休む」
「えっ」
「たまには休息も必要だと思うんだ。毎日吹いてると唇が痛い」

 一昨日に十分休んだじゃないかとツッコミたくなったが、朝陽は何も言わずに黙っておくことにした。珠樹は基本的に一度決めたことは曲げないし、しつこく言えば不機嫌になってしまう。今も十分不機嫌ではあるが。

「というわけで今日は三人で出かけよう。紫乃ちゃんはどこに行きたい?」
「あ、え、私ですか?」

 チラと窺うように紫乃は朝陽を見る。
名前で呼ばれたことにやや戸惑っているようにも見えるが、何か伝えたいことがあるようにも見えた。

 とりあえず、紫乃の判断に任せるよということで、一度首を縦に振った。

「あの、私は、どこでも……朝陽くんと玉泉さんの行きたいところで……」
「紫乃ちゃんそんなにかしこまらなくていいよ。あと私のことは普通に珠樹でいいからね!」

 いつものように、珠樹は恐れることなく相手との心の距離を一気に詰める。朝陽としては二人が仲良くなってほしいし、紫乃にも友達が出来て欲しいため、珠樹の性格に感謝していた。

 しかし紫乃はまだ打ち解けることが出来ないのか、やや戸惑いの残った表情で不器用に微笑んだ。

「じゃあ、珠樹さん」
「よしきた! それじゃあ山行こう! 川行こう! 花火しよう!」
「え、本当に山に行くの?」
「タリメーだろこら! ほら朝陽、十秒で支度しな!」
「いやいや無理だって……せめて二十分ぐらい時間ちょうだいよ」

 そう言いつつも、珠樹が急かすため十分以内に用意を済ませて玄関前に戻ってきた。

 そして珠樹は紫乃の手をガシッと掴み、先導するように歩き出す。その強引さに紫乃は目を丸めていたが、やがて自然な笑みがこぼれ始める。

 二人が打ち解けられそうで、朝陽も安心した。