ユンジェは膝を抱え、雨音に耳をすませる。まだ追っ手の足音は聞こえてこない。もう少し休めそうだ。
「天は人間が悪いことをしたら、そいつに裁きを下すんだそうな。爺がよく言っていたよ。だから悪いことをするな。苦しくても盗みはするなって……これは俺のせいかも」
ティエンが弾かれたように顔を上げ、距離を詰めて迫ってくる。違うと、そうじゃないと言いたいのだろう。
しかし、ユンジェには強い心当たりがあった。自分は大きな過ちを犯している人間だ。
「俺な、爺が死ぬ半年前に人を殺しているんだ。俺が十歳の時だった」
もう三年余りになろうか。ユンジェは人を殺めてしまった。
殺した相手は追い剥ぎであった。
その日、一人で町に出掛けたユンジェは日が落ちるまで物売りをし、足軽に夜道を歩いていた。
驚くほど野菜や縄が売れたのだ。ユンジェはいつもよりも、重たい銭袋を頭陀袋に入れて爺の待つ家を目指した。
それをどこかで盗み見られていたのだろう。道すがらで襲われてしまったのである。
老いた追い剥ぎではあったが、ずいぶんと乱暴者であった。
藪から飛び出したかと思ったら、草刈鎌で切りつけてきたのだから。
ユンジェは無我夢中で逃げた。怖くて恐ろしくて堪らなかった。捕まっては殴られ切られ、それでも逃げようと、生きようと必死になった。
そうしてもみ合いになっている内に、追い剥ぎは草刈鎌を落とした。
輩が拾う前に、ユンジェが奪い、草刈鎌で相手を切りつけた。助かりたい一心で、何度も切りつけた。
「頭が真っ白になっていたんだ。気が付いたら、血ぬれた草刈鎌を持って家に帰っていたよ。爺の驚いた顔は、今でも忘れられない」
家に帰り着いたユンジェは、怪我と疲労で何日も寝込んでしまった。
起き上がるまでに回復した頃、追い剥ぎの存在を思い出し、爺に尋ねた。自分は追い剥ぎを切りつけてしまったが、あれはどうしてしまったのだろう、と。
爺は曖昧に笑うだけで、何も教えてくれなかった。もう大丈夫だと、安心させる一言をくれる以外、何も言わなかった。
追い剥ぎを殺してしまったのだと知ったのは、畑仕事に復帰して間もなくのこと。
爺はユンジェに内緒で、追い剥ぎの墓を立てた。森の奥地に、ひっそりと小さな墓を。
直接切り殺してしまったのか、それとも血を多く流して死んでしまったのか、それは分からない。
ただ、どのような死因であろうと、ユンジェのせいであることは明白であった。
「その半年後に爺は病死した。俺のせいだと思った。追い剥ぎに襲われて以来、爺は体調を崩してばっかりだったから」
そして爺は死んでしまった。
天からの裁きなのだと、ユンジェは思った。自分が追い剥ぎを殺してしまったから、天は大好きな祖父を取り上げてしまったのだ。
今度はティエンを取り上げようとしている。ティエンと過ごす一年は本当に楽しかったから、天はユンジェに告げているのだ。お前の犯した罪を忘れるな、と。
「ずっと、お前と楽しく暮らせたらいいなって思ったから、天は怒ったのかもな。人を殺したくせに、楽しくするなって……」
ユンジェは、静聴しているティエンに力なく笑う。
「たぶん俺は、追われている王子のお前よりも、ずっと……ずっと悪い奴だよ」
息をつく間もなく強い力で肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。
ティエンがこれまでにないほど、口を動かしていた。真剣な顔で擦れた音を出し、鋭い眼光を向けている。
ユンジェを叱咤しているのかもしれない。軽蔑しているのかもしれない。もしくは別の感情をぶつけているのかもしれない。
「ごめんな。もっと早く言うべきだったんだろうけど……俺は人殺しなんだ」
何度も両の手で肩を叩いてくるティエンは、首を横に振るばかり。声が出ない己に怒りを見せた。
気持ちを伝えられないことが、ただただ、もどかしいのだろう。
彼は右手で拳を作ると、自分の太腿を叩きつけた。
「ティエン」
彼にそっと声を掛けると、両手が頭を掴んできた。
ユンジェの額に、己の額を重ねてくる。それはよく大人が、泣きじゃくる子どもを慰める時に使う手だ。
ティエンはユンジェを慰めてくれているようだ。軽蔑されるべき話をしたのに。
「俺は子どもじゃないって」
抵抗する気にもなれないのは、大人に甘えたい自分がいるせいだ。
ティエンが大人なのかどうかは分からないが、少なくともユンジェは彼を兄のように見ている。甘えたくなるのは仕様がない。
そして、それが罪びとの自分に許される行為なのか、ユンジェには判断がつかない。
小降りとなった雨にまじって、微かに呼び合う声が聞こえる。どうやら休憩は終わりのようだ。
聞こえる声を合図にティエンが、力強くユンジェの腕を引く。最後まで巻き込む覚悟が決まったようだ。腕を握ったまま外を指さして、見下ろしてくる。
(俺と一緒に逃げ切るつもりなんだな。お前)
まったく。頼りになるのか、ならないのか、本当に分からない男だ。ユンジェは小さく笑ってしまった。