(ユンジェ……)


 ほんの寸時に見せた、あの目を思い出すだけで胸が熱くなる。
 ユンジェはまだ、完全なリーミンになっていない。あの子の心はちゃんと残っている。どのような仕打ちを受けようと、辱めを受けようと、あの子はあの子なりに自我を保とうとしている。

 だったら、自分のすることはひとつ。

 ティエンらは家屋と家屋の合間を縫うように走り抜けていく。前方に回ってきた兵士らに気づくと、ティエンは迷わず足を止めて矢筒から矢を引き抜いた。

「退けっ! 貴様ら、道を開けろっ!」

 弓づるを千切れんばかりに引き、道を塞ぐ兵士らの顔面目掛けて放つ。
 鉄鏃のついた重たい矢は、向かって来る兵士の柔らかな眼球を貫いた。

 それによって、里を轟かせる断末魔のような悲鳴が上がるものの、ティエンの眼中にはすでに映らない。手早く矢を抜いては引き、兵士らの目を正確に狙った。
 卑怯と罵られようがなんだろうが構わない。いまは生き延びるために必死だった。


「カグム。走れ。援護する」


 とても短い命令だったにも関わらず、カグムはティエンを置いて先を走る。
    
 自分の考えを読んだのだろう。

 兵士らの前に立つと、太極刀でそれらの剣を弾いた。隙ができたところで、兵士らの目や頬、喉を狙って矢を放つ。

 追って来る兵士らの方から悲鳴が聞こえてくる。
 ハオが双剣で兵士らを斬り捨てたのだろうか。矢を構えたまま振り返ると、ハオとサンチェも背後を振り返っていた。彼らは驚愕していた。ティエンも目を見開いてしまう。追って来る兵士と剣を交えているのは、平民を装った王族。

「まさか」

 外衣をかぶって顔を隠しているが、あれは麟ノ国第一王子リャンテで間違いない。
 兵士らを薙いでいる青龍刀は、第一王子がこよなく大切にしている愛刀なのだから。



「行け愚図。貴様はまだ、ここで死んで良い人間じゃあねえ。俺がつまらなくなる」



 逃げる手助けをしてくれるリャンテも、広場の見えるどこかで、麒麟の使いを見ていたのだろう。あれも麒麟の使いを狙う者。隙あらば第二王子から奪おうと目論みを立てているに違いない。

 そんな男がティエンを助けるなんぞ、おおよそ、くだらない理由があってのことだろうが、今は輩の行為に甘んじる他ない。

 ユンジェを助けるためにも、ティエンはここを乗り切って生き延びなければいけないのだから。


「こっちです。ティエンさま」


 先を走るカグムが通りを指さし、ティエンらを誘導する。
    
 また、彼は家屋の前に繋いである大きな荷馬車に目を付けると、馬の手入れをしている里の人間に刃を突きつけた。
 ひえっ、と悲鳴を上げて腰を抜かす男を尻目に、二頭の馬を奪うとカグムは各々に乗るよう指示する。


 こうして速い足を手に入れたティエンらは、兵士らを撒くために馬を走らせた。


 すでに包囲網が張られているであろう里の外へ逃げるのは諦め、身を隠せそうな場所を必死で探した。里の人間にも、将軍グンヘイの兵士らにも、簡単には見つからない場所を。

 その結果、ティエンらは里の中央部にあるうっそうとした森に目を付けた。架け橋を駆け抜け、警備兵を飛び越えると、厳かな空気が流れる森の奥へ奥へと進む。

「もう良いだろう」

 ここまでは追ってこないはずだ。そう判断したカグムが手綱を引き、馬の足を止めた。後ろを走るハオも、それに倣って手綱を引く。
 ざっと周りを見渡しても、見えるのは木々や小川ばかり。追っ手は見る影もない。

「さてと。撒けたのは良いが……これからどうしたもんかな。ユンジェが完全にリーミンになったいま、下手に手を出すのは難しいぞ」

 吐息をつくカグムを流し目にすると、ティエンは馬から勢いよく飛び下りた。

「どこへ行くのです。勝手な行動は慎んで下さい」

「案ずるな。お前の目の届く範囲にいる。ただ、少しひとりにしてくれ。気持ちの整理がしたい」

 その言葉の後、ティエンは声を窄める。


「カグム。先ほどの話だが……私の判断は、あの子を傷つける結果だったのやもしれんな。ユンジェには主従の儀を受けさせた方が、あの子のためだったやもしれん」


 もしも。もしもの話。

 ユンジェに主従の儀を受けさせていれば、このような事態にはならなかったのだろうか。
 あの子はティエンの下僕として、セイウの命令に抗うことができたのだろうか。己の判断は偽善で愚かだったのだろうか。


 疑問を置いて馬から離れる。


 返事は聞こえてこなかった。


 すぐ側を流れる小川の前に座り込む。
 そっと小川を覗くと、そこは木陰になっているため、はっきりと己の顔は映らなかった。

 しかし、流れる小川の水はとても澄んでいることが分かった。右の手で水を掬う。肌が粟立つほど、小川の水は冷たかった。

(ユンジェの心はまだ残っている。私はあの子を救ってみせる。決して、あの子のことを諦めるものか)

 だが。


(私とあの子の関係を……少し考えなければいけないのかもしれない。私はユンジェと家族であり続けたい。しかし、あの子がセイウ兄上と主従の儀で繋がっている以上、ユンジェは第二王子に逆らえない。それだけではない。もしもリャンテ兄上まで、あの子と主従の儀を交わしてしまったら。麒麟の使いがリャンテ兄上の懐剣を抜いてしまったら)


 おおよそ、麒麟は『黎明皇(れいめいおう)』を見極めるために、麒麟の使いを王族に寄越している。