なんだよそれ、と言いたくなった。

 もしも思い出すことができなかったらどうするのだ。リーミンになって、そのまま元に戻れなくなったら、ユンジェはティエンの懐剣でいられなくなるのに。セイウの懐剣に成り下がってしまうのに。

 事はもっと複雑で重たいことなのに、簡単に思い出させる、なんて言わないで欲しい。安心させないで欲しい。甘えさせないで欲しい。

 ああ、言わないでいようと思ったのに。伏せておこうと思ったのに。辛抱しようと思ったのに。

「ティエン。俺、リーミンになりたくねえよ」

 ユンジェは恐怖心に負け、弱い心を剥き出して、彼に助けを求める。
 守らなければいけない相手に、助けてと言って、身を震わせた。懐剣はそれではいけないと分かっていながらも、その心には抗えなかった。
 もう、どうして良いのか分からなかった。

「その言葉を、私は待っていたよ」

 腰を浮かしたティエンが、ユンジェの頭を抱擁する。

「ユンジェ、お前が私に教えただろう。一緒に生きる意味を。一人で苦しんでくれるな」

 共に生きる、とは嬉しいや楽しいだけではない。苦しいや悲しいも含まれている。都合が悪くなったら一人で頑張る、なんて変だ。
 ユンジェは確かに、そんなことをティエンに言った。

 彼はしかと、それを覚えていたらしい。抱擁する腕を強くし、ユンジェに言い聞かせる。

「つらくなったら、助けを求めておくれ。いいな、ユンジェ。辛抱するな。私の前では、決して辛抱などしてくれるな――話してくれるな?」

 普段は面倒ばかり掛けているくせに、いざとなると頼りになるのだから嫌になる。ティエンはまぎれもなく、ユンジェの兄であった。

 ユンジェはぽつりぽつりと、セイウとの出来事を語り始める。
 麒麟の使いは王族の隷属であることや、セイウに懐剣を向けられなかったこと。改名を強いられたこと。黙っておこうと思った主従の儀とその内容。主従関係になったことを事細かに話す。

 まこと懐剣のお役については、まだ半信半疑なところもあるので伏せた。
 ティエンを王座に就かせようとしている、謀反兵達に聞かれてもまずい。二人きりの時に話そうと思った。

 静聴していたティエンは、ユンジェの予想に反して傷付いた顔はしなかった。
 その代わりに、天と地をひっくり返しそうな怒りを全身に纏わせ、腰掛を倒した。


 もはや、その怒りに熱はなく、身も骨をも凍らせる冷たさばかりが際立つ。ティエンの怒りは、早々に殺意と化していた。


「これほど怒り狂ったことなどない。いや、いっそ狂ってしまえば、どれほど気が楽になったか。おのれ、セイウ兄上。おのれっ、セイウ!」


 ティエンが転がる腰掛を蹴り飛ばした。その乱暴さには謀反兵も間諜も、そしてユンジェも驚いてしまうが、彼の怒りはおさまることを知らない。

「よくも私の弟をっ、下僕畜生にしてくれたな。服従を示させただとっ。血の杯を飲ませただとっ。ふざけるなっ!」

 とりわけ、服従に対する怒りが大きいようだ。ティエンは壁を叩き、「よくも」と繰り返している。
 おかげでユンジェの方は幾分冷静になれた。恐る恐る、傍にいるカグムに尋ねる。

「服従を示すあれって、そんなに屈辱的なの?」

 彼は哀れみの目でユンジェを見つめた。

「ああ。服従を示す行為には、人間から畜生に成り下がる、という意味合いがあるんだ。ユンジェ、お前は本当に……」

 慌てて両手を振った。

「そんな顔するなって。俺は平気だったぜ? そりゃみんなの前で、両手の甲は踏まれたし、相手の右足の甲には額を合わせたし、服従の言葉は言わされたけど……屈辱的とは、あんまり思わなかった」

 明るく振る舞えば振る舞うほど、とても痛々しい目で見つめられる。仕舞いには「もういい」と、カグムに頭を軽く叩かれた。ハオにすら、「そこはガキらしくなりゃいいんじゃね」と素っ気なく慰められる。

(そんなに屈辱的な行為だったのか。俺は湯殿で他人に真っ裸を見られた挙句、隅々まで丁寧に洗われたことの方が屈辱的だったんだけど)

 無知とは罪だな、とつくづく思う。みなが思うほどユンジェは傷付いていないのに。
 服従を示すより、セイウに飲まされた血の杯の方が、精神的にくるものがあった。思い出すだけで吐き気がしてくる。

 カグムがため息をつき、軽く頭部を掻いた。

「ユンジェの弱点が『王族』にもあったとはな。麒麟の使いが王族の隷属だったなんて」

「セイウが言うには、『王族』も麒麟から使命を授かった者だから、俺と同じような立場なんだってさ。でも、俺は『平民』だから、その地位は『王族』より弱い」

 実際、セイウに刃を向けた時、とても畏れた。

「ティエン、ちょっと確かめたい。短剣を構えてくれ」

 鞘から懐剣を抜くと、怒りを纏っている大切な家族に刃先を向けた。彼に刃物など向けたこともない。これからもないと思っていた。生涯ないと思っていたからこそ、不思議な気持ちだ。

 言われた通り、ティエンが短剣を抜く。
 向かい合ったところで、その剣に狙いを定め、懐剣を振る。