「なんでセイウさまを煽ったんだ。あれじゃ、本気を出せと言っているようなもんだ。もう少し考えろ。逃げられるもんも、逃げられなくなるだろうがっ」

「私は煽ろうとしたのではなく、兄上を討とうとしたんだっ。しかし、当たる寸前で不自然に軌道が変わってしまった。麒麟の加護のせいだ」

「どっちにしろ、厄介な結果を招いたじゃねえか。馬鹿野郎め」

「あれを討たなければ、ユンジェは解放されないんだ。私は何度だって試みる。口出しをしてくれるな」

 二人の言い合いはユンジェの悲鳴によって、終止符を打たれる。

「ティエン。どうしよう、俺、自分が分からなくなっていくよ。リーミンで合ってる? 合ってるよな?」

「ユンジェっ、お前はユンジェだぞ。気をしっかり持ってくれ」

 ティエンが両肩を掴んで身を抱くが、頭を抱えるユンジェ自身、もう自分が『ユンジェ』なのか、『リーミン』なのか、訳が分からなくなっていた。

 これまでユンジェは麒麟から呪われた王子を守れと、守り抜けと、守護の懐剣になれと使命を授かり、それを忠実にまっとうしてきた。背負う使命はひとつであった。

 なのに。


(頭がっ、がんがんする。血の杯を飲んだ時のような音が聞こえてくる)


 いま、ユンジェの中で、服従と使命がせめぎ合っている。
 本能がセイウに従えと命じてくる。一方で所有者のティエンを守れと命じてくる。
    
 双方が衝突し、強い混乱を生む。ユンジェはもう、何を信じれば良いのか分からない。自分すら信じられそうにない。

 岩場の向こうで、馬の蹄の音が聞こえた。騎馬兵が来たのだろう。闇夜に無数の赤い点が見え隠れし、それは速度を上げて近づいてくる。

「ちっ。もう来やがった。走れ」

 カグムの指示により、ユンジェはよろめく体に鞭を打つ。
 混乱した頭のまま、ティエンに腕を引かれ、岩陰から飛び出した。前方にはカグムが、後方にはハオが、左右にはライソウとシュントウが剣を抜いて走っている。

 馬が来る前に足場の険しい道を選ぼうとしたカグムだが、人間の足と馬の足、どちらが速いかなど、考える必要もないだろう。
 松明を持った騎馬兵が一行の姿を捉えるや、馬の腹を蹴って声音を張った。

「リーミンを捕らえろ! それまでピンイン王子に刃は向けるな。リーミンが暴れかねない。それがセイウさまの御命令だ」

 さすがセイウ。麒麟の使いの弱点を、しかと把握している。

 一頭の馬が騎馬兵の群を飛び出し、誰よりも早くカグムの前に回った。
 夜のとばりと一体になるような黒馬に跨り、直刀(ちょくとう)を抜く、その男はチャオヤンであった。向こうの川岸にいたはずなのに、もう追いついて来たのだ。


「久しぶりだな。カグムっ!」

「まったく。よりにもよって、なんでお前が来るんだよ。チャオヤンっ!」


 直刀と太極刀がぶつかり合う。

 馬の勢いに押され、後ろに飛躍するカグムをチャオヤンは鼻で笑うと、「返してもらおうか」と言って、頭を押さえるユンジェを一瞥する。

 その視線に気づいたティエンが、急いでユンジェを背後に隠すも、チャオヤンは命じた。

「戻ってきなさい、リーミン。セイウさまに逆らってはいけない。お前の中には、主君の血が宿っている。逆らえば逆らうほど、それは業になる」

 逆心は大罪だとチャオヤン。
 カグムを汚いようなものを見るような目で見ると、こんな男と同じになってはいけないと言う。その口調は厳かながらも、やや優しかった。
 たとえに出された男は放っておけ、と舌を鳴らして突き返す。

「切れ者のくせに、忠誠心は人三倍強い。相変わらずだな。チャオヤン。どんなに愚かな主君でも、お前ならその身が朽ちるまで守り抜くんだろうよ」

「それが近衛兵としてのお役だ。ピンイン王子に逆心を向けた、貴様とは違う。主君がどのようなお方でも、天が授けたお役は最後まで全うする」


 そう。たとえ、どのようなお方でも、だ。