精一杯、心のままに伝えると、どこか悲しそうに、けれど慈しみを滲ませて微笑むナギ。
「強くなったな。昔はさ、俺たちのうしろでモジモジしてたのに」
「ナギとヒロのおかげだよ」
昔と同じように、ナギが手を引いて、ヒロが背中を支えてくれたから。
ううん、それだけじゃない。
女将さんも、八雲君も、ヒロのお姉さんも。
私が踏み出すきっかけをくれた。
「この島に帰ってきて、二人とまた会えて、本当によかった」
感謝の気持ちを込めて声にすると、微笑むナギとヒロに微笑みを返して。
風に舞上がった桜の花びらに、どうか、どうかと、大切な人の幸せな行く末を請い願った。
何度目かのコール音のあと、聞こえてきた母の声は少し小さく潜められていた。
まだ仕事中だったようで、またかけ直すことを伝えたけれど、大丈夫だから用件はと尋ねられて。
「あのね、やっぱり明日、帰ることにしたから」
先程変更してもらったばかりのフェリーのチケットを手にしながら伝える。
あのあと、ナギはまた力尽きるように消えてしまった。
様子を見に行ってくると病院に向かったヒロからは、やっぱりナギの容態が悪くなっていてウロウロできる力もなかったのだろうと電話で聞かされて。
グズグズしてはいられないと、雪が降り始める中私は港へ急行し、フェリーの予約を変更してもらった。
飛行機もさっき電話で空きを探してもらい、どうにか帰れる目処がたったところだ。
『渚君の意識は?』
オフィスから離れたのか、母の声がいつものトーンに戻る。
「まだ戻ってないの。でも、私は私のすべきことを頑張るって決めたんだ」
コロコロと予定変更ばかりしてごめんなさい。
謝ると、母は『それは気にしないでいいわよ』と言ってくれた。
その上。
『時間は? 荷物多いだろうし、迎えに行けそうなら行くわ』
気まで使ってくれて、私は一応時間を伝えつつも、仕事もあるだろうし無理はしないでとお願いした。
互いを気遣うようなぎこちない間は存在するけれど、それでも今は満足で。
よくなっていく状況に、通話を終えた私は勾玉を優しく包むように握りしめる。
このままいい流れになるようにと。
ナギの命をしっかりと繋いで、早く目覚めるようにと。
祈って、私は女将さんに帰ることを伝えに部屋を出たのだった。
着信が鳴り響いたのは、スーツケースに荷物を纏めていた時だ。
窓の外では未だ雪が降り続けている。
ディスプレイに表示された名前を見て、私は何かあったのではと、どうにも嫌な予感を胸にスマホを耳に当てた。
「ヒロ、どうしたの?」
『今、ナギと一緒か!?』
「え? い、一緒じゃないけど……」
慌てふためくヒロの声に、胸騒ぎは強くなっていく。
杞憂であって欲しい、予感なんて外れて欲しいと祈りながら、何かあったのかと口にする前に、ヒロが悲痛な声で言った。
『ナギが……危篤、状態になった』
一瞬つかえた声は、彼の動揺を伝えていて。
「ナ、ナギ……」
全身の血が冷えていくような感覚が私を襲った。
急いで病院にと、立ち上がってふと思い至る。
死の間際にいるというなら、もしかしたら。
「わ、私……御霊還りの社に行ってくる」
黄泉路を渡る前に引き止めなければと、スマホを耳に当てながらコートを掴んだ。
『待て凛。雪も降ってるし、もう暗いからあの林を抜けるのは危ないぞ』
「危なくても行かなくちゃ!」
幸い、吹雪くような雪じゃない。
時間だってまだ九時を回ったばかりだ。
「ナギがいたら戻るように話すから、ヒロは病院で待っていてあげて」
『凛!』
なおも止めようとするヒロ。
申し訳なく思いつつも、通話を切って部屋を出ると慌ただしく階段を駆け下りる。
何事かと驚いたのか調理場から女将さんが顔を出して。
「いったいどうしたの?」
「ナギが……幼馴染が、危篤にっ……」
自分で言葉に出した危篤という響きはずっしりと重く、音にした途端、今、かけがえのない存在が遠くへ行こうとしてることをまざまざと感じさせられて恐怖を覚える。
心に絶望感が満ちて、眉を悲しげに寄せて驚く女将さんにお辞儀をして。
「私、行ってきます!」
それだけ伝えると、みなか屋を飛び出した。
バスは七時を過ぎるともう走っていないので、明日返す予定だったヒロの自転車に跨った時だ。
「凛ちゃん! 車出すから乗りなさい!」
コートを肩にひっかけた女将さんが愛車のドアを開けて運転席に乗り込む。
早くと促されて、彼女の優しさに瞳を潤ませながら、私は自転車を置くと助手席に座った。
気持ちが焦る中、私は車内で説明する。
以前話した幼馴染が危篤状態に陥っているとヒロから連絡があったこと。
その幼馴染とは、幽霊みたいな状態で私と会っていたこと。
その彼を、今から引き止めにいくのだと。
女将さんは驚きつつも、疑わずに真剣に話を聞いてくれて。
雪が積もり始めた道を慎重に、けれど急いで車を走らせてくれる。
やがて御霊還りの社に続く林の入り口で車が止まると、扉を開けた私に女将さんは言った。
「ここで待ってるからしっかり頑張っておいで。帰ったら一緒に温かい紅茶を飲もうね」
「はい!」
大きく頷くと、私はスマホのライトをつけて林の中へと足を踏み出した。
うっすらと雪をかぶる獣道を進んでいく。
夜の林は暗くて薄気味悪い雰囲気に包まれているけれど、恐怖心を振り払うように私は足を前に前に向かわせる。
そして、身を切るほどの寒さの中、辿り着いた御霊還りの社は。
「これ、は……」
ナギが呼んでいた夢のように、どこもかしかもが白に染められていた。
足元には絨毯のように広がる雪と、それを囲む冬桜の木々。
はらりはらりと舞い散る雪と桜の花びら。
頭上の雪雲の向こうに、淡く光る月がうっすらと見えていて。
「……ナギ、いないの?」
しんと静まり返った空間に、私の声が溶けていく。
ライトを消したスマホにヒロからの連絡はない。
それはきっと、まだ、ナギが生きている証拠。
「ナギ……ダメだよ、ダメ」
小さく頭を振って、ぐるりと辺りを見回した。
涙で滲む景色の中に、ナギはいない。
ただ、ひたすらに白い景色が続いているだけ。
「お願いだから、まだ逝ってはダメ」
どうか逝かないで。
吐き出す息が震える。
ああ、今ならよくわかる。
神様が愛しい巫女の魂を自分の元に引き留めたのが。
大切に想う人が離れていくなんて。
会えなくてなるなんて。
そんな苦痛、耐えられない。
胸元の勾玉を引っ張りだして、両手で包む。
「神様、お願いです」
かつて、巫女の魂を自らの魂と繋げたアメノヨモツトジノカミ様。
その行先が、自らの死に繋がるとしても。
「私の命で彼を助けられるのなら、彼の魂を繋いでください」
ナギの命を繋ぎ止めて、家族を失って居場所を求める彼に、どうか、温かな幸せを。
心から願って、俯いた顔を上げた刹那。
雲の隙間からゆっくりと満月が現れて、御霊還りの社を月光が照らしていく。
月の光を受けて、風に舞う花びらが、雪が、淡く光る。
幻想的な光景に息を漏らしたと同時。
──リリン。
たまゆらが知らせる。
「そんなこと、俺が許さない」
ナギが、ここにいると。
「神様が許しても、俺は許さない」
ゆらりと陽炎のように現れた彼は、柔らかくて綺麗な髪を淡い月光で染め、私の目の前立つと色素の薄い瞳を伏せる。
「……例え、死なないとしても保証なんか、ないんだ」
今体に戻れても、今状態が安定したとしても、目が覚めるかなんてわからない。
「今じゃなくても、近いうちに死ぬ可能性だってゼロじゃない」
それは、明日かもしれないし、一週間後かもしれない。
ナギの悲しげな声に、私は小さく首を横に振った。
人は、いつかその生を終える。
父も、祖母も、寿命というには早い年齢で他界した。
父が亡くなった時には、死ぬことが人の終着点だと、祖母が話していたのを思い出す。
その終着点が黄泉の国で、そこでは魂は消えることはなく、また生まれ変わる時を待つのかもしれない。
生まれ変われたら、また会えるかもしれない。
そう、聞かされたけれど。
「それなら……このまま、凛に見守られて逝くのも悪くないと思うんだ」
私は、来世までなんて、待っていられない。
「それは、私がっ、許さないから!」
熱いものが込み上げて、喉がつかえる。
声を荒げる私を、ナギが珍しいものを見るように僅かに目を丸くした。
涙が頬をポロポロと溢れ落ちるけれど、私はかまわずに続ける。
「大切な家族をみんな失って、悲しくて、辛いかもしれない。苦しんでるナギに、こんなことお願いするのは酷なのかもしれない」
私の傲慢さに、笑っても、呆れられたとしても。
それでもかまわないから。
「でも! 私も、ヒロも、いるよ」
こっそり学童を抜け出して、道路脇に降り積もる桜の花びらを雪のように降らせてはしゃいだ春。
セミの鳴き声を聞きながら、先生がおやつに用意してくれた棒のアイスを頬張った夏。
読書の季節だからと三人で難しい本を読むチャレンジをして、見事に川の字になって眠ってしまった秋。
大きな雪だるまを必死になって作ったら、三人して手に霜焼けまで作ってしまった冬。
二度とあの頃の私たちには戻れないけれど、生きていれば新しい思い出をこれからたくさん作っていける。
喧嘩したって、また仲直りして。
居場所だって、きっと。
ナギならたくさん作っていける。