「リーミン。とても美しくない髪ですよ。なぜ、短くしているのです」

 そういえば、王族は髪を伸ばし、それを大切にする風習があるとティエンが言っていたっけ。ユンジェは思い出に浸りつつ、簡単に返事した。

「お金にしたからです。食べるものに困っていたので」

「愚かですね」

 なぜ、そうなる。この男はユンジェに飢え死にしろというのか。

「人間の髪は麒麟がたてがみを切り、与えたものだと云われているのに。リーミン、私の許可なしに切ってはなりませんよ。美しくないものは手元に置きたくないので」

 いっそ手放してくれないだろうか。
 飾られるより、ずっとマシな生活ができそうだ。泥でも浴びて汚れてやろうか。ユンジェは内心、めいっぱい毒を吐き、表向きは素直に頷いた。

(……さっきから気になってたけど、妙にぴかぴかだな。この皿。鏡か?)

 セイウの目を気にしつつ、ユンジェは、豚肉が盛られている皿を自分の方へ引き寄せた。侍女に叱られたが、どうしても好奇心が抑えられない。つい皿の裏側を確認してしまう。

「リーミン。それは銀で出来た皿です。王族はみな、これで食事をします。なぜだと思います?」

 ユンジェは銀の皿をじっと見つめる。

 単に美しいから、という理由だけなら、セイウはこんな質問を投げないだろう。きっと理由があって、銀を使用しているのだ。
 周りをよく見渡せば、皿だけでなく、箸も銀であることに気づいた。となれば、銀でなければならない理由があるのだろう。

「口に入れる食べ物に腐ったものがないかどうか、銀で調べる? いやでも、王族は金持ちだし、腐ったものなんてまず買いそうになさそう……うーん」

「おや、良い線をいってますね。意外と頭は回る子でしょうか」

 意外は余計である。ユンジェは鼻を鳴らしたくなった。

「銀の食器にしている理由は、料理に毒が入っていないかどうか確認するためです。入っていれば、皿は変色します」

「毒が入っていることがあるのですか?」

「王族の間で暗殺は日常茶飯事のこと。この身分を狙い、従者に化けた間諜が毒を忍ばせることも多々あります。今いる者達の中に、毒を入れる者もいるやもしれません」

 不敵に笑うセイウと視線を合わせないよう、兵士や従者達が顔を背けた。王族に関しては、まるで知識がないので、ユンジェはつい相槌を打ってしまう。

「念のため、料理に毒が入っていないかどうか、毒見役もいるのですよ。食器だけですべてを見抜けると思いませんからね」

「じゃあ、その毒見の人が一番偉い存在なんですね」

「偉い?」

「だって毒見をする人が、良しといえば、その料理はセイウさまの口に運ばれるわけでしょう? それはとても責任があり、偉い存在に俺は思えます」

 下手をすれば、毒見役が料理を食べる振りをして、毒を仕込むことだってできるのだ。そう思うと、やはり毒見役は偉いのだろう。ユンジェはしみじみ頷く。

 すると、セイウは一思案し、近くにいる近衛兵のチャオヤンに命じた。

「後ほど毒見役の者達を集め、それの形態を私に伝えなさい。場合によっては、毒見役に付ける兵の数を増やします」

 心配事があるのだろうか。

 ユンジェは二人のやり取りを眺めていたが、ふとセイウの帯に目を向ける。そこには懐剣が差さっていた。まだ、ユンジェはそれを授かっていない。それを見る度、なんとなく呼ばれている気がする。

「気になりますか?」

 探りを含んだ問いに、ユンジェは少し唸って首を傾げた。

「俺はこの都に着いた時から、いや着く前から、懐剣に呼ばれていました。それが、よく分からなくて。なんでだろうと思って。すでに別の方の懐剣でしたから」

 これは純粋な疑問であった。
    
 なぜ、ティエンの懐剣であるユンジェは、セイウの懐剣に呼ばれたのだろう。麒麟は己に、ティエンの守護剣となれと命じたのに。

「それは貴方が麒麟の使いだからですよ。リーミン、貴方は己の役目が何なのか知っていますか?」

「えっ。いや、所有者を守護して生かすため、としか」

 ティエンは言っていた。
 王族の所有する懐剣を抜いた者が、麒麟の使いとなり、所有者に関わる使命を背負う、と。
 ユンジェは麒麟にティエンの守護を任されたので、こんにちまで懐剣を抜いていた。それに迷いはなく、彼を生かすためなら業も背負った。

 正直に話すと、セイウは「無知は罪ですね」と言って冷笑する。少しだけ、眉を顰めてしまった。ティエンの悪口は聞きたくないのだが。

「麒麟の使いが何たるのか、まったく分かっていない。なんて、愚かな。宝の持ち腐れとはまさにこのことでしょう」

 セイウが懐剣を静かに抜くと、それを垂直に立て、光り輝く刃を見つめた。

「麒麟の角を磨き上げ、刃にした麟ノ懐剣は、麟ノ国王族にしか抜けないもの。加護の宿った懐剣は、我らに国を守護する使命と地位を与える。我らは国のために生涯を捧げる」

 それが、王族の定められた一生だとセイウ。


「しかしながら、麒麟はある時代に、王族と無関係な使いを寄越します。そう、リーミン。貴方のようにね」


 使いの出現は、新たな時代の兆し。それは時代を終わらせる者とも、流れを変えるための者とも、国を決壊させる者とも云われている。

 なぜか。麒麟の使いを持った王族こそ、国の命運を分ける者だからだ。
 国を亡ぼすのか、それとも国を変えるのか、はたまた国を創るのか。それは選ばれた王族次第。

 また麒麟の使いは王族の隷属。
 その王族に仕え、身を挺して守り抜く。それを新たな時代の王とするために。その者を王座に導くために。今の時代を壊すため。

「使いに導かれた王は、黎明期の王として君臨します。我々王族の間では、麒麟と使いの者に見定められた、王の中の王と敬意を表し『黎明皇』と呼んでいます」

 セイウは呆けるユンジェに、目を細めて笑う。

「リーミン。私が貴方に『黎明』と名づけたのは、そういう意味合いがあるからなんですよ。貴方の使命は、単に所有者を守るためではない。生かすためでもない。新たな時代の王を導くために、存在している」

 一般的には懐剣を抜いた者は、所有者に関わる使命を持つ、と云われているが、真の姿は黎明期の王を導く者だ。

 ちなみに、これは正当な王族のみが知っている伝承。
 離宮に幽閉されていた愚弟が知らないのも無理はない。黎明皇のことなど、あれが知ったところで、王になれるわけがない。教えたところで時間の無駄だ。


「まあ、実際は愚弟の懐剣に使いが宿ってしまった。こればかりは、私でも理解しかねます」


 そんな。ユンジェは途方に暮れてしまう。

 では、自分が今までティエンを生かそうと身を挺したのは、彼を王とするため? 使命に駆られて走っていたのは、彼を王座に導くため? ティエンが王座を拒んでいることは、誰よりユンジェが知っているのに。

「うそだ。俺は王族も何も知らない農民だよ。王座に導くなんて、そんなの……」

 敬語も使えないほど混乱するユンジェに、「本題です」と言って、セイウが垂直に持っていた懐剣の切っ先をこちらに向ける。

「貴方は愚弟の懐剣を抜いた者。その一方で、私の懐剣に導かれている。その答えはひとつ。私にも王の器があるからです。貴方は本能的に、迷っているのではないでしょうか? 守るべき所有者を」

 そんなわけがない。ユンジェはティエンを精一杯守りたい。少なくとも、性格の悪いセイウよりかはティエンの方がずっとずっと良い。

「貴方は新たな時代の王を導く者。その使命は生涯を懸けても、果たしたいはずです」

「わ、分からないよ。俺は今まで守ることで一杯いっぱいで」

「人間でいようとするから、分からないのです。リーミン、貴方は懐剣。心は捨てなさい。人間のリーミンはとても美しくない」

 セイウが欲に駆られたのは、懐剣として振る舞うユンジェである。

 恐れも痛みも人間も忘れ、目の前の兵を向かっていく姿は、とても美しく、気高く、興奮する。あれは何度も拝みたい。毎日見たって、きっと飽きることなどないだろう。

 セイウは繰り返す。目を白黒にするユンジェに向かって、人間の己は捨てろ、と。

「懐剣が心を持てば、主君を守れない。それは分かっているでしょう? 捨てなさい。人間の己を。さすれば、貴方の真の使命も見えてくるはずですよ」

「真の使命……」

「その様子だと、ピンインとの関係も成立させていないのでしょうね。いや、あれが成立させるやり方など知るはずもない、か」

 近衛兵のチャオヤンを呼び付けるセイウは、彼に耳打ちをして、何かを指示する。チャオヤンは早足で銀の盆を持ってきた。その上には、金の杯がのっている。

「まこと所有者と懐剣の関係を成立させるには、三つの主従の儀が必要です」

 そう言ってセイウは懐剣を鞘に収めると、ユンジェの前に置いた。

「さあ、リーミン。まずは懐剣を抜きなさい」

 主従の儀一つめは、選ばれた使いが所有者の懐剣を抜くこと。
 ユンジェは逆らえず、それから鞘をすべて抜いた。あっさりと抜けたので、思わず偽物ではないか、と疑ってしまう。

「次の儀は、すでに先ほど終えました」

 主従の儀二つめは使いが服従を示すこと。


「最後がこれ」


 セイウが懐剣をユンジェの手から取り上げると、右の人差し指に切っ先を当て、小さな傷を作る。
 ぷっくりとにじみ出てきた血を確認し、彼は金の杯に三滴、血を落とした。


「三つめは所有者が使いに血の杯を与えること。これにより、主従の関係が成立します」


 杯を手渡され、ユンジェは身を震わせた。これを飲んでしまえば、セイウとの関係が成り立ってしまう。飲んでしまえば、自分はどうなってしまうのだろう。

 ユンジェは逃げ出したくなった。本能が警鐘を鳴らしている。これはとても、とても、まずい。

 杯を手放そうとすると、背後に立っていたチャオヤンによって止められる。

 彼は有無言わさず、「逆らってはいけない」と、ユンジェを咎めた。服従を示したからには、それ相応の態度を見せろとのこと。反論したい。あんなもの建前に決まっているではないか。

 恐る恐る杯の中を覗き込む。透明な液体の中に、うっすらと赤い筋が浮かんでいた。
 こんなものを飲んだら腹を壊しそうだ。嫌悪感が全身をめぐる。いくら好き嫌いのないユンジェでも、こればかりは飲めそうにない。

 人の苦悩を楽しげに見守っているセイウが軽く指を鳴らす。悲鳴が聞こえた。前を向くと、ひとりの若い侍女が引き倒され、兵に柳葉刀を向けられていた。

「血の杯を飲むリーミンのために、華やかな芸を見せるのも一興でしょうか」

 ひえ。柳葉刀を見た侍女が青ざめた顔で、ユンジェに助けを求めてくる。何から何まで腹立たしい男だ。血の杯を飲ませながら、血を見せる芸など、悪趣味にも程がある。

 ユンジェは杯を握り締めると、セイウに芸を止めてくれるよう懇願した。彼は誠意を見せたら止めると言ったので、急いで杯に口をつける。

 初めて酒は、喉や食道を焼き、思わずむせ返りそうになった。
 それをぐっと堪え、一滴残らず飲み干すと、空であることを示すために杯を逆さにして置いた。それによって侍女に向けられていた柳葉刀が鞘に収められる。

「これで私とリーミンの関係が成立しました。あとは、リーミンから愚弟の懐剣を手放させるだけ」

 麒麟の使いはひとつの懐剣しか持つことができない。あれを討たねば、己の懐剣を持たせられない。セイウは兵達に一刻も早く、第三王子ピンインを探し出すよう命じた。

「ふふっ。気分はどうです? リーミン」

 最悪だと悪態をついてやりたいが、それすら答えることが難しい。
    
 ユンジェは激しくむせていた。己の中で何かが荒れ狂っている。がんがん、がんがん、と音を立てている。これは一体。


「音が聞こえる。がんがん、がんがんって。なに、これ。これはなに」


 何も分からず、ただただ頭を抱えて蹲ってしまった。



 夕餉を終えたユンジェは、割り当てられた部屋の寝台で、まだ頭を抱えていた。

 周りの従僕や侍女が声を掛け、口直しのお茶や点心を用意してくれても、首を横に振るだけ。その代わり、水が欲しいと頼み込み、それを何度も胃袋に流し込んだ。

 ユンジェの様子を見たチャオヤンは、従僕らに今日はもう下がって良いと伝え、頭を抱える自分にもう休むよう伝える。

「召し物は自分で替えられるか? 無理なら従僕に声を掛けても良い」

「変なんだ。音が頭の中でずっと。ずっと。がんがんと、ずっと、ずっ……と……」

 うわ言を呟くユンジェに、チャオヤンは哀れみの目を向け、「そうか」と返事すると、軽く頭を撫でて立ち去る。
 遠ざかる足音。見張り兵に指示する声。そして、消えゆく音――ユンジェはパッと顔を上げ、忍び足で扉に耳を当てた。

 よしよし。従僕も侍女も、近くにいないようだ。


(やっと、ひとりになれた。死ぬかと思った)


 ユンジェは大きく伸びをすると、凝った肩を揉みほぐす。じつは、随分前から正気に戻っている。頭の中で音が鳴っていたのも、ほんの少しの間であった。

(まっ。あれだけ、おかしな態度を取れば、ひとりにするよな。誰も関わりたくないだろうし。いやぁ、良かった。セイウの部屋に連れて行かれなくて。さすがにあいつの前だと、成す術がないからな)

 とはいえ、まだ気分が悪い。ユンジェは舌を出し、血の混ざった酒の味を思い出しては顰め面を作る。

(くそっ、気色の悪い酒を飲ませやがって。吐けるもんなら吐きたい)

 水を何度も飲んだのは、少しでも酒を薄めようとしたからだ。さすがに、これ以上飲むと水腹になるので、水は控えておくが。

「さあて、と」

 ユンジェは上唇を舐めて、割り当てられた部屋を見渡す。

 頭陀袋も着ていた衣も取り上げられてしまったので、今の手持ちは縄で何重にも縛られたティエンの懐剣と、同じくティエンから預かっている麒麟の首飾りのみ。お馴染の布縄も紐も目つぶしも手元にない。

 しかし、贅沢な部屋には物が溢れている。

 ユンジェは口角を持ち上げ、さっそく側らにあった衣装箪笥を開ける。
 思わず口笛を吹いてしまった。大人二人分は入れそうな大きな衣装箪笥には、綺麗な衣が隙間なく詰められている。これだけあれば、布縄や布紐もこしらえることができそうだ。

 お次に飾りの花瓶を手に取る。陶器で出来ているそれを見つめ、軽く指で叩いた。床に落とせば、簡単に割れてくれそうだ。

「あ。これは確か燐寸(マッチ)って奴だ。ライソウが使っているの見たことあるぞ」

 据え置き提灯の隣に放置されている、燐寸(マッチ)の箱を手に取る。有り難く頂戴しよう。

 鏡台からは櫛と紅、手鏡。寝台の隣にある台からは筆に、お茶っ葉。ハチミツの入った小壷。かりんとう。あまり役立ちそうにないものも、寝台の上に置いて準備をしていく。

(高い。飛び降りることは無理だな。兵もいるし)

 擦り硝子の窓を開き、ユンジェは眉を顰めた。また硝子を触り、初めて触れる素材だと、それをよく観察する。陶器よりも脆そうだ。

 衣装らを歯で裂き、捩じって結んでいく。
 ひも状に繋げると、結び目に水差しを傾けて強度を強める。絹は水を掛けると縮むので、なるべく絹が結び目にならないようにしておく。
 ちなみにこれは衣を着せてもらった時に侍女が教えてくれた。絹は水に弱いから、お茶を零さないように、と注意を受けていたのである。

 水が無くなると、ユンジェはそれを衣装箪笥へ隠した。寝台の上に広げていた物も四面に破いた衣装の上に置き、小分けにすると丁寧に畳んで、同じ場所に隠す。

(あとは)

 花瓶を裂いた衣装で包み、寝台の下へ置く。

 少しだけ衣を乱すと、空っぽの水差しを持って、のろのろと部屋を出た。それを持ってうろついていると、間もなく見張り兵に見つかった。

 ユンジェは自分から兵に声を掛け、水が欲しい旨を伝える。とても喉が渇いているのだと、同情を煽るように言えば、従僕に頼んで来ると言って、水差しを受け取った。

「リーミン。お前は部屋に戻りなさい。水はすぐに持ってくるから」

 こくこくと頷き、ユンジェは部屋へ戻る。その際、兵がついて来たが、おとなしく部屋に戻った姿を見送ると、静かに扉を閉めてしまう。

 足音が遠ざかったと同時に、先ほどの花瓶を引っ張り出した。
 そして衣装に包んだまま、力の限り床に叩きつける。衣装の中で形が崩れると、布に包まれた懐剣で、何度もそれを殴った。時折、扉の方を見つめ、音を聞かれていないか確かめておく。

「お水を持ってきましたよ。リーミン」

 割れ崩れた物を衣装箪笥に隠したユンジェは、部屋を訪れる従僕に駆け寄り、水差しを受け取った。
 後ろには先ほどの見張り兵が立っている。己の様子でも見に来たのだろうか。

 しかし。それにしては、向こうの回廊が騒がしい。

 見張り兵達が下の階へおりている。何か遭ったのか、ユンジェが聞くと、「なんでもありません」と、従僕が簡単に答える。


「貴方はお休みなさい。明日は出発が早い。このままだと支障が出てしまいます」


 すると。見張り兵が男に頼みごとをする。

    


「リーミンが寝付くまで、傍にいてやってくれ。念のため、もう数人、声を掛けてくる。この騒動だ。人の目は多い方が良い」


 人の目が多い方が良い。

 やはり何か遭ったのだろう。ユンジェは気になって仕方がない。もし、その騒動にまぎれることができるのならば、利用しない手はないだろう。

 とはいえ、これは芳しくない展開だ。
 従僕が部屋にいては身動きが取れなくなってしまうではないか。せっかくひとりになれたのに。追い出す手を考えないと。

「さあ、リーミン。お部屋に戻りましょう。まずはお召し物を替えましょうね」

 ユンジェは冷汗を流す。寝衣はすでに見るも無残な姿になっている、なんて口が裂けても言えない。

 その時であった。

 従僕らを呼ぶため、踵返した見張り兵がうめき声を上げて倒れてしまう。
 何事か。ユンジェと従僕が振り返った瞬間、扉の手前にいた従僕が息を詰め、その場に崩れる。血の水たまりが目についた。彼らが襲われたのは明白であった。

 恐ろしさに足を竦めていると、向こうにいた人間に首を掴まれる。強引に部屋に連れ込まれるや、背後から刃物を当てられた。確認も暴れる間もなかった。

(な、なんだよ。いきなり)

 身を震わせるユンジェに、「おとなしくしろ」と、低い声で脅される。
    
「ここに、てめーくらいのガキがいるはずだ。どこにいる。懐剣って呼ばれているガキだ。下手なことすると、命はないと思え」

 聞き覚えのある不機嫌な声に、ユンジェは目を見開く。もしかして。

「ハオ? その声はハオなの?」

 希望を胸に抱えて、その人間に尋ねると、「は?」と、間の抜けた声が聞こえた。
 やっぱりそうだ。絶対にそうだ。ユンジェは緩んだ腕を押し上げ、振り返って満面の笑みを浮かべる。

 そこには、呆けた顔で己を見つめてくる、謀反兵のハオが立っていた。

「ハオじゃんか! 来てくれたんだな!」

 大喜びするユンジェを、ただただ見つめ、彼が指さした。

「お前……まさか、クソガキ?」

「どうしたんだよ。寝ぼけてるのか? ハオを(すき)で殴り飛ばした、農民のクソガキだよ」

 やっと信じたのだろう。ハオは素っ頓狂な声を上げ、ユンジェに「お前。誰だよ!」と言って、まじまじと凝視してくる。

「まるで別人じゃねーか。てめ、少し見ない間に何があった。は? 化けてるわけじゃねーんだよな? なんだ、その小綺麗な姿。貴族か!」

「贅沢の力ってすごいよな。俺も鏡を見ると、他人に思えて気持ちが悪くなるよ。でも、中身はちゃんとしたクソガキだから。リーミンだから」

「リーミン?」

「なんだよ。クソガキの名前も忘れちまったのか」

 呆れるユンジェに、「いやお前」と、ハオが戸惑った様子を見せる。どうしたのだろうか。ユンジェは首を傾げた。

「取りあえずハオ。懐剣の紐を切ってくれ。セイウがティエンの懐剣を使えなくしているんだ」

「あ、ああ。待ってろ」

 双剣のひとつで懐剣の紐を切ってくれたおかげで、ユンジェはティエンの懐剣をふたたび鞘から抜くことが叶った。
 やはり懐剣といえば、セイウの懐剣より、ティエンの懐剣だと心の底から思う。

「下が騒がしいようだけど、この騒動はハオ達が? ティエンもいるの?」

 帯に懐剣をたばさみ直すと、扉の向こうを警戒しているハオに視線を投げた。

「いや、今回はおとなしくしてもらっている。あー……おとなしくしてもらってるかな」

「目が泳いでいるけど」

 ハオが目を逸らし、咳払いをした。

「とにかく、これはカグム率いる謀反兵の暴動だ」

「どういうこと?」

「説明している暇はねえ。カグム達がオトリになっている今のうちに、客亭を離れるぞ。ちっ、それにしてもなんて兵の数だ」

 回廊から無数の足音。
 途絶えることのない足音に、ハオが舌打ちをしている。
 音で判断する限り、兵は未だ上の階にもいる様子。彼は見つからないよう、回廊を駆け抜けたいようだ。

 そこでユンジェは自分に考えがあると言って、衣装箪笥へと走った。
    

 衣装に包んだ道具を、腹に巻きつけると、お手製の縄を取り出す。それを柱に括りつけ、しかと固結びをすると、半開きの窓に放ってハオに声を掛けた。

「ハオ。合図で衣装箪笥に飛び込めよ。隠れるぞ」

「おいおい。それを使って下におりるんじゃねーのかよ」

「下で兵が動き回っているのに、悠長に縄でおりれるか。下手すりゃ見つかるぜ。よし、いくぞ」

 部屋を飾る壷を掴むと、ユンジェはそれを半開きの窓目掛けて投げつけた。脆い擦り硝子が張られた窓は、甲高い音を立てて割れる。
 それを合図にユンジェは、ハオと大きな衣装箪笥へ飛び込み、じっと息を潜めた。

 音を聞きつけたのだろう。
 耳をすませると、扉の開閉音や兵の騒ぐ声、侵入者だの、リーミンがいないだの、窓から連れて行かれただの、たくさんの会話が聞こえてくる。

 それらが消えると、ユンジェとハオは衣装箪笥を開け、慎重に部屋から出た。閑散とした回廊を見る限り、兵達の殆どは下の階におりたようだ。侍女や従僕すら見当たらない。
 見掛けても、一人ふたりならば、ハオが伸してくれるので問題は無かった。

(股の裂けていない衣は走りにくいな)

 ユンジェは回廊の窓を一々覗き込み、行き交う兵の数を確認する。内、ひとつに椿の木を見つけたので、二人は窓枠を飛び越え、太い枝に乗った。

 地上を見下ろせば、松明を持った兵が三人、うろついている。

「三人か。やれねーことはねえが、賭けになりそうだな。不意を突ければ良いんだが」

「隙を作ればいいの? 俺、すごく得意だよ」

 いたずら気に笑うと、衣装で包んでいる物を取り出す。それは先ほど砕いた花瓶であった。

「それ……まさか」

 顔を引き攣らせるハオを余所に、ユンジェは兵達が固まった頃合いを見計らい、軽く指笛を吹いて、兵達の注意を木の上に向けさせた。

 一斉に視線が持ちあがった瞬間、ユンジェは結び目を解いて、砕いた花瓶を兵達目掛けて振り撒いた。驚きの声は、木から飛び下りたハオの手によって揉み消される。

 双剣で切られた兵達が動かなくなったのを確認し、ユンジェも枝から枝へと伝い、木から飛び下りて、彼と茂みの中に隠れた。

「相変わらず、卑怯な手を使うよなお前。敵なら真っ先に斬りつけたくなるぜ。って、何してやがる」

 ユンジェは失った花瓶の破片の代わりに、砂をかき集め、衣装の切れ端で包んだ。

「新しい目つぶしを作ってんの。花瓶で代用してみたけど、あれは使い勝手が悪いな。やっぱり細かい奴じゃなきゃ。んー、けど砂だけってのも心もとないな。効けばいいけど」

「次から次に……怖ぇガキだな、おい」

 遠い目を作るハオを余所に、ユンジェは腹に巻きつけている衣装から手鏡を取る。それを茂みの外に出して、前後左右を確認した。

 右の暗い闇夜に、松明がひとつ、ふたつ。こちらに兵が近寄ってきそうなので、手鏡を銜え、今しがた詰め込んだ砂の包みの口をしかと捩じり、強度を高めて、向かい側の部屋の窓へ投げた。

 硝子の割れる音により、兵達が移動する。
 よしよし、上手くいった。砂もまとめてしまえば、立派な鈍器になる。硝子を割ることなど容易い。

「今のうちに移動しよう。ハオ、どこに行けば……どうしたんだよ」

 額に手を当てているハオに、頭でも痛いのか、と尋ねると、彼は小さく嘆いた。

「ほんとに怖ぇんだけど。よくもまあ、そんなに悪知恵が出るもんだ。ティエンさまの性格が強くなるのも分かる気がする……できることなら二度と敵にしたくねえ、このクソガキ」

「俺はリーミンだってば。いい加減、名前で呼んでくれよ」

 味方で良かったと唸るハオに、今はそんなことを言っている場合ではないと呆れ、ユンジェは彼に早く移動しようと促した。

「懐剣がいないことを知ったらセイウが動く。俺、あいつには逆らえないんだ」

 客亭から騒々しい声が聞こえる。
 どれもこれも、リーミンを探すもの。あれほどの騒ぎなのだからセイウも、騒動を耳に挟んでいるはずだ。
    

 ああ、探す誰も彼もがリーミンと呼ぶ。呼び続ける。うるさいったらありゃしない。

「馬鹿だろう。てめぇ」

 前触れもなく、ハオに罵られた。
 どうして馬鹿呼ばわりされなければいけないのだ。ユンジェが頬を脹らませると、彼は軽く舌を鳴らし、外衣を靡かせて茂みを飛び出した。


「来い、ユンジェ」


 初めて名前を呼ばれた。
 ユンジェは驚き、目を見開いてしまうが、すぐ頬を緩めた。なぜだろう。認められた気分だ。とても嬉しい。

 前を走るハオの背を見つめ、人知れず笑みを零していると、横目で見る彼がまた一つ舌を鳴らして、盛大に悪態をつく。

「くそっ。やっぱ、てめえなんざ、ただのクソガキだ。こんなことで喜んでるんじゃねーぞ。こんなクダラナイことで。気付いてねーのかよ。ばかがっ」

 前方に兵が現れると、双剣を抜いたハオが邪魔だと言って斬り捨てる。
 真っ向突破を得意としているようで数人に囲まれても、間合いを取り、ユンジェを背に隠して右の剣を逆手に、左の剣を順手に持って、流れるように兵の剣を弾いて斬り崩す。

 すごい。ユンジェは目を瞠った。
 彼はこんなにも強かったのか。いつも、不意打ちでしか勝負をしたことがなく、何かと打ち負かしていたせいか、勝手に彼を弱いと決め込んでいた。

 けれど、本当のハオは真っ向勝負に強い人間なのだ。不意打ちや卑怯が不手なだけで、そんじょそこらの人間よりも腕が立つ男なのだろう。

 ユンジェの背後に兵が回り、刃を振り下ろす。誰かが怒鳴る。やめろ、それはリーミンだと。

(避けないと)

 しかし、不慣れな絹衣は大変動きにくい。避けられない。

「はっ、勘弁しろよ。そのガキが怪我したらな」

 ハオに突き飛ばされた。顔を上げれば、己を庇い、双剣で受け止める彼の姿。

「また俺が面倒看ねーといけねぇだろうがっ!」

 兵の剣を押し上げ、二本の剣で人ごと闇を裂く。返り血を浴び、なおも彼はひた走る。後ろに結っている短い三つ編みを靡かせて。


「ユンジェっ、こっちだ!」


 ハオはユンジェを裏の外壁まで誘導した。

 垂れさがっている藁縄は、あらかじめ用意されていたものだろう。木に巻きついている藁縄を伝いのぼり、それを切り落として、二人は客亭から離れる。月明かりを頼りに、きらびやかな都を駆け抜けていく。

 逃げる足はやがて曲線を描いた、橋脚(きょうきゃく)連なる木造りの橋の下で止まった。

 そこは都の内に流れる川に架かった橋で人の目が多い。川も賑やかだ。荷を運ぶ小船が提灯をぶら下げながら、川面を切るように進んでいる。

 しかし、ハオは敢えて橋の下に身を隠した。

 盲点を突こうという魂胆だろう。
 確かに夜の橋の下は暗く、夜目も利きにくい。目の前に川が流れているので、見張る方向も左右と少なく、息を整えるには持って来いの場所だ。
 一方で挟み撃ちにされる危険性もあるが、その時はその時だ。ユンジェは橋の陰に隠れ、ハオとひと息つく。

「ここでカグム達と落ち合う約束になってる。あいつら、無事に撒けるといいんだが」

 できる限り、身を屈めて陰と一体になるハオを真似て、ユンジェもその場に座った。

「さっきの話だけど。謀反兵の暴動って?」

「てめえを取り戻すために、カグムが考えた策だ」

 表向き、いまの王政に不満を持った兵が王族を襲い、それが暴動を起こしている内に、ユンジェを奪い返す作戦だそうだ。
 ホウレイの放った間諜は国のあちらこちらに存在している。カグムはこの都に潜んでいる間諜の手を借りて、この暴動を決行したという。

(カグムも言っていたっけ。陶ノ都にも間諜がいるって)

 ユンジェはひとつ相づちを打った。 

「ティエンは無事? あいつ、セイウに命を狙われているけど」

「無事どころか、大暴れだ。てめえがセイウさまに連れて行かれた後の、ティエンさまは本当に大変だったんだぞ。カグムの野郎と、一悶着起こす騒動にまで発展したんだからな」

 疲れ切った声を出すハオは、遠い目を作って、「なんで捕まるんだよ」と責めてきた。

 それに関しては、ユンジェのせいではない。
 寧ろ、自分は都に行きたくないと主張した人間なので、責められるのは筋違いというものだ。

 げんなりと肩を落とすハオは、当時のことをぽつぽつと語る。

「都の間諜は俺達に、快く手を貸してくれた。間諜の最大の目的は第三王子ピンインさまを、ホウレイさまの下へ連れて行くことだから、遂行の手伝いも辞さない」

 そこまでは良い。
 問題はカグムの案に、ティエンが自分も行くと名乗り出たことだ。

 これは大問題であった。
 カグムはあくまで、起こす暴動を【謀反兵の不満】によるものと仕立てあげたかった。都に潜伏している第三王子ピンインとはべつに、騒動を起こしたかったのである。

    


 もし、第三王子ピンインが動いてしまえば、明確に【懐剣の奪還】だとばれてしまう。
 そうすれば、セイウの兵達は懐剣のユンジェの警備をがちがちに固めてしまう。ゆえにティエンには大人しくしてもらいたかった。

 なにより、ティエンの身に災いが降りかかるのだけは避けたい。これがカグム達の意見であった。

 けれども、ティエンも負けじと主張するのだ。
 たかが謀反兵数人の暴動で、兵達の注目を一斉に此方へ向けることなどできない。少々の兵を寄越して、後は守備に回るはず。それでは暴動の意味が無い。

 だったら第三王子ピンインをオトリにし、より多くの兵を動かした方が良い。上手くいけば、兄も引きずり出せるやもしれない。あれは己の命が欲しい者なのだから。

「カグムとティエンさまの口論が勃発したのは、時間の問題だった。凄まじかった。誰も止められなかった。恐ろしくて口も挟めねーんだよ」

 ユンジェは冷汗を流した。よりにもよって、カグムとティエンがぶつかったのか。

 結局、ティエンが折れなかったので、カグムは仲間内に取り押さえさせ、半ば強制的に決行したのだという。
 今頃、彼は間諜の隠れ家に軟禁状態だろうとのこと。
 ユンジェとハオは顔を見合わせ、地面に目線を落とす。しばし沈黙が流れた。

「助けてくれて、ありがとうな」

 ユンジェは話を替える。
 ティエンのことは再会した時に、うんと悩もう。心配を掛けたことも謝らなければ。連行されたことは不可抗力であるものの、彼に多大な心労を掛けたこともまた事実。詫びは必要だろう。

 同じようにハオ達には感謝を述べなければ。

「てめえが懐剣じゃなきゃ、普通に見捨ててたよ。俺はガキなんざ大嫌いなんだ」

 ぶっきら棒に言い放つハオが、しっしっと疎ましそうに手で払ってくる。礼は不要らしい。

 けれど、ユンジェは彼等に助けられている。それは今回だけに限った話じゃない。先ほど庇われたこともあるので、やっぱり、ありがとうは言っておくべきだろう。

「ハオって意外と強いんだな。見直したよ。俺、お前のこと弱いと思ってたから」

 小生意気に笑ってやると、「ブッ飛ばすぞ」と、耳を引っ張られた。痛い。

「弱く見えるのは、てめえが卑怯な手ばっか使うせいだろうが」

 しょうがないではないか。
 卑怯な手を使わないと、ユンジェに勝ち目などないのだから。
 解放された耳をさすっていたユンジェだが、差し込んだ月明かりで、ハオが傷を負っていることに気付く。双剣を持っていた両手の甲が切れていたのである。

 視線を感じ取ったハオが、さっさと外衣の中に両手を隠してしまう。

「それ、俺を庇った時に?」

「あんだけ兵を相手にしてたんだ。いつ負ったかなんて忘れた」

 うそだ。ユンジェは彼の強さを目にしている。きっと、己を庇った時に切ったのだろう。

「ごめん」

 重くなる空気に耐えられなくなったのか、かすり傷だとハオが怒鳴ってくる。そんなことで一々落ち込むなと叱咤するが、罪悪感はこみ上げるばかりだ。

 ふとユンジェは思い出したように、腹に巻いていた衣装を解くと、道具の中からハチミツの入った小壷を手に取った。

「ハオ。ハチミツがあるぜ。確かこれって、塗り薬の代わりになるんだよな?」

「てめ……なんで、そんな高価なもん持ってやがるんだ」

「部屋にあったんだ。お茶っ葉や筆、櫛、紅なんかもあるよ。燐寸(マッチ)も持ってきた。使えそうなもんは、片っ端から持っていこうと思って。ほら、手を出してよ」

 あからさまに嫌な顔をして、ユンジェの厚意を拒絶するハオだが、こちらも譲る気はない。無理やり手を引っ張り出すと、傷に薄くハチミツを垂らした。
 本当は水で傷を洗った方が良いのだろうが、川の水が澄んでいるかどうか、些か不安であるため、洗うことは断念した。
    

 衣装の切れ端を裂いて、手早く傷を巻く。その手際の良さにハオが、ふうんと鼻を鳴らした。

「早いし上手いな。どこかで習ったのか?」

(じじ)に習った。俺達、農民は滅多なことじゃ医者に掛からないんだ。傷より病より、明日の食い物だったからさ」

 これでいい。

 ユンジェは両手の甲を見つめ、壷の蓋を閉めた。余計なお節介だと悪態をつく彼は、礼なんて言わないからな、と突き返した。べつに要らなかった。ユンジェはしたいことをしたまでだ。

 道具の中にかりんとうを包んだ布が目に入ったので、ユンジェはカグム達を待つ間、これでも食べようと誘う。能天気だと心底呆れられたが、食べることは体力を回復させる基本だろうと言って、包みを開いた。

(本当はティエンと一緒に食べるつもりだったけど、あいつにはお茶っ葉を渡そう)

 全部で十三本入っている。ユンジェはこれを半分にするため、指を折って計算した。

(十三の半分は……あれ、三って半分にできたっけなぁ)

 十より上の計算は、まだまだ苦手だ。
 うんぬん悩んでいると、包みを取り上げられる。
 ユンジェの意図を読んだらしく、己の分を抜き取って、包みを投げ返された。確認すると八本残っている。

「それで半分だ。さっさと食え」

 向こうを睨んでかりんとうを口に入れているハオを、きょとんと見つめるユンジェだったが、受け取ってくれたことに、つい噴き出してしまう。

「お前って案外付き合い良いよな。馬鹿なところも多いけど」

「だあれが馬鹿だ。俺に扱かれたいなら、素直にそう言え。喜んで脳天に拳を入れてやる」

 ぎろっと睨んでくる彼に、ユンジェはへらへらっと笑う。

「なんだよ。俺は褒めてるんだぜ? 後先考えない馬鹿だけど、ちゃんと優しいところもあるし、強いところもあるし、付き合いも良いんだなって。これで、もう少しよく考える奴だったら、文句の付けどころもないぜ? 可愛いお嫁さんだって貰え、あだだだっ」

「クソガキ。それ以上、舐めた口を叩くと押し潰す」

 褒めているのに。
 頭を押さえつけられたユンジェは、ハオに短気な男は嫌われると指摘してやる。もっと体重を掛けられた。そういうところが、短気なのだ。絶対に損していると思う。

「はあ。さっさとホウレイさまの下に連れて行って、お役から解放されたい。なんで、ガキの相手なんざ」

 ぶつくさ文句垂れているハオは、どうやら子どもの相手が大の苦手らしい。ユンジェは言うほど子どもではないのだが、敢えて反論はするまい。

「ハオはどうして、謀反兵になってるんだ?」

「あ?」
    
「だって、謀反は悪いことなんだろう? 俺、国ってよく分からないけど、ハオやカグムが国に逆らっていることは分かるよ。それはどうして? 危ないじゃん」

 国なんかに逆らわず、看護兵とやらを続けていれば良かったのに。そうすれば、クソガキの世話もせずに済んだのに。彼の腕なら医者だって夢ではなかったのでは?

 ユンジェは素朴な疑問を彼にぶつける。
 どうして間諜に、謀反兵に成り下がっているのだと。なぜ、命を張ってまで、国に逆らい続けようしているのだと。

 彼は何も答えない。答えたくないのなら、無理に聞き出すつもりもないので、ユンジェは深く追究をしなかった。

「俺は看護兵に向いてなかったんだよ」

 しばらくして、返事が来た。

 ハオは不機嫌な面のまま言う。
 縁あって看護兵になった自分だが、傷を癒す兵には向いてなかった、と。
 手当てをすると、どうしても情が移ってしまい、患者を戦に送り出したくなくなる。せっかく救ったのだから、生きて欲しいと切に願ってしまう。

 戦に放られた看護兵は、それではいけないというのに。
 この気持ちは常に諫められる。恥ずかしいと思わなければならない。死を前にしても冷静にならなければいけない。

 けれど、ハオは捨てきれなかった。

「あんまりにも向いてねーから玄州の歩兵になったんだが……どうしても、国に思うことがあってな。ホウレイさまについたんだよ。クンル王より、賛同できる点も多いからな」

 それはハオにとって安全な医者の道より、行きたい道だったのだろう。

 命を張って国に逆らう彼の気持ちなど、農民のユンジェには一匙も分からないが、謀反兵として奔走している目的の中に、国を変えたい気持ちがあることは察することができた。

 彼は良き王と国を欲し、それを得るために命を懸けているのだ。国に逆らうことが悪だと知っていても、ハオはカグム達と走るのだろう。

 ユンジェの脳裏に『黎明皇』の三文字が過ぎる。ああ、セイウの言葉が本当ならば、自分はいつか次なる王を――。

「生きて欲しいと願うことは、べつに恥ずかしいことじゃないと思う」

 ハオの語りを静聴していたユンジェは両膝を抱え、彼に向かって微笑む。

「俺もティエンを助けたから、誰よりも生きて欲しいと願ってるよ。それを恥ずかしいと思ったことはない。その気持ちは捨てなくていいと思う」

 ユンジェには看護兵がどういうものか、まったく分からない。
 けれど生きて欲しいと願ってしまうほど、彼が優しい人間であることは分かった。情が移ってしまうということは、それだけ感情移入しているということなのだろう。
    
「傷を癒して、誰かを救える腕を持つハオは、もっと誇って良いと思うよ。懐剣は人を傷付けることしかできないから」

 そう、傷付けることしかできないのだ。
 所有者を守るために、懐剣は刃を向け続ける。それだけのことしかできない。ユンジェは折れるまで、人を殺すことしかできない。
 しかし。それが役目ならば仕方がないと考えている。今のユンジェは、そういう存在だ。

「懐剣のリーミンは、人を傷付けることしかできない。けど守るお役を受け持っているんだから、変な話だよな」

 冷たい夜風が吹き、ぶるりと背筋を震わせる。やけに肌寒い。慣れない絹衣を着ているせいだろう。これは薄くて軽いから、夜風をよく通す。
 軽く二の腕を擦って暖を取っていると、隣にいるハオと距離が近くなった。向こうを睨んでいる彼は、ユンジェの衣に悪口(あっこう)をつく。

「目立つんだよそれ。隠せ」

 なんぞと言って外衣に入れてくるので、にやにやっと意地の悪い笑みを浮かべてしまう。

「ハオ、すごく優しいんだな。口は乱暴なのに、態度はすごく、すごく、やさしい」

「川底に沈めるぞ。クソガキのユンジェ」

 調子に乗ってからかうと、こめかみに青筋を立てるハオが拳骨を落としてきた。痛いと悲鳴を噛み殺す隣で、彼はぽつりと呟き、自嘲する。


「ほんと向いてねぇな。ばかみてぇに情が移っちまう。こんなクソガキでもさ」



 ◆◆


 都を照らす提灯の光が消え、人間達が寝静まった頃、カグム達が橋の下に顔を出した。

 無事に王兵を撒いたようで、彼らの後ろに追っ手は見えない。
 どうやら客亭を襲った後、都の外れへ逃げ延び、そこで馬を乗り捨て、どこへ行ったのか分からないようにかく乱させたようだ。

 ユンジェが手を振ると、その姿を見たカグムが呆けた顔を作り、ハオに言った。

「ハオ、お前……べつのガキを連れて来てどうするんだ」

「そうだよな。カグム、お前もそう思うよな。俺の反応は間違ってなかったわけだ」

 よほど、普段のユンジェは汚かったらしい。
 カグムは小綺麗になったユンジェにあっ気取られ、「貴族かと思った」と零した。ハオとまったく同じ感想を述べてくれた。

 カグム達と共に、間諜の隠れ家に向かう。
 そこは都のど真ん中にあり、表向きは焼き物に絵を描くための塗料を売る、塗り色屋であった店の物置には地下があり、間諜の集会場となっている。

 ティエンはその店の地下に待機を強いられていた。

 ユンジェが階段を下りると、四隅の腰掛で腕を組み、美しいかんばせに怒気を纏せ、間諜達を縮み込ませていた。王族の怒りにみな、恐れていた。


「ティエン!」


 ユンジェが呼ぶと、顔を上げた彼が腰掛を倒し、なりふり構わず駆け寄って来る。小綺麗になっても、一目でユンジェだと分かったようだ。

「良かった。ユンジェ、本当に良かった。無事だったんだな」

 痛いほど抱擁してくる彼に、苦しいと笑い、軽く背中を叩く。

「お前も無事で良かったよ。セイウが血眼になって、ティエンを探しているみたいだったから、すごく心配していたんだ」

「私よりユンジェだ。セイウ兄上に何もされなかったか? あれは、本当に食えない男だ。お前にひどいことをしたんじゃ」

 まるで人の話を聞いてない。
 ティエンはユンジェに、大丈夫だったか、何も無かった、ひどいことはされなかったか、と繰り返し尋ねてくる。

 ユンジェは何も無かったと返事する。
 主従の儀については伏せておくつもりだった。話したところで、彼を悲しませるだけだし、ユンジェ自身、今のところなんともない。服従のことも、血の杯も、その時だけの苦しみだった。耐え切ったと思っている。

 黎明皇やまこと懐剣の役目だけ、落ち着いた時に話すつもりだった。


「お前の兄さん。ちっとも、ティエンと似てなかったよ。顔は綺麗だったけど、性格はすごく悪かった。本当に血が繋がっているか疑っちまったよ」

    
 ティエンの方が、顔も性格も優っていると褒めちぎってやる。力だけは向こうが強いかも、と冗談を添えて。

 大丈夫だったと振る舞うユンジェに、ティエンがようやく信用を見せ、安堵の表情を見せた時だった。見守っていたハオが口を挟んでくる。

「クソガキ。お前、本当は何か遭ったろう?」

 何を言っているのだ、この男。
 ユンジェは腕を組み、何もなかったと突き返す。
 あっても、王族の不慣れな風習に翻弄された程度だ。変なことを言わないで欲しい。せっかく、ティエンが信用してくれようとしているのに。

 頑なになるユンジェに吐息をつくと、ハオは妙な質問をした。

「自分の名前を言ってみろ」

 訝しげな顔を作ると、早く言えと急かされる。仕方なしにユンジェは答えた。

「リーミン。俺はリーミンだよ」

 慣れ親しんだ名を口にするとハオの目を細くなり、ティエンの顔色が変わった。見守るカグムですら眉を寄せるので、ユンジェは首を傾げる。

 もう一度言えと言われたので、しかと返してやる。自分の名前はリーミンだと。

「ゆ、ユンジェ。ああ、ユンジェ。セイウ兄上に何をされたんだ」

 見る見る絶望に染まっていくティエンが、震える手で両頬を包んでくる。
 どうして彼がそんな顔をするのかが、ユンジェには少しも分からない。なんでティエンは泣きそうなのだ。

 困惑していると、ハオが背を向け、軽く舌打ちをして指摘した。

「くそっ、いい加減気付けよ。てめえ、俺と会った時から『リーミン』って名乗っているんだよ。お前は『ユンジェ』だろうが」

 理解するのに数秒時間を要した。

 やがて、ユンジェは恐怖のどん底に突き落とされてしまう。

 うそだ。いつの間に自分は『リーミン』だと口走っていた? 周りはみな、己を『ユンジェ』と呼んでいた。ユンジェはそれが自分の名前だと分かっていたので、声を掛けられる度に答えていた。

 なのに。ユンジェ自身は、己を『リーミン』だと名乗っていた、なんて。

(まさか。主従の儀のせいか)

 あれのせいで、自分は本当にセイウの隷属に。
 ならば、今のセイウとユンジェは、まこと主従関係であり、所有者と懐剣の関係が成立しているのか。

「セイウに名前をっ、奪われ始めている。そんな、そんなのって」

 目眩を起こしそうになったユンジェだが、どうにか足を踏み留めると、心配するティエンの体を押しのけ、彼の懐剣を抜く。

 そして柱目掛け、力の限りそれを投げ刺した。セイウの高笑う残像が、確かに見えた。

「リーミンなんて冗談じゃねえぞ、セイウ。俺はティエンの懐剣だ。懐剣のユンジェだっ!」