短弓を構えたティエンは、新たに集まる兵になんぞ目もくれず、口から感情を迸らせる。


「聞け麒麟っ! 使いの者っ! 私が次の王となる者、この声を聞け!」


 その目を黄金色に光らせ、セイウに向かって矢を放つ。

 それは荒れ狂った風を呼び、闇夜を裂く道を作り、心手放そうとした麒麟の使いを目覚めさせる麒麟の声となった。

 矢は姿かたちを変え、幼き麒麟となるや、瞬く間にセイウの下へ届く。
 頭の鋭利ある角と一体になった鉄の鏃は第二王子の帯を突き抜け、彼の懐剣の鞘に直撃した。

 微かに聞こえたヒビ入る音を合図にティエンは、乗り手のいなくなった馬を指笛で呼ぶと、駆け寄って来たそれに跨り、馬の腹を蹴って走らせる。


「ユンジェ。お前はセイウの懐剣じゃない。ティエンの懐剣だ」


 足を止めて振り返るユンジェに手を伸ばす。

 おなごのように白い手を目にしたユンジェは、惹かれたようにその手を掴むと、足を動かしたまま馬と走った。
 華奢な腕が引き上げようとしてきたので、ユンジェから鞍を掴んで馬に飛び乗る。

「貴様らも馬に乗れ! 乗れ!」

 ティエンが指笛を鳴らすことで、乗り手を失った馬達が謀反兵らに駆け寄る。それを止めようと(おおゆみ)を構えた兵が馬に矢を放つが、もろともしなかった。

 隣を走る麒麟に目を向ける。恨みつらみを投げたい気持ちで一杯になったが、それを嚥下すると、瑞獣に願った。

(――どうか、我らを風と共に運びたまえ。兄セイウの手の届かない地まで、我らを運びたまえ)

 手数の多いセイウに、今の自分達が真っ向勝負をしても敵うはずがない。だから欲深い兄の魔の手が届かないところまで、どうか風と共に。

(いずれ討つ。セイウを討って、ユンジェに繋がれた下僕の鎖を断ってやる)

 その時を覚悟しておけ。ティエンは強い気持ちを抱いて、馬の手綱を握り締めた。






「おやおや残念。あと一歩のところだったというのに」

 夜のとばりに身を隠し、風と共に去ってしまった愚弟達を見逃したセイウは肩を竦め、帯にたばさんでいた懐剣を鞘ごと抜く。
 麒麟の加護が宿った黄玉(トパーズ)にヒビが入っている。先ほど放たれた矢の鏃が、これに直撃したせいだろう。

 血相を変えて駆け寄って来るチャオヤンを尻目に、セイウは美しい黄玉(トパーズ)が醜くなってしまったと鼻を鳴らす。

「骨肉の宣言を受けた上に、大切な黄玉(トパーズ)まで醜くされるとは。ピンインめ、やってくれますね」

 次会ったら、八つ裂きにした上で、生きたまま畜生の餌にでもしてやらねば気が済まない。このヒビは直るだろうか、セイウは眉間に皺を寄せる。

(ピンインの放った矢。一瞬、麒麟に見えたような……気のせいか?)

 まあ。不快なことばかりでもなかった。黄玉(トパーズ)を軽く舐めると、セイウは冷たい笑みを深める。

「リーミンは私を主君として見ている。主従の関係は成立している。あれは私の血を宿し、下僕としてお役を果たそうとしていた。ふふっ、健気な子ですねぇ。嫌いじゃないですよ、ああいうの」

 それを知れただけでも収穫だろう。

「愚弟の呪縛により、あれは懐剣となり切れていない。なんと哀れな。私が解放してやらねばなりませんね」

 そして、次こそセイウの懐剣を持たせるのだ。
 己の懐剣を持った、リーミンはきっと、どの剣よりも美しく、気高く、興奮する姿を見せるのだろう。

 国の誰も持っていない懐剣を持てるだなんて、これほど欲求が満たされることはない。

「黎明皇となるのは私か、ピンインか。それとも、噂を聞きつけるであろうリャンテか。はたまた、謀反を恐れている父上なのか。さて、天は誰を選ぶのでしょうね」

 けれどそんなことより、新たな時代の王を導く、麒麟の使いを早く宮殿に飾りたい。セイウは歪んだ欲を惜しみなく表に出し、チャオヤンと兵達に言い放った。

「どんな手を使ってでも、リーミンを探しなさい。ここ東の青州、麟ノ国第二王子セイウが任されている地。どの土地よりも捕まえやすいのですから」

 決して、他の土地に行かせてはならない。あれは誰にも渡さない。第三王子ピンインにも、第一王子リャンテにも、父にだって渡してなるものか。


 ティエンは険しい岩山の上で、昇る朝日を眺めていた。そのひざ元には疲弊した子どもが眠りについている。

 赤子のように腹を叩いても微動だにしないので、本当に疲れているのだろう。手を止める気にはなれなかった。

 背後では事切れている馬達を見下ろして、ため息をついている謀反兵達が話し合っている。
 それらは矢を受けて、致命傷を負っていたようだ。それでも麒麟と共に走ってくれたので、感謝してもし切れない。後で手厚く葬ってやらねば。

 幸い一頭は無事なようで、その馬を自分に託して欲しいと、ライソウが意見していた。

 どうやら、彼はひとり陶ノ都に戻り、合流予定の間諜らの下へ行くという。

 手を貸してくれた仲間が心配であることに加え、その者達と合流すれば、足となる馬を連れて来ることができる。一足先に青州の間諜らにだって、ピンイン王子のことを知らせることができる。

 ここは一つ、自分に任せて欲しいとのこと。

 簡単なように聞こえるが、それはたいへん危険な行為他ならない。引き返せば、セイウ率いる王族の兵に見つかるやもしれないのに。

 しかし。カグムは決断する。


「分かった。ライソウ、馬と仲間への知らせは頼んだぞ。俺達は身を隠しながら玄州に向かう。青州のどこかで落ち合おう。俺はお前の帰りを待っているからな」


 すると、シュントウも名乗り出た。
 ハオが先に名乗り出て、一緒に行くと言ったが、大切な王子の護衛は腕の立つ者がやるべきだと言って聞かない。

 結局、ハオが引きさがる形となる。
 本人は納得していないようだったが、カグムにまで引きさがるよう言われてしまえば、おとなしく引きさがるしかないだろう。

 ライソウとシュントウは、ティエンの前で片膝をつき、どうかご無事で、と言葉をおくった。
 自分が兵士不信だと分かっていながら、真摯に身の無事を祈ってくる。それが本音なのか、建前なのか、ティエンには分からないが、少しだけ心が動いた。

「ライソウ、シュントウ。貴方達に麒麟の加護がありますように」

 大層驚かれたが、これは別行動をする二人へおくる、ティエンの嘘偽りない気持ちであった。
 嫌々一緒に旅をしてきたものの、彼らと修羅場をくぐり抜けた時間があったことも確か。

 そのため、彼らの無事を祈る気持ちくらい寄せても良いと思えた。情が移ったのかもしれない。


 出発した二人を見送り、ティエンはふたたび、朝日に視線を戻した。太陽はもう、昇り切ろうとしている。

    
「ユンジェ。すまなかったな。私が無知だったばかりに、お前にまた要らん負担を掛けた」


 静かな寝息を立てる子どもから返事はない。
 いずれ子どもは目を覚ますだろう。ユンジェは、リーミンのままだろうか。それとも、元に戻っているだろうか。気になるところだ。

 大丈夫。ユンジェがリーミンと名乗っても、ティエンが思い出させてやればいい。そういう約束だ。

「このままではいけないな。とてもいけない」

 麒麟の使いをめぐる争いは、ティエンが想像していた以上であった。
 王族が欲する存在だと、なんとなく認識はしていたものの、ここまでとは思わなかった。

 欲深いセイウは言っていた。まこと懐剣のお役は、新たな時代の『王』を導くことだと。
 となれば、いずれ王位継承権を争うリャンテも参戦するだろう。

 セイウだけでも逃げることで一杯いっぱいだったのに、好戦的なリャンテまで相手だなんてとんでもない。兵を持たないティエンに勝ち目などない。ティエンはユンジェを守り切れないだろう。


(私は本当に無知だ。麒麟のことも、使いのことも、呪われた自分のことすらも)


 では、どうするか。決まっている。

    


「カグム。玄州までどれほど掛かる?」

 話を振られたカグムが、どのような表情をしているのかは分からない。ただ、声はしごく驚いた様子であった。

「最低でも、ひと月は見ておくべきかと。馬がないので、なんとも言えません。徒歩で州を渡ったことなどないので。質問の意図を尋ねても?」

「一刻も早く、天士ホウレイの下に行きたいと思ってな」

 それはティエンが自ら謀反兵達と行動を共にする、という意思表明に他ならなかった。

 天士ホウレイの下へ行けば、王位簒奪(おういさんだつ)だの、弑逆(しいぎゃく)だの、厄介なことに巻き込まれるのは目に見えている。

 ティエンは嫌々ながら王座に就かざるを得なくなる。

 懐剣のユンジェだって、ホウレイに取り上げられるやもしれない。

 それでも、いま一番希望が持てる道は、謀反を目論むホウレイの下へ行くことだ。天士なら知っているはずだ。麒麟のことや、麒麟の使いのこと、懐剣となった人間のことを。

 瑞獣の神託を受けることができる、天士であれば、この運命に抗う術を知っているやもしれない。セイウを討たずとも、ユンジェを下僕の鎖から解放してやれるやもしれない。

 ティエンは諦めない。子どもと生きる道を、決して。

    
「こちらとしては願ってもないことですが、ひとつだけ。ティエンさま、ユンジェに少々気持ちを入れ過ぎなところがありますよ。もし、それが折れたらどうするんです」

「お、おい。カグム」

 ハオが慌てたように、間に割って入るが、カグムは辛辣に言う。

 この先、そのような場面があるやもしれない。懐剣のユンジェが折れてしまうことも、過酷な旅ではあるやもしれない。
 しかし、それは懐剣のお役を持っている以上、致し方がないこと。気持ちを寄せることは構わないが、入れ込むと人は脆くなる。

 それを知っておくべきだと謳うカグムは、再三再四尋ねる。ユンジェが折れてしまったら、どうするのだと。

「貴様は不思議な質問をするんだな」

 振り返り、ティエンは柔らかな微笑みを浮かべた。
 その表情を目の当たりにしたカグムは、ただただ言葉を詰まらせる。ティエンの気持ちを察したのだろう。

「ピンイン。お前」

 ティエンではなくピンインと呼んでくるのは、敬語を崩してくるのは、一兵士としてではなく、一個人として接している証拠だろう。

 そんな彼に肩を竦め、ティエンは子どもの腹を軽く叩いた。

「いまの私はこの子を生かすことで、頭がいっぱいだ。先のことなんて考えていないよ」

 ユンジェを失う未来など考えたこともない。
 たとえ危機が迫ろうとも、回避しようと躍起になり、悪足掻きをするだけ。
    
 みんな、そうやって生きているものなのではないだろうか。怯えながら生きる毎日なんて、つらいだけだ。

 ティエンはユンジェの寝顔を見つめ、小さく頬を緩めた

「それはきっとユンジェも一緒だろう。この子も、私を生かすことで頭がいっぱいだ。先のことなんて考えていないだろうさ」

 お互いに静かに、平和に、そして幸せに暮らしたい。それだけしか考えていない。

「この子がいない日々なんて、私には想像もつかないよ」

 荒々しく頭を掻くカグムは、もう何も言わなかった。
 煽る言葉すら見つからないらしい。なんだか誇らしい気持ちになった。言い負かした気分だ。

 ユンジェの重たい瞼が持ち上がる。
 瞳を覗き込むと、それは何度も瞬きをして、掠れた声を出した。力なく口角を持ち上げ、笑みを浮かべる。


「ティエン。おれのこと、助けてくれたんだな」


 子どもはリーミンではなく、ユンジェであった。胸を撫で下ろす。良かった、正気に戻っているようだ。

 ありがとうを口にする子どもは、思い出すことができたと一笑して語り部となる。

「途中で訳が分からなくなったけど、ティエンが呼んでくれたから、おれ、思い出せたよ。自分のこと。不思議なんだ。セイウに呼ばれた時は、心が空っぽになったのにさ。お前が呼んでくれた時は、すごく心満たされた」

 相槌を打つと、ユンジェは少しだけ涙声になって呟く。

「俺、人間のままでいたいな。懐剣としてお前を守ることは怖くないけど、人間でなくなるのは、少しだけ怖いや。なんにも感じなくなるし、頭だって真っ白になるし」

「辛抱するなと、私は教えなかったか?」

「性格悪いぞティエン。ちぇっ、すごく嫌だよ。人間でなくなるの。本音を言えば、お前を守れるかどうかも、ちょっと怖い」

 素直でよろしい。
 いたずら気に笑うティエンを見上げ、ユンジェは目を細めて笑った。


「俺が自分を忘れそうになったら、また思い出させてよ。ティエンが呼んでくれたら、何度忘れても思い出せるから。俺が誰を守りたいのか、きっと思い出せるから」


 そんなのお安い御用だ。
 声が嗄れるまで、呼び続けたって構わない。それでユンジェが心を取り戻してくれるのなら、ティエンは声を潰しても呼び続けるつもりだ。


「ユンジェ。お前はユンジェだよ。私にティエンの名前をつけてくれた、農民のユンジェだ」


 この声が失っても、ずっと。ずっと。



 少し離れた岩場に移動したカグムはハオと共に、王子と懐剣を見守り、神妙な顔を作っていた。

 口から零れるのは、重々しいため息だ。

 ティエンが玄州に行く決意を固めてくれたことは、こちらとしては有り難い。隙を見て逃げ出す、なんて馬鹿な行為が減ってくれる。余計な仕事もなくていい。

 だが。


(ピンイン。お前はとても気丈夫になった。強くなった。けどその分、脆くもなった)


 良くも悪くも人間くさくなった。
 それに喜べばいいのか、嘆けばいいのか、正直カグムには分からない。


「懐剣のガキ、折らないようにしねーとな。あれじゃ後追いしかねないぞ」

「頼むから、それを言ってくれるな。俺は頭が痛い」


 薄々と気付いてはいたが、ティエンの弱点はあまりにも脆く致命的だ。

 彼の大部分は懐剣のユンジェが占めている。
 生い立ちを考えれば、仕方のないことだろう。分かっている。それに追い撃ちを掛けたのは自分だ。全部分かっている。

 それでも、あれはあまりに脆すぎる。

 ハオの言う通り、失えばきっと。

「懐剣ってのは、者であって物なんだな」

 頭の後ろで腕を組んだハオが、こんなことを言ってくる。視線を投げると、彼は天を見上げた。

「なんっつーのかな。物ってのは、持ち主によってすぐに壊れたり、反対に長持ちしたりするだろう? 懐剣も同じなのかなぁって思ってよ」

 ティエンとセイウの懐剣のはざまで揺れたユンジェは、持ち主によって心を持ったし、心を捨てた。
 それがなんだか、哀れでならないとハオ。
    
 自分の意思で心の有無を決められないなんて、麒麟の使いは本当に酷な運命を背負っているものだ。

「俺なら一日で音を上げそうだぜ。どんだけ辛抱強いんだよ、あのガキ」

 毒のない悪態をつくハオから目を逸らし、カグムも天を仰いだ。やや薄い雲のかかった青空が自分達を見下ろしている。

「ユンジェは俺と違って、最後まで守り通す強い心を持っている。だから、どんな目に遭っても、懐剣をやめないんだろうさ。ほんと、王族の近衛兵だった俺より強ぇよ。あのガキ」

 苦々しく笑うカグムは、羨ましい心の持ち主だと言って吐息をついた。ハオは何も言わず、ただ聞き手に回り、青い空を見つめている。彼なりの優しさなのだろう。

「国がどんなに変わろうと、空だけはいつも平和だなハオ。俺達の立つ地上は、こんなに荒れているのに」


 天は見守る地上を、どう見ているのだろう。






 麟ノ国を吹き抜ける風は噂を運び運んで、人びとの耳に届ける。

 南の紅州にて麟ノ国第三王子ピンインの懐剣に、麒麟の使いが宿った。
 同じく紅州にて麟ノ国第二王子セイウの懐剣を抜いた少年が現れた。されど、それは謀反兵らによって東の青州へ連れて行かれたと騒がれる。

 二人の王子の懐剣を抜いた少年は同じ者。

 西の白州を任されている麟ノ国第一王子リャンテは、噂を聞くや、早馬に竹簡を持たせると、返事を待たず三日後に、兵を率いて発ったそうだ。


 彼は東の青州、麟ノ国第二王子セイウの下へ向かったという。



(第二幕:遁走の紅州/了)






第三幕:三つ巴の青州




 


 東の青州は、たいへん交易に優れた土地である。

 海や川に面した地域が多いため、船を伝って他州との交易を図っている。
 それだけではなく、他国を受け入れる貿易の窓口として成り立っているので、異国人の姿も多く見られる。麟ノ国五州の中で、最も経済に影響を与える土地が青州である。

 そんな青州は交易が盛んなこともあって、噂やお達しの広まりがはやい。

 町々、村々、都では、王族直下の立て札が立てられた。


『麟ノ国第二王子セイウ ヨリ 尋ネ人 謀反兵ニ攫ワレ少年ノ名 リーミン 又ハ ユンジェ』


 先方、王族に不満を持った謀反兵らが客亭(かくてい)に奇襲を掛け、第二王子セイウの下にいた少年を連れ攫ったそうだ。
 その少年はセイウの懐剣に選ばれし者、麒麟から使命を授かった者だという。

 ゆえに青州の兵士は、青州の人びとに知らせを呼び掛けた。リーミンを見つけ、宮殿に連れて来た者には報酬を与えると。

 事件に関わった謀反兵らを捕まえても、それなりの報酬が待っているそうで、とりわけ主犯となった元王族近衛兵のカグム。奇襲を目論んだ麟ノ国第三王子ピンインには、リーミンより劣るものの、大きな土地が買えるほどの報酬を支払われるのだという。

 ただし。立て札には、恐ろしい注意書きも記されていた。兵士がそれを読みあげる。

「リーミンさまに疵をつけてはならない。あれはセイウさまの懐剣であり、平民よりはるかに高い身分のお方。一滴の血を流すことも許されない。もし、疵をつければ、笞刑が待っている」

 くれぐれも、美しさを汚さぬように。こよなく美と財を愛する、第二王子セイウらしい警告であった。



 ここに王族兵の目から逃げ去るように小雨の下、町を出て行く男と子どもがいる。

 その二人組は買った油や塩、保存食を腕に抱えて、外れの竹藪に入った。
 高く伸びた青竹の合間を縫い、奥へ進む二人は、やがて人間から見捨てられた廃屋に辿り着く。

 中に入ると、まさしくお尋ね者になっているティエンとカグムが、首を長くして待っていた。

「町の様子はどうだった? ハオ」

「謀反兵は誘拐犯にされてたよ。すっかり俺達はお尋ね者だ。とくにクソガキの熱の入れようは半端ねえ。一部の人間にしか顔が割られていないとはいえ、次からはカグム達と待機していた方が得策だ」

 淡々と説明するハオの隣で、ユンジェは頭を抱えていた。
 叫ぶことが許されるのであれば、思いきり叫んでやりたかった。馬鹿野郎と怒鳴ってやりたかった。


「なにが美しいまま連れて来いだよ。セイウの奴っ、相変わらず人を物みたいに見やがって」


 ユンジェは懐剣という自覚こそあるものの、物という自覚は持ち合わせていない。
 それゆえに疵をつけるな、だの、美しいまま連れて来いだの、そんなことを言われると腹が立ってしまう。

 泥でもひっかぶってやろうか。地団太を踏むユンジェを指さし、ハオが目を細めてカグムに言った。

「クソガキ。平民より高い身分になってたぞ」

「ははっ。まあ、王族の懐剣なんだから、平民より高い身分に扱われても仕方がないだろうさ」

「なら、俺達もクソガキを丁重に扱うべきか? 今さらだとは思うが」

 途端にユンジェは血相を変え、ハオに縋って、それは嫌だと訴える。

「お願いだから、農民のユンジェで接してよ。クソガキって罵ってよ。王族に相応しくない身分だって怒ってくれよっ! 俺は高い身分になんかなりたくない」

 あれは地獄だ。生き地獄だ。自由もなければ、意思も持てない。何をするにも、誰かの手がなければ動けない。ああもう、思い出しただけでも肌が粟立つ。

 ユンジェはわなわなと身震いし、平民がいい。農民が一番いいと切に主張した。あまりにも切迫した顔だったのか、ハオが身を引きつつ好奇心を向けてくる。

「てめえ、セイウさまの下で何が遭ったんだよ。少しは贅沢ってのもできたんじゃねーの? 綺麗な格好だってできたわけだし」

「じゃあ、ハオは我慢できるか? 初対面の人間に、真っ裸にされて湯に何度も浸けられたり。自分の手で着替えることも、食べることも、許されなかったり。挙句、用を足すことすら、従僕がついてくる!」

    

 こんな屈辱あるだろうか。まだ服従を示した方がマシだ。

 ユンジェがそう言うと、ハオがあからさまに嫌そうな顔を作り、「それは苦痛だな」と零した。想像するだけで、たいへん恐ろしいものを感じるらしい。

 一方、話を聞いていたティエンはきょとんとした顔を作り、なんだ、と安心したように頬を崩した。

「セイウ兄上のことだから主従の儀以外にも、至らん苦痛を与えたのかと心配したが、ユンジェを丁寧に扱っているところもあったのだな。良かった」

 ティエンに悪気はない。離宮にいた頃は、そのような扱いを受けていたのだろう。彼に悪意など一切ない。しかし、だ。

 ユンジェは遠い目を作り、ティエンを満遍なく見て、ぽろっと呟く。

「ティエン。いまの俺とお前は、分かり合えないんだな」

「それはなぜだ?」

「いや、うん。いいんだ。育ちが違うから、分かり合えないのも無理はないよ。そういうことだってあると思う。気を悪くするな」

 大層、不思議な顔を作るティエンに空笑いを浮かべる。
 普段はちっとも気にならないが、ふとした時、彼は王族の人間だな、と思う。言えば彼が烈火の如く怒るので、黙っておくが。


 さて。ユンジェはティエンから、今後の予定について話を聞いている。


 彼から玄州に行くと決意の声を聞いた時は、我が耳を疑ったが、ユンジェは特に反対をしなかった。
 ティエンの強い意思を宿した目を見て、言ったところで無駄だと判断したからだ。

 それに加え、天士ホウレイに麒麟や使いのこと、そして呪われた王子について詳しく知りたいのだと言われた。
 ティエンは痛感したのだろう。己の知識に穴があることや、無知な点が多いところを。

 なにより。彼はユンジェを守るために、知識を得ようとしている。
 申し訳ない気持ちで一杯になるが、ユンジェ自身、王族相手になると太刀打ちができなくなる。

(もし、セイウと再会したら、俺はまた何も感じなくなるかもしれない。身も心も懐剣になるかもしれない)

 セイウと主従関係にあるユンジェは、第二王子との再会をなにより恐れた。あれに会わずに青州を抜けることができれば良いのだが。

 廃屋の突き上げ戸から外を眺める。
 本降りとなったので、今日はここで野宿だ。馬を失っているので、雨の日は雨宿りできるところで体力を温存しておかなければ。

(はあ。四人ってのがなぁ。微妙な空気だよ)

 ライソウとシュントウがいなくなったので、なんというか、空気の緩和が薄くなった。
    
 とりわけティエンとカグムが同じ空間にいると、その空気が冷たくなって仕方がない。陰でこっそりとハオが勘弁してくれ、と嘆いているのを耳にしている。

 廃屋にいる今なんて最高に最悪であった。空間が狭いので、より冷たい空気が肌を刺す。

 もっぱら拒絶を示しているのはティエンなので、それをどうにかしなければ。本当に息苦しいったらありゃしない。

 そこでユンジェは考えた。空気を壊すにはどうすればいいか。

 答えは簡単だ。
 ティエンの気を紛らわせばいい。どちらにしろ、準備をしようと思っていたのだ。

 ユンジェは口角を持ち上げると、四隅で腕を組み、突き上げ戸から外を眺めるティエンに声を掛けた。

「ティエン。頭陀袋の中身を出してくれ。矢の本数も確認したいから、床に並べてくれな」

 勿論、ユンジェの頭陀袋の中身もひっくり返す。

 悲しいことに、充実していたユンジェの持ち物は、セイウの下で着替えた時に、すべて取り上げられている。
 所持品には保存食や銭は勿論、糸や布縄なんかも入っていたというのに。

 おかげでユンジェの持ち物は手鏡や紅、燐寸(マッチ)、ハチミツ、櫛、本日買い足した油や塩など、あまりパッとしない。

 対照的にティエンの持ち物は、とても充実していた。
    

 布縄や火打ち石、リオ達から貰った糸も残っている。何か遭った時のために、常日頃から半分にしていた甲斐があった。

(半分にできるものは半分にするとして)

 ユンジェが気になったのは、彼が使用している矢の本数であった。
 まだ数はあるものの、鉄の(やじり)がついた矢が、これから先、簡単に手に入ると思えない。

 そこでユンジェは雨にも関わらず廃屋の外に出ると、細い竹を切り集めて、焚いた火でそれを焙り、乾かした上で所持している矢と長さを合わせる。
 先端は刃物で削り、鏃は火打ち石を砕いて代用した。後は布紐を解いて、更に細くし、巻きつければ。

「すごいなユンジェ。自分で矢を作っているのか?」

 焙った矢が直線になっているか、確認するため、竹を水平に持って覗き込んでいると、カグムが感心したように作業を覗き込んできた。

「鉄鏃の矢は無駄にできないからね。いざって時以外は、こっちで我慢してもらおうと思って。殺傷能力は低いだろうけど、ティエンの腕なら獣くらい射ることができるはずだ」

「なんで火打ち石を付けるんだよ。先端を尖らせておけばいいんじゃね?」

 ハオも覗き込んでくる。竹の先端を刃物で削ぎながら、ユンジェは答える。

「俺もそう思って、何度か試したんだけど、上手く飛ばないんだ。重りがないと、飛距離が伸びないみたい。ティエン、出来上がっているその矢、使ってみろ」

 竹の無駄な皮を削いでいたティエンは、言われた通り、短弓に竹矢を引っ掛けると、廃屋の出入り口に向かって放った。
 やや狙い目がずれるらしいが、使えないことはないようだ。

「うん。ユンジェ、なかなか良い出来だと思う。さすがだな」

「即席で作った奴だから、乾燥すらさせてないし、すぐに虫に食われて腐りそうだけど……しばらくそれで我慢してくれな。取りあえず、二十本は作っとく。これが終わったら、目つぶしを作るから、カグム達の要望を聞いておくかな」

「要望?」

 カグムが首を傾げてくるので、ユンジェは好みの目つぶしを作ってやると笑顔で答えた。

「俺は人に合わせて、目つぶしを作るんだ。たとえば、ティエンは矢を使うから、なるべく矢に付けやすいよう、絞り口を狭くする」

 ユンジェ自身は懐剣を使うので、目つぶしを直接投げる型にしている。もしも相手に詰められても、これを顔に投げれば、逃げられるという寸法だ。

「カグムやハオは、刃の長い武器を使うから素手で投げるより、紐で回しながら投げた方がいいかな。手で握っていたら邪魔になりそうだから、腰に下げる型にしようか?」

「あははっ。ユンジェ、お前って本当に不意打ちに徹底しているな。俺が敵だったら、絶対に斬りたくなるぜ。この悪ガキ」

 声を上げて笑うカグムに、褒め言葉だと意地の悪い笑みを向け、さっそく要望を尋ねた。無いよりはあった方がマシだろう。

「長めの紐を付けることは可能か?」

 カグムが人差し指を立てた。勿論できる。

「長め? どんくらい?」

「遠心力で人ひとり分の幅ができるくらい。それを振り回せば、複数の人間の目を潰せる気がしてな。ユンジェの作る目つぶしって、基本的に一回きりだろう? けど、目つぶしの中に入っている砂や唐辛子なんかは、一回じゃ出し切れないと思うんだ」

 数回は使えるのでは、とカグムが意見する。

「なるほど。数回使える目つぶし。それいいな。材料の節約にもなりそう。ちょっと作ってみるよ」

 軽く手を叩くユンジェは、良い案だと大変感心していた。そうだろう、そうだろう、得意げに頷くカグムの後ろで、ハオが遠い目を作る。

「数回使える目つぶし……それを思いつくカグム、てめえも大概で良い性格していると思う。はあ。こいつら、こえーよ」

「そういうハオは、単純馬鹿だよな」

 物の見事に拳骨を食らってしまう。調子に乗り過ぎたようだ。


「あ、そうだ」


 脳天をさするユンジェは思い出したように手鏡を取り出すと、中心に懐剣の刃先を当て慎重に割った。四分割にしたところで、各々破片を渡す。

「各自持っといてよ。それをちらつかせれば光で合図が送れるし、夜襲を受けた時は、これで敵の松明を確認できると思う。鏡は便利だよ」

「合図? ユンジェ、合図とは?」

 ティエンが首を傾げると、「これから先は連携が大切じゃん?」と、言って鏡の破片を手に持った。

「俺達はいつ何時襲われるかも分からない。その時、もしも四人が散らばったらどうする? とくに俺とティエンは弱い。真正面から襲われたら一巻の終わりだ」

 鏡なら声を出さずに、居場所を知らせることができる。また、二手に分かれて行動する時も、これで合図を送りあえる。

 ティエンが玄州に行くと言った以上、近衛兵のカグムやハオに警戒しても仕方がない。いがみ合うより、手を組んで青州を渡らなればならないだろう。
 手鏡を割って渡したのは、そういった協力する意味もある。

「カグムとハオは腕が立つ。だからこそ、俺達はお荷物だ。何かを守りながら動くってのは、それだけ注意するべき点が増える」

 ただでさえ敵数は多い。ユンジェとしては、彼らの負担になりたくない思いが強い。

「ティエン、覚えとけよ。俺とお前は、よく考えて動かないといけない場面が多くなる。それは、腕の立つ人間の足を引っ張らないための動きだ。主力に怪我を負わせるな。余計な気遣いはさせるな。無駄な動きは取らせるな。この三点は肝に銘じとけよ」

 でなければ、生き残れない。

 ユンジェは掻いた胡坐の上で、頬杖をつくと、たき火を睨んで思考を回す。
 ティエンに偉そうなことは言ったが、おおよそ一番足手まといになりかねないのは自分だ。
 主従関係にあるセイウが現れたら、ユンジェはまた下僕に成り下がるやもしれない。

 考えろ。セイウにひれ伏す、その前にどうすればいいのか。

「んっ?」

 ふと、ユンジェは突き刺さる視線を三つ感じた。顔を上げると、含みある眼が向けられている。

 はて、何かおかしなことを言っただろうか。

「クソガキ。お前、本当に農民か?」

 ハオが不思議な質問を投げかけてくる。身分など、今さらではないだろうか。

「突然なんだよ。俺は畑仕事ばっかりしていた、農民のガキだよ。あ、縄と(むしろ)作りも得意かな」

「正直に言え。本当の歳はいくつだよ」

「はあ? 十四だけど」

「こんな十四がいるか! しかも農民って!」

「ハオ、意味わかんねーんだけど」

 すると。カグムが一つ頷いて、乾燥豆を取り出し、ユンジェの前に並べた。