ティエンは衝撃を受けた。

 まさか子供が、赤の他人に、髪を売って桃饅頭を買ってくるとは思わなかったのだ。
 王族は髪を大切にする風習がある。
 そのため、ユンジェの行為がとても重いものに感じられた。

「鈍い私はようやく全てを察した。この家は本当に貧しいのだと。それでもなお、私を面倒看てくれているのだと」

 朝は早くから畑に出て、夜は遅くまで藁で縄や(むしろ)をこしらえる。しかも、家には子どもだけ。

 一人で生活しているのだと知ったティエンは、ただただ言葉を失った。
 米ばかり要求していた自分は、どれだけ子どもを困らせていたのだろう。大人げない振る舞いに、とても気恥ずかしくなった。追い出されてもおかしくない振る舞いばかりしてきた。

 なのに、ユンジェはティエンを家に置いた。

 一緒に畑仕事をしようと誘い、生きる術を懇切丁寧に教えてくれた。苦しい生活でも笑っていた。

 大人の理不尽な仕打ちに耐えながら、それでも懸命に生きようとする子どもの姿を目にして、ティエンは思った。王族を捨て、ユンジェと共に農民として生きよう、と。

 だから髪を切った。
 子どものため、生活の足しになればと思ったのだ。
    
 また子どもと同じ身分になり、第三王子『ピンイン』の自分は捨てた。王族の自分は、あの夜に死んだのだ。己の名は『ティエン』、これからティエンとして生きる。強く気持ちを固めた。

「私は生かされてばかりだった。何もせずとも、飯と寝床が与えられ、贅沢品を献上された。だが、幸せとは言い難い日々だった」

 誰彼に言われ、それに頷く毎日に、到底生きる実感は湧かなかった。

「ユンジェ。お前に出逢えたこの一年は、しかと自分で生きているのだと思えたんだ」

 農民の生活は不便であった。
 汗水たらしても、満足に食べることができず、ひもじい思いもたくさんした。肉体労働はつらく、寝込むことも多かった。それでもティエンの心は満たされていた。


 その暮らしの中で、生きる実感と、大切な繋がりを得ていたのだから。

 兄のように慕ってくれる子どもと二人で生活する日々は、孤独だったティエンにとって、かけがえのものとなっていた。


「ユンジェだけだった。誰もが私の死を望んでいたのに、お前は必死に走り、よく考え、守ろうとしてくれた。そんなお前につけてもらった『ティエン』という名は私の誇りなんだ」


 それこそ王族の自尊心よりも、品位よりも、ずっと気高いものだと彼は柔和に頬を緩める。

 農民であり続けようとするのは、子どもと対等でありたいがため。血の繋がった家族よりも、深い繋がりを得たためだとティエンは嬉しそうに語った。

 ユンジェは口を曲げて、ふうんと鼻を鳴らす。見え見えの照れ隠しであった。


「それに、私が農民を名乗ることは、カグム達にとっても不都合極まりない。ユンジェ、お前も感じていると思うが、農民は平民の中で最も立場が弱い」


 それはユンジェにも理解ができた。対等な立場であれば、一方的な物々交換を強いられることもないのだから。

「わざわざ間諜として、敵兵にまぎれていたのだ。ここにいる者達は、おおよそ呪われた王子を(まつりごと)に利用したいのだろう。でなければ、『保護』などするものか」

「ティエンが農民だと、カグム達は利用できないの?」

 彼は小さく頷いた。

 曰く、ピンイン王子の『保護』は麟ノ国に深く関わるものであり、政が絡んでいると断言して良い。

 麟ノ国を変えたいのか、王族を討ちたいのか、はたまた別の目的があってのことなのか。なんにせよ、麟ノ国と王族に関わる内容だろうとティエン。

 呪われた王子を利用したい彼らは、ピンイン王子に『王族』のままでいてもらわなければ困る。
 王族の肩書きは強い。それがあるだけで、国が動かせる。なのに、力の弱い農民に成り下がられては、目的を達することも、利用をすることもできない。

 今頃、カグム達は焦っていることだろう。ティエンは薄ら笑いを浮かべた。

「私は今まで頷くばかりの人間だった。人の言うことはなんでも聞く人間だった。ゆえにこれは、向こうにとって想定外のことだろう。またユンジェ、お前の存在も輩達にとって、予想できない存在だった」

 ユンジェは目を丸くする。

「お前は私の懐剣を抜いた者。すなわち、麒麟に使命を与えられた者だ」

 あれは麟ノ国王族にのみ、持つことが許される麟ノ懐剣。麒麟の角を磨き上げ、刃にしたと云われているもの。

 それには麒麟の心魂が宿っており、王族以外の人間には抜くことができない。持っていれば、麒麟と対話ができると信じられている。

 王族は皆、加護を宿した黄玉(トパーズ)を鞘に装飾し、それを懐剣(ふところがたな)として肌身離さず持つのだそうだ。

 ティエンは麒麟から加護を受けられずにいたが、懐剣は抜くことができた。加護が宿らなかったからこそ、誰よりも大切に持っていたそうだ。

「懐剣の殆どは、所有者の王族が持つだけに終わる。しかし稀に王族以外の者が、懐剣を抜くことがある。それが麒麟に使命を与えられた者だ」

 包帯を替え終わると、ティエンが衣を肩まで引き戻し、ユンジェを見つめた。
 その目を見つめ返し、傍に置いていた懐剣を手繰り寄せる。鞘に注目すると、装飾された黄玉(トパーズ)に小さな炎が宿り、ゆらゆらと体を揺らしていた。