幼子は貪るように、水を飲み始めた。ユンジェからジャグムの実を受け取ると、一生懸命にそれを頬張る。次第に、顔が歪んでいったが、幼女は必死にこらえていた。泣かないと言った手前、我慢しているのだろう。

 すると。サンチェが軽く背中を叩いた。

「お前は今、自分で頼りを作った。そして、俺はお前を面倒看るって言った。だから、つらくなったら俺を頼りにして良い。よくここまで堪えたな。お前は立派だよ」

 堪えられなくなったのだろう。
 幼女は大粒の涙と鼻水を流し、ジャグムの実を噛み締める。声を漏らしたところで、サンチェが頭を抱き寄せた。

 絞り出すような声が上がり、幼女は彼に縋りつく。

 怖かったと、つらかったと、両親や姉さんがいなくなってしまったと、たどたどしい言葉で吐露した。みんないなくなってしまった。それが何より、怖かった。幼女の訴えに、サンチェは何度も頷く。


「おんなじだよ。お前も、俺達とおんなじだ」


 ユンジェは微笑ましい気持ちで見守った。幼女はもう大丈夫だろう。サンチェがきっと、手厚く面倒を看るはずだ。

「連れて帰るのか?」

「ああ。ガキひとり増えたところで、なんてことないさ。(ねぐら)にいるチビ達は遊び仲間ができて喜ぶだろうし、まあ……年長の俺達がちょっと大変になるだろうけど。チビ達は揃いも揃って食い盛りだからな。こいつと一緒にいた連中も、上手く生きることができたら良いんだけど」

 幼女の背中をさすり、サンチェが名前を尋ねた。ぐずぐずに泣いている幼子は、涙を衣の袖で拭い、「リョン」と返事した。

「リョンか。覚えた。俺がサンチェで、向こうがユンジェだ。今日からお前の兄貴分だと思って良い。何か遭ったら、遠慮なく言えよ」

 うんうん。リョンは泣き顔のまま、少しだけ笑顔を見せた。
 安心したのだろう。手に持っているジャグムの実の残りを口に入れ、嬉しそうに咀嚼している。見守るこっちも、つい綻んでしまう、可愛い笑顔だった。

「さてと。これからどうすっかな。なにか手土産がないと、チビ達もがっかりするだろうし。ユンジェ、リョンを見ていてくれよ。さすがにリョンを連れて盗みはできねーから」

「おい、サンチェ。俺には俺の目的があるんだけど」

 ユンジェの目的はあくまで、ティエン達との合流。そして天降(あまり)ノ泉へ行くことなのだが。

「いいじゃねえか。ケチくせえな」

「お前って、本当に調子の良い奴だよな。尊敬するよ」

「そう褒めるなって。照れるだろ?」

「ばか、俺は呆れているんだ。第一、盗みもできるか分からないだろ? あんな騒動の後だ。子どもらを追って兵士がうろついている可能性は十分にある」

 ユンジェは市場の通りを確認する。里の人間や商人が行き交いしていた。

 あの中に、兵士がいるやもしれない。荷車で運んでいた子どもらが逃げ出したのだ。今頃、血眼になって探していることだろう。今日は目立つ行為を控えるべきだ。

 親切丁寧に意見するユンジェに頷き、サンチェがリョンを見下ろす。

「リョン。ユンジェお兄ちゃんの言うことを、よく聞くんだぞ。俺は一仕事してくるから」

「分かった。リョン、ユンジェお兄ちゃんの言うことを聞いて待ってる」

 話を聞け。ユンジェはこめかみに青筋を立て、腰を上げるサンチェの帯を引っ掴んだ。

「サンチェ。お前、俺に喧嘩を売っているのか?」

「どうせ急ぎの目的じゃないだろ?」

 なにを言うか、急ぎの目的だ。ユンジェは怒鳴りたくなった。睨みを飛ばすと、サンチェは意味深長に肩を竦め、リョンの頭に手を置く。

「俺は家長として今晩の飯のために、そしてガキ達のために、食い物を調達しなきゃなんねーんだぞ? 俺こそ急ぎの用事だ。リョンだって夕飯食べたいよな?」

「たっ、食べたい。お腹減るの嫌い」

「ほら見ろ。リョンだって、こう言っているじゃないか。約束通り、里まで案内したわけだし、もう少し付き合えって」

 なんて狡い男だろうか。リョンを味方につけようとするなんて。

 顔を引きつらせるユンジェの衣を、そっとリョンが掴んでくる。

つぶらな瞳がいつまでもユンジェを見つめてくるので、ああ、もう勘弁してほしい。ユンジェはサンチェと違い、幼子に対して厳しい心を持っていないのだ。

 頭を抱えている間にも、じっと見つめてくる幼子の目が、もの言いたげな顔をするティエンと重なり、断る気持ちを削いでしまう。


(これもティエンのせいだ。くそっ)


 八つ当たりしたい気持ちを押さえ、ユンジェは脱力する。負けた。
 とはいえ、このまま降参、というのも腹立たしいので、サンチェの脇腹に思いっきり肘を入れておく。これくらいの暴力は許されるだろう。

 脇腹を押さえて唸るサンチェに鼻を鳴らして笑っていたユンジェだが、刺すような冷たい視線を肌で感じたので、素早く腰を上げる。

 それは大人の視線であった。おおかた、細道を通る商人達の目だろう。小汚い子どもがいると、ひそひそ声が聞こえる。

 サンチェも気づいたのだろう。
 槍を肩に置くと、リョンの手を引いて樽の陰から出て行く。

 通りに出ても、商人や通行人、里の人間の目は冷たく、どこか哀れみを宿している。


 囁きが聞こえた――あれはどこの子どもだい? きっと、将軍グンヘイが連れて来た子どもだよ。売られるはずの子どもだったに違いない。可哀想に。あんなのが里の中にいたら、また荒れるじゃないか。兵士を呼ぶべきじゃないか。

    

 心無い言葉、冷たい視線にリョンは戸惑っている。初めての経験なのだろう。周囲を見渡し、サンチェと逸れないよう、強く手を握っている。

 そんな幼子にサンチェは言う。


「リョン。聞き流せ。連中は言うだけ言って、助けも救いもしない、哀れむばかりの大人なんだからな。なにが可哀想だ。家なしのガキは問答無用で、つまはじきにするくせに」


 可哀想の声が多くなると、彼は立ち止まって市場の大人に怒声を張った。


「グンヘイに捕らえられたガキの末路を知っておいて、救いもせず、見て見ぬ振りを決め込んでいるお前らに、可哀想なんざ言われたきゃねーよ。麒麟の泉のひとつも守れねーくせに。必死に生きようとしている俺達を、惨めな目で見てるんじゃねえっ!」


 その剣幕に市場から音が無くなる。

 ユンジェは苦笑した。
 たった今、リョンに聞き流せと言ったのは自分ではないか。
 こんなに大声を出したら、また騒動になるやもしれないのに。兵士が来るやもしれないのに。どうしてくれるのだ、この空気。

(けど、お前の言葉で胸が軽くなる俺がいる。サンチェ、お前の言葉はよく心に響く)

 サンチェはユンジェが思った以上に人情に厚い男なのかもしれない。

 驚きかえっているリョンを抱き上げると、走り出すサンチェを追い駆けながら、「しっかり見とけよ」と、ユンジェは幼子に微笑む。

「あれが今日から、お前がついていく兄貴だ。あいつは荒っぽいけど、ちゃんとお前を守ってくれる。お前は頼りにして良い。その代わり、リョンが大きくなったらサンチェの頼りになれよ」

 幼いリョンは、半分も理解できていないのだろう。
 けれども先を走るサンチェの背を見つめ、力強く頷いた。


「リョン、お兄ちゃんの頼りになる。大きくなったら、絶対にサンチェお兄ちゃんの頼りになる」


 いい返事だ。これからの成長が楽しみだと、ユンジェは心の底から思った。