森の奥に進むユンジェは、強い危機感を募らせていた。
 それは追われている、この状況に対するものではない。強まる雨と森に対するものであった。

 生まれた時から、森と寄り添って生きてきたユンジェだ。雨の森の危険性は熟知している。

 視界が利かず、迷子になりやすい。雨が体温を奪い、疲れやすい。足元が滑りやすい。茂みに足を取られる等など、雨の森を避けたい理由はいくつも挙げられる。

 とりわけ、この森は崖が多い。用心して走らなければ、誤って落ちてしまう可能性がある。

 しかし。走る速度は変えられない。

 ほら、耳をすませると聞こえてくる。強い雨音にまじって、じりじりと距離を詰めてくる、人間達の足音が。

(岩穴が見えるけど、無暗に入るわけにもいかない。ああいうところには蛇が多い。獣の(ねぐら)だったら一巻の終わりだ。火もないのに入るわけにはいかっ、うわっ!)

 余所見をしていたせいだろう。ユンジェは根深い草に埋まっている太い枝を踏み、足を滑らせてしまった。

「いってぇ。だから雨の森は嫌いなんだよ」

 尻餅をつくユンジェにつられ、ティエンもその場で両膝をつく。

「ティエン。大丈夫か?」
    
 必死に頷く彼だが、その顔は苦痛にまみれている。ティエンは限界を超えていた。

 無理もない。
 険しい獣道を、足も止めずに、突き進んでいたのだ。森に慣れているユンジェだって息が上がっているのだから、自分より体力のない彼が限界を迎えるのは当然のこと。

(一度、ティエンを休ませないと。だけど、追っ手はそこまで来ている……焦るな、考えろ)

 周りに見えるのは、茂みや木、そして人が隠れられそうな岩穴。
 ただし、あの岩穴が安全である保障はない。確実に近づいている足音は、ユンジェ達の姿を見失っているのか、微かに掛け声が聞こえる。

(相手の姿が見えないのは同じか)

 そうと分かれば、手はひとつ。

「ティエン。こっちだ」

 膝をついている彼を無理やり立たせると、腕を引き、岩穴の傍にある木の陰に隠れる。
 ティエンは岩穴に隠れると思っていたのだろう。ここでは見つかってしまうと言わんばかりに焦り、ユンジェの肩を強く掴んできた。

 そんな彼に静かにするよう、口元で人差し指を立てる。

「今のうちに息を整えておけよ。また走ることになるんだから」

 戸惑いを含んだ眼に笑う。

「まあ、見てろって」

 程なくして、向こうの茂みから追っ手が現れた。

 男二人は真っ先に岩穴へ向かい、その奥を覗き込むと、一人が岩穴の出口を探すために回り、一人が躊躇いもなく中へ入っていく。

 周囲をよく見渡せば、ユンジェとティエンの姿を捉えることもできただろうに。

(上手くいった)

 ユンジェは口角をつり上げると、ティエンに音を立てないように、と注意をして、その場を離れた。