「なっ」
男が驚きの声を上げる。
里に人間らも、どよめきの声を上げる。
そして、ティエンは悲鳴を上げそうになった。もうやめてくれ、と叫びそうになった。
「だめだよ。主君を刺すのは、懐剣を折ってからじゃないと」
麒麟の使いは迷わず、己の体で刃を受け止めていた。生身の体だというのに、突き刺された痛みすら表情に出さず、左肩に突き刺さった剣を思いきり上へ弾き飛ばした。
後は流れるように男が刺され、その場に崩れ落ちるだけ。むごい光景であった。
(ユンジェになんてことを。心優しいあの子に、なんてことをさせるのだ。セイウっ!)
何度も石屋根を拳で叩いた。悔しさのあまり、涙がこみ上げてくる。
それでも、目を逸らすことだけは決してしない。ユンジェが負わされている業の重さを、ティエンは知る必要があるのだから。
「ふふっ、何度も見ても心躍る光景だこと。リーミン、戻りましょう」
逃げ出す男を斬り終えたところで、セイウがユンジェに声を掛ける。
高価な絹衣で懐剣を拭っていた子どもは、その呼び掛けに「はい」と、返事をして鞘にそれを収めた。
主従の儀のせいだろうか。ユンジェはセイウに対して、たいへん素直だ。
と、セイウが思いついたように頬を緩めた。里の人間らを見渡すとユンジェに命じる。
「リーミン。ここで平伏し、服従を示しなさい」
麒麟の使いは誰のものか、ここで示す必要性がある。
セイウの言葉に頷き、ユンジェはその場で両膝をついた。
さも当たり前のように両手の甲を見せ、右の足で踏まれたことを確認すると、そっと足の甲に額を合わせる。
完全に見世物だ。
(おのれっ、セイウっ……おのれっ)
ティエンは涙の量を増やすしかできなかった。
話には聞いていたが、こうしてセイウに服従している姿は初めて目にした。
やるせなさがこみ上げてくる。
なぜ、あの子ばかり苦痛な目に遭うのだ。どうして、あの子はいま、人間としての尊厳を奪われ、畜生だと皆に知らしめているのだ。なぜ、どうして。
こんなにも悔しい思いをしているのにティエンは指を銜え、セイウを見送ることしかできない。
ちょっと走れば、ユンジェの下に行けるのに。同じ土を踏んでいるというのに。
ティエンはセイウの馬に乗るユンジェを、ただただ見送ることしかできない。
「……ユンジェは、王族の見世物なのか?」
石屋根から下りるや、サンチェが悲しそうに尋ねてくる。
彼もまたやり切れない思いで一杯なのだろう。あれはとても可哀想だ、と肩を落としてくる。
誰がどう見ても、セイウがしていることは収集物の見せびらかし、だ。
国に一つしかない懐剣をみなに見せびらかし、溢れんばかりの優越感に浸っていた。それはとても歪んだ優越感であった。
子どもの問いに、涙を流すティエンは何も答えられない。代わりに、ハオが気まずそうに唸った。
「クソガキはどこまでいっても、生意気なクソガキだ。見世物でもなんでもねえよ。ただ、麒麟の使いである以上、これから先も王族に狙われちまうだろうな。あんなクソガキ、初めて見た」
まるで別人だ。ハオは哀れみを瞳に浮かべた。
「おおよそ、懐剣の所有者がティエンさまから、セイウさまにかわったせいだろうな」
誰よりも冷静なカグムは、別人に思えても仕方がないだろう、と意見した。
今のユンジェは自分達の知る子どもではなく、セイウの影響を受けた懐剣リーミンと言って良い。普段は殆ど口にしない美醜を口にしていたのが何も証拠だ。
やはり建前上でも、主従の儀をあの子どもに受けさせるべきだったのでは。
カグムは棘のある言葉をティエンに投げる。頬を引きつらせるハオをよそに、「戯けたことを言うなっ」と、ティエンは烈火の如く怒りを見せた。
ユンジェは人間なのだ。
なぜ、主従の儀を受けさせ、畜生にしなければならない。
強く訴えるも、「受けさせておくことで守られたかもしれないだろう」と、真っ向から反論を食らった。彼の荒々しい口調は昔を思い出す。
「主従の儀を聞く限り、確かに屈辱的な儀だと俺も思う。けど、辱めを受けるのはたった一度切り。その後は今までどおり過ごせば良い。ユンジェに儀を受けさせなかったばかりに、こんなことになっちまった。ピンイン、お前の優しさが今回、仇になってしまったんだ」
表向きティエンがユンジェを下僕にしていれば、しかと所有者は自分だとセイウのように示しておけば、事態はもっと軽くなっていたやもしれない、とカグムは辛辣に物申した。
「この際、はっきり言うぞ。ピンイン。お前はユンジェに思いを寄せすぎなんだ。事情はどうあれ、あいつは懐剣の子ども。そしてお前は王族の人間だってことを忘れるな」
この身分は天と地がひっくり返ろうと変わらない。
カグムの正論に、ハオが「それくらいにしとけ」と、恐々口を挟むが、ティエンはすでに激情に呑まれていた。
自分は好き好んで王族に生まれたわけではない。
呪われた王子に成り下がるくらいなら、平民として生まれたかった。
ユンジェとて、己を守りたい一心で麒麟の使いになった程度。王族に利用されるつもりなど、つま先もなかったはずだ。
今まで王族扱いとは無縁の生活を送っていた。みなから死を願われていた。
なのに、今さら王族の人間だの、身分だの、理不尽だ。
「思いを寄せて何が悪い。あの子は私の家族であって、下僕にするつもりなど毛頭ない。建前だろうが、なんだろうが、大切な家族に辱めを受けさせるなど、私にはできない」
「それが甘い考えなんだ。お前が望めば、ユンジェは主従の儀だって辛抱してくれる。あいつは賢い子どもだ。儀を受けることで、少しでもお前との関係が長引くなら、喜んで受けてくれる奴だ。なんで、お前はそれが分からないんだ」
「もう偽りの関係なんてまっぴらごめんなんだ」
かつて友人だと信じて疑わなった男に、建前の関係など死んでもごめんだと嫌悪を吐き出した。
たとえユンジェの頼みでも、主従の儀など交わさない。
上辺の関係だとしても許せないのだ。所有者として間違った守り方だというのなら、間違いのままで良い。甘い考えだと罵られても、この考えを曲げるつもりはない。
頑固になるティエンに、カグムは呆れ顔を作った。