「ユンジェ、お前は私と違って辛抱強い。いつもそうだった。出逢った頃の私が食事に我儘を見せても、塩屋の主人に砂糖をぼったくられても、大人達から理不尽なことをされても、怒ることすらしなかった。お前はいつも仕方がない、と流していた」
そうしないと、生きていけない環境にいたユンジェの心を、ティエンはいつも心配していたという。
溜め込むばかりで、吐き出すことをしないこの子どもは、いずれ自滅して心を壊してしまうのではないか、と。
追い剥ぎの話を聞いた時、それが本当になりそうで恐怖した、と彼は苦言する
「だから私は決めていた。声が戻ったら、ユンジェに心の吐き方を教えようと――ユンジェ、感情を出すことは許されることなんだ。お前はもっと怒っていい」
ティエンは何を言っているのだ。ユンジェの中に怒りなどない。
寧ろ、あるのは申し訳なさや心配、罪悪感ばかりなのに。彼は怒れと言う。訳が分からない。本当に訳が分からない。
「よく分かんないよ。おれ、べつに怒りたくないよ」
だからユンジェは、ティエンの言葉を突っぱねた。
意味が分からないと言って、上ずった声で返事し、それよりも怪我の具合はどうなのだと尋ねた。必死に話題を替えようとした。
なのに。ティエンはいつまでも、黙ったまま見つめてくる。ユンジェの気持ちを汲んでくれない。
ついつい腹が立ってしまった。
「お前は何がしたいんだよ。くそっ、怪我しているくせに……俺を庇ったばっかりに、怪我をしたんだぞ! 分かってるのか、ティエン!」
体が弱い癖に、なんで庇ったんだと怒鳴ってしまった。
ティエンが倒れた時、本当に心臓が凍るかと思った。目が覚めない間、死を想像しては頭がおかしくなりそうだった。
心配させるなと体を叩いた。謝ろうと思っていた気持ちが消え、癇癪を起こしてしまった。
芋づるにタオシュンに対する怒りがこみ上げる。
なんでか、追い剥ぎのことも思い出して、毒を吐いた。油屋の主人のことも思い出した。自分を残して死んでしまった爺にまで、その怒りの矛先が向いた。
ずっと蓋していた感情が、わき水のようにこぼれ落ちていく。子どものように泣き喚く歳は、とうに過ぎたと思っていたのに。
「なんで俺ばっかりっ、我慢しなきゃいけないんだよ。痛い思いしなきゃいけないんだよ。苦しい思いしないといけないんだよっ。おれ、何も悪いことしていないのにっ」
「ああ。そうだな」
「きらいだっ、こんな思いをさせる奴等なんて。もう嫌だよ。俺をひとりにするなよ。消えるなよ。置いて行くなよ。苦しくて消えたいのは――俺の方だよっ!」
ユンジェは癇癪を起こしたまま、ティエンのひざ元に顔を埋めて泣きじゃくった。これこそユンジェの本音であった。
「それは困るな。私が困る。お前が消えたら、誰が畑仕事を教えてくれるんだ。私一人では、生活していけないぞ」
うるさいと怒鳴るユンジェの癇癪はやがて、心の奥底で眠っていた恐怖や不安、罪悪感を呼び起こす。
タオシュン達から受けた痛み、命を狙われた恐れ、兄のように慕っていた男にいつまでも会わせてもらえない悲しみ。どれもユンジェにとって、苦しみでしかなかった。
それらから逃れたいユンジェは、ティエンに目いっぱい謝った。
もう何に対して「ごめんなさい」と、言っているのか分からない。ただ楽になりたい一心で謝り続けた。心はぐちゃぐちゃだった。
「謝りたいのは私の方だ。お前にはどれほど迷惑を掛けてきたか……悪かったな、ユンジェ。本当にすまなかった。心細い思いをさせたな。私はもう、大丈夫だ。ユンジェ、大丈夫」
爺がいつも口ずさんでいた「大丈夫」の呪文が、一層涙を誘う。
悔しい。もう十四になったというのに、いつもティエンに心を見通されてしまう。これじゃあ、いつまでも子ども扱いだ。
「ピンインさま。ここにいらっしゃ……ユンジェ」
泣き声が天幕の外にまで響いていたのだろう。カグムがお供を連れて、中に入ってくる。
誰が来ても構わなかった。そんな余裕、欠片もないのだから。
ユンジェは、頭を撫でてくれるティエンに縋って泣き続けた。
心細かったと声を上げ、本気で泣き続けた。甘えを許してくれた男のひざ元で、空っぽになるまで心を吐き続けた。