「なあ、ティエン。思い切って懐剣をおっ、いひゃい!」
ふたたび懐剣を折る提案を出そうとしたら、台から身を乗り出したティエンが両手で頬を勢いよく挟んでくる。痛い!
「ユンジェ。次、その案を口にしたら、本気で怒ると忠告したはずだぞ。お前も言っただろう。二度とそれは言わないと」
「だ、だってさぁ」
微かに赤くなった両頬をさする。麒麟の使いが宿る懐剣を折ってしまえば、彼は王座を拒否したと見なされ、王にならなくとも済むやもしれないのに。
「お前が嫌がっている道に、俺が導いているかもしれねーんだぞ。折るべきじゃねーかな」
「ユンジェがリーミンになるやもしれないではないか! お前がどうなるか分からないのに、折るなんて言語道断。私は絶対に折らぬぞ」
柳眉をつり上げるティエンが腕を組み、笑顔でこちらを睨んでくる。怖い。
「そんなに怒るなよ」
「私はちゃんと忠告したよ。それをユンジェが破ったのだから、本気で怒る。しごく当たり前の態度だろう? 兄上らにお前は渡さないからな」
「でもさ」
「でもじゃない」
ティエンがあさっての方を向いてしまう。子どもか。
「俺の話を聞けよ」
「嫌だ。私は話を聞かない」
ユンジェが体を傾け、視線を合わせようとすると、彼は反対側を向いてしまった。ああもう、その態度は子どもじゃない。ガキである。
「ティエンってば」
「私はティエンだが、ユンジェの言うことは聞かない」
「……ガキじゃねーんだから」
「私は十九のガキだ」
ああ言えばこう言う。
ユンジェは不機嫌になったティエンにため息をつき、ぶすくれている齢十九の王子を遠目で見つめる。
理不尽なことが遭っても辛抱強く耐えるユンジェに対し、彼は少しでも嫌なことがあるとすぐ感情的になる。これではどちらが年上なのか分かったものではない。
(俺より五つも年上のくせに)
へそを曲げているティエンの機嫌を取るため、ユンジェはこんな提案を出す。
「悪かったって。後で俺の髪を弄って良いから機嫌直せよ」
ティエンは髪を弄ることが好きだ。短髪であろうと、長髪であろうと、楽しく自分の髪を弄っている。
最近では、やたらユンジェの髪を弄ろうとする。セイウのところで小綺麗になった姿を目にして、自分も髪を弄って綺麗にしたいと思うようになったらしい。
弄る手が鬱陶しいと思うユンジェは、気が向いた時しか弄らせてなかったのだが、今晩はティエンの気が済むまで弄って良いと提案する。
それを聞くや彼はころっと表情を変え、仕方がないから許すと言った。どこまでも偉そうであった。さすがは王族の人間である。
「水のおかわりは要りませんか?」
声を掛けられたことで、会話が打ち切られる。顔を上げると、若い娘が二人立っていた。
利用客に水のおかわりを尋ねまわっているのだろう。その手には錫の水差しが握られている。おおよそ二人は宿屋の娘で姉妹なのだろう。顔立ちがよく似ていた。
(なるほど。ティエン狙いか)
ユンジェは可愛らしい顔をしている娘達の熱い視線に気付き、美しい男は人気だなぁと肩を竦める。
ティエンはおなごのような顔立ちながらも、声を聞けば男だと分かる。綺麗とは得をする生き物だ。
とはいえ、ティエンがその意図に気付けるかどうか。下手すると、警戒心を剥き出しにして、一切口を開かなくなる可能性もある。
(こいつ、心を開くまでに時間が掛かるんだよな)
ティエンは兵士不信に加え、見知らぬ人間と喋ることを得意としていない。物々交換の交渉だって、いつもユンジェがしていた。つらい生い立ちが内気を拗らせているのだろう。
思った傍から、ティエンが口を閉じて、娘達の視線から顔を背けてしまう。勿体ない。せっかく娘達がティエンに興味を示してくれているのに。
「水は十分だよ。ありがとう」
代わりにユンジェが受け答えする。これで仕舞いになれば良いのだが、なんと娘達は世間話を振ってきた。
「旅のお方ですよね。どちらから来られたんですか?」
娘の一人が尋ねてくる。
紅州と答えると、もう一人の娘が手を叩き、お茶で有名な土地ですよね、と楽しげに笑った。ユンジェは己の土地の名物など、つま先も知らないが、ティエンが軽く頷いたので、その通りだと返事する。
すると娘達が口を揃え、今の機会に青州に来るのは、少しばかりまずかったかもしれない、と興味深い話を出してきた。理由を尋ねると、彼女らはこのように答える。
「近頃の青州は物騒なんですよ。戦の噂が絶えず、ここを利用するお客様の中には暗い顔する方も多くて。とりわけ将軍グンヘイという方が、各地の町や村を焼き払っているのだとか」
宿屋の娘達は旅の人間から、色んな話を聞いているのだろう。国や王族については詳しくないようだが、人伝に耳にしたことを話してくれる。
「どうやら、グンヘイや国に逆らう人間達がいるそうですよ。最近、耳にしたのは椿ノ油小町の戦でしょうか。なんでも、椿ノ油小町の人間が国の大切にしている、天降(あまり)ノ泉を独占していたとか」
ティエンの眉がぎゅっと顰められる。聞き覚えがあるのだろう。
しかし、彼に聞くまでもなく、娘達が天降ノ泉について事細かに話してくれる。