彼の言う通り、苦しい現実を強いられてもなお、楽しい暮らしができそうだ。
彼、いや彼らなら、呪いの王子と謳われたティエンのことも受け入れてくれることだろう。
それでも。
ユンジェは誘いを丁重に断った。
サンチェ達の傍にいることはできない。謀反兵のこともあるし、麒麟から授かった使命もある。
なにより自分達は各方面の王族に狙われている身の上。彼らの傍にいれば、必ず争いに巻き込んでしまう。
察しの良いサンチェは、断るユンジェの横顔を見つめると前乗りになった。
「ユンジェ。お前、ほんとうに大丈夫なんだよな?」
「え?」
「上手く言えないんだけど……なんとなく今のお前、消えそうだったから」
なんだそれ。力なく笑うユンジェだが、リョンも同じことを思ったようだ。小さな手を伸ばし、ユンジェの衣をきゅっと握ってくる。
「リョン。ユンジェお兄ちゃんも、お兄ちゃんと思ってる」
「だってさ。リョンも一緒に暮らしたいって。なあ、リョン」
「うん。一緒に暮らしたい」
途端に意地の悪い笑みを浮かべてくるサンチェの頭を、強めに引っ叩いた。すぐにこの男は調子に乗ってくる。
「お前はすぐリョンを味方につける。卑怯だぞ」
「ばーか。味方は多い方が勝ちやすいだろ」
先ほどの潮らしい面持ちはどこへやら。
へへっ、と笑うサンチェにユンジェは握り拳を作った。
「ほんっと。お前はいい性格しているよな」
「そう褒めてくれるなって。もっと調子に乗りたくなるから」
ふたたび拳を入れるも、簡単に受け止められてしまう。忌々しい男だ。ユンジェは思わず、サンチェを睨んでしまった。
――リーミン。
その時だった。
脳裏にひとつの呼び名が過ぎゆく。それは聞き馴染のない、しかしながら聞き馴染のある名前。確かに、ユンジェの名前であった。
――リーミン。
「ユンジェ?」
サンチェが顔を覗き込んでくる。急に喋らなくなってしまったユンジェに、訝しげな気持ちを抱いたのだろう。どうしたのだ、と尋ねてくる。
けれど。ユンジェの耳に届かない。
それどころか、心がざわつき始めた。体中に熱いものがめぐった。何度も頭の中で声がする。
――リーミン。
ああ、呼ばれている。自分は主君に呼ばれている。主君はすぐ近くにいる。行かなければ。
嫌だ。違う。主君はあれではない。己はティエンの懐剣なのだ。ユンジェなのだ。リーミンなのだ。懐剣のユンジェなのだから、守るべき者は主君であって、自分はユンジェではない。懐剣のリーミンとしてティエンを守る。
ユンジェ? リーミン?
分からなくなってきた。自分の名前はなんだ。なんという名だった? ユンジェは頭を抱えて顔を振った。
がんがん、と頭の中から凄まじい音が聞こえてくる。名前を奪われていく音が聞こえてくる。
「ユンジェ。おい、大丈夫か? ユンジェっ!」
サンチェが肩掴んで揺さぶってくる。
それによって、ようやく我に返ることができたユンジェは額に滲んだ脂汗を拭い、大きく息を吐いた。
大丈夫だと返したいところだが、正直、頭が割れそうに痛い。
サンチェ曰く、青ざめているらしいので、ずいぶんと顔色も悪くなっているようだ。
「ほら水。飲めよ」
「ありがとう」
サンチェから水袋を受け取ると、それで喉を潤し、気持ちを落ち着ける。まだ鼓動が早鐘のように鳴っている。鬱陶しい。
(近くにセイウがいるのか。くそっ、ティエンが傍にいないから、いつリーミンなってもおかしくないぞ)
ユンジェをユンジェとして戻せるのは、懐剣の所持者であるティエンだけだ。その彼がいない今、いつまでユンジェの理性が保っていられるか。気を緩むとリーミンになりそうで怖い。
問題はそれだけではない。呼ばれている、ということは、近くにセイウがいること。なんでよりにもよって、性悪第二王子がこの里付近にいるのだ。厄介な。