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うまくいった。
まずユンジェが思ったことは、これであった。
真横に見張りの近衛兵はいるものの、無事部屋から出られたことにホッと胸を撫で下ろす。もしも、チャオヤンを言い包められなかったら、べつの手で部屋から出る方法を考えなければいけなかったので、とても安心している。
(本当はひとりで屋敷を歩き回りたかったんだけど、さすがにそれは許してもらえないだろうな。どっちにしろ、今の俺があれから逃げ出せるわけもないけどさ)
物騒なことを考えているユンジェは、いつものユンジェであった。
未だに己の本当の名前が思い出せずにいるものの、幾分正気を取り戻している。ゆえに主君を軽率に「あれ」呼ばわりすることもできた。あくまで心の中で。
しかし。セイウが傍にいると、それすらできなくなるので、あまり彼の傍にはいたくない。セイウの傍にいるだけで、ユンジェは培ったすべてを奪われてしまうのだ。名前は当然、身分のことも、今まで知り合った人間のことも、思い出すらも。
(それでも俺は、セイウと離れることで心を取り戻すことができる)
それはセイウの懐剣に飾られた黄玉が原因だろう。
今のユンジェはセイウの懐剣を抜き、紐で縛られたティエンの懐剣を帯にたばさんでいる。二本の懐剣に殆ど違いはない。あるとすれば、鞘に飾られた黄玉(トパーズ)の形と、ヒビの有無がある点くらいだ。
けれども。これがユンジェの命運を分けた。
セイウの懐剣に飾られている黄玉は以前、ティエンの放った矢によってヒビが入っている。麒麟の心魂が宿ると謂われている黄玉にヒビが入っているおかげで、ユンジェはすべての心をセイウに奪われずにいるのだ。
これも、ひとえにティエンのおかげだ。
離れ離れになっても、ティエンが自分を守ってくれる。リーミンになったユンジェを取り戻してくれるのだから。
(せっかくティエン達に会えたのに。サンチェには悪いことしちまったな)
ほんとうに悪いことをしてしまった。
それはティエン達に限ったことではない。あの広場で命を散らした罪人らにも、ああ、悪いことをしてしまった。
罪を犯した人間にそのような想いを向けずとも良いのかもしれないが、少なくともユンジェには吐きそうなほど重い罪悪感が募った。
あの時、自分が負けてやれば、あの者達は生きていたのやもしれないのに。偽りの希望を持たされた罪人らを想うと心が痛む。
その一方で、ティエンに想いを寄せた。
今ごろ彼は悲しい思いをしているに違いない。
あれはとても優しい男。ユンジェの行いを背負い、自分のせいだと責めているのではないだろうか。
とくに左肩を射たことは悔やんでも悔やみきれないのではないだろうか? だったら違うと声を大にして言いたい。むしろ、ユンジェは彼に感謝したい。
(ティエン……俺を止めてくれてありがとうな。無事に逃げてくれよ)
聡い彼はすでに気づいている頃だろう。ユンジェは心を取り戻す機会があるのだと。
現にユンジェは矢で射られた瞬間、心を取り戻し、わざと左肩に刺さった矢を抜いて血を出した。
そうすれば、後を追って来た兵士らが顔色を変えて止血をすることになる。セイウが大切にしている懐剣なのだ。第二王子から懐剣を失わせないよう必死になると、ユンジェは知っていた。
あれで少しでも、逃げるティエンらの足止めになれば、ユンジェの思いも報われる。
「リーミン」
厳かな声がユンジェを我に返らせた。
目だけ横に流すと、探るような視線とぶつかる。さっそく心を見透かそうとしてくる。チャオヤンという男は本当に厄介な男だ。カグムが相手をしたくない、と嘆く気持ちも分かる。
(ティエン達のことを考えるのは後だな)
今は少しでも、自分のいる場所を知っておかなければ。知識は必ず力となる。ユンジェはそれを知っている。
そのために、チャオヤンを言い包めて部屋を出たのだから。
(ちゃんと壷の中を覗かないと、怪しまれる。慎重に動かないと)