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こんなにも、のんびりとした時間は久方ぶりだ。
ティエンと湯殿を後にしたユンジェは、身も心もさっぱりとした気持ちで宿の食堂を訪れていた。
それは気兼ねない人間と、内緒の贅沢をするから、という理由も勿論あるが、一番は周りに不安や恐怖がないためだろう。
どうやら追われるばかりの野宿生活は想像していた以上に、心身疲労していた模様。
雨風凌げる屋根の下で、周りに怯えることなく、何気ないひと時が過ごせる。それがこんなにも幸せで、心を軽くするとは思いもしなかったのである。
これから甘味を食せることもあって、ユンジェの機嫌は最高潮に達していた。
「わあ、なんだこれ。見たこともない甘味だな」
台に着いたユンジェは、運ばれてくる甘味を好奇心旺盛に観察する。
簡単な文字しか読めないユンジェは、表に記されている甘味の注文をティエンに任せた。
ユンジェ自身、甘い物が口にできるのであれば、なんでも良かったのである。甘味を食せる、それだけで最高の贅沢なのだから。
すると。ティエンは不思議な甘味を二つ注文した。
ひとつは柔らかな固形物であった。薄橙の果実も乗っており、見た目はとても美味しそうである。匙で突くと、簡単に固形物へ刺さる。
そして、もう一つは茶色い饅頭。しかし、饅頭よりも香ばしい匂いがする。手に持ってみると、それはとてもふかふかしている。綿のような弾力だ。
「ティエン。これ、なに?」
「ふふっ。初めて見るだろう? それはな、麺麭というものだ。饅頭よりも、柔らかく、歯触りが良いんだよ。そこの小皿に練乳があるから、千切って浸してみなさい」
言われた通り、麺麭を千切って練乳とやらに浸す。
それを口に入れて咀嚼したユンジェは、すごく美味しいと目を爛々に輝かせた。麺麭(パン)も練乳も初めて、口にしたが、それはとても甘く、軽い口当たりで、とても食べやすい。
餡とは違った、優しい甘さにユンジェは夢中で麺麭を頬張った。
「そっちは芒果布丁と呼ばれるものだ。滑らかで、喉通りが良いぞ」
半分ほど麺麭を平らげたユンジェは、芒果布丁に匙を入れて、ご機嫌に味を堪能する。
生きていて良かったと、心の底から思う美味さであった。
こんなに柔らかく、滑らかな食べ物を、ユンジェは今まで食べたことがない。粥よりも柔らかく、喉通りの良い甘味がこの世に存在したとは。旅はしてみるものだ。
甘酸っぱい芒果を咀嚼するユンジェに、ティエンが美味しいか、と尋ねる。何度も首を縦に振るユンジェは、一年分の贅沢をしている気分だと綻んだ。
「そうか、そうか。ユンジェが喜んでくれて良かった。誘った甲斐があるよ」
ティエンがおかしそうに笑う。彼もとても楽しそうだった。一方で微笑ましそうに、ユンジェを見守っている。気分はすっかり兄貴分なのだろう。
「宿って良いところなんだな。湯殿は気持ち良かったし、甘味は美味いし」
運が良いことに、湯殿は誰も利用していなかった。
おかげで、伸び伸びと湯を楽しめた。まあ、ユンジェは入ってすぐに湯の熱さに堪えられず、さっさと上がってしまったが……やっぱり湯殿は苦手な分類である。
「麺麭や芒果布丁って、紅州では見かけなかったけど、青州の名物なの?」
「いや、これらは麟ノ国の文化にはないもの。それぞれ舶来品だよ」
「はく……はくらい、ひん?」
またもや難しい単語が、ティエンの口から飛び出す。ユンジェは戸惑いながら、それを繰り返した。
「他国から入った品を、舶来品と呼ぶんだ。麺麭や芒果は鳳凰が守護する鳳ノ国の食べ物なんだよ」
青州は麟ノ国の貿易口。だから、異国の文化が青州に浸透しているのだとか。
また青州は異国の文化が際立つ土地、海の方面へ行けば異国人の姿も多く見受けられるという。
ティエンは内緒の贅沢をしたい一方で、ユンジェに少しでも多くの異国文化を触れさせたかったそうだ。
それが新たな学びに繋がると、彼は知っている。
「玄州への旅が終わり、ひと段落着いたら、異国に渡る準備をしてもいいかもしれないな」
語り手が麺麭を半分に千切り、片割れをユンジェに差し出す。喜んで受け取ったユンジェは、そうなったら、またカグム達と鬼ごっこだと一笑した。
絵空事を描いていることは、重々承知の上。
それでもティエンがそう願うなら、ユンジェも同じ夢を抱くだけだ。自分の夢は彼と平和に暮らすこと、それだけなのだから。
「そうか。ユンジェは私と異国に来てくれるんだな」
何を言っているのだ。当たり前ではないか。ティエンが行くところに、ユンジェもついて行く。最後まで付き合う。そういう約束だ。