(俺。何してたんだっけ)



 一方、目を覚ましたユンジェはセイウの隣を歩きながら、重たい体を引きずるように歩いていた。目覚めた前後の記憶はなく、気づいたら憎き第二王子の隣を歩いていた状況なので、何が何だか分からずにいる。

 はてさて。自分はどうしてしまったのか。

 ぐるりと周囲を見渡すと、回廊で平伏している兵や従僕、侍女が目に映る。ユンジェは思わず顔を顰めた。なんて居心地の悪い、異様な光景だろう。

(歩くだけで、他人に頭を下げられ続けるなんて……王族はこんな光景を見て楽しいのか?)

 生まれてこの方、農民として生きてきたユンジェには、さっぱり良さが分からない光景だ。額を地につけて、いつまでも平伏している人間らに、頭を上げていいよ、と言いたいもの。

 そんなことより。
 ユンジェは目を横に動かす。うつくしい男が優美に歩いていた。

 ティエンよりも男性的で、しかしながら美しい容姿を持つ男。

 ティエンの腹違いの兄に当たる、麟ノ国第二王子セイウ。ユンジェが最も会いたくなかった男だ


(……覚悟はしてたけど、やっぱり受け入れたくないな。セイウの下にいるなんて。ティエンの懐剣でいたいのに。こいつが近くにいるだけで名前を奪われるから)


 名前。ユンジェは小さく首を傾げる。


(俺の本当の名前……なんだっけ)


 思い出せない。
 ど忘れするほど、浅い付き合いの名前ではないのに。あれ、本当の名前はなんだっけ。ユンジェは衣の袖を握り締める。

 ほんとうに、思い出せない。リーミンが正しい名前ではないことは知っているのに。

 ユンジェの身柄は石造りの客間に移された。
 そこも回廊同様に贅沢が散りばめられ、色とりどりの花や大きな壷、飾り幕が一室を華やかにしている。

 開放されている窓辺の寝台の傍には、金色の敷物が広げられ、いつでも王族の者が休めるよう腰掛の準備が整えられていた。

 まさしく王族のための寝室であった。ユンジェが懐剣でなければ、生涯を懸けても入ることができなかった部屋であろう。

 しかし。ユンジェは客間に足を踏み入れるや、石床の濡れた感触に眉を寄せた。

 目を落とせば、大きな大きな水溜りができているではないか。右に視線を流せば、小壷がひとつ倒れている。あれに中身が入っていたようだ。

 けれど、なぜ。
    
 従者が失態を犯したとしても、これはあまりに不自然。小壷の底は平らで安定している。ゆえに簡単には倒れないだろうし、倒したところで、すぐに気付くはずだ。王族が泊まる部屋ならば、なおさら、すぐに片すだろうに。

 ユンジェは身を屈め、指で水溜りに触れる。妙にぬるっとしていた。水ではないようだ。

「おや?」

 セイウも気づいたのだろう。
 長い絹衣の裾が水溜りに浸っている。すでに血で汚れている衣だ。今さら、水溜りに浸ったところで支障はないだろう。裾が浸っている?

 親指と人差し指をこすり合わせていたユンジェは、弾かれたように開放されている窓へと走った。
 先導するグンヘイを飛び越えると、急いで窓を閉めて、側らの飾り幕を引き剥がした。


「水溜まりから離れろっ!」


 怒声を張り、ユンジェは擦り硝子を突き破ってくる小石に目を眇めた。
 寸時の間もなく、火矢が飛び込んでくる。燃え盛る(やじり)は一直線を描き、水溜りへと向かった。
 素早く飾り幕を広げて、それで薙ぐ。標的を見失った火矢は飾り幕に突き刺さった。


「なっ、なんだ。どうしたのだ」


 背後から間の抜けたうろたえる声が聞こえてくる。グンヘイだろう。

 振り返れば、状況に混乱し、右往左往している。何をしているのだ、この男。そんなことをしている暇があるのなら、王族を守るためによく考えたらどうだ。