夕餉を終えたユンジェは、割り当てられた部屋の寝台で、まだ頭を抱えていた。

 周りの従僕や侍女が声を掛け、口直しのお茶や点心を用意してくれても、首を横に振るだけ。その代わり、水が欲しいと頼み込み、それを何度も胃袋に流し込んだ。

 ユンジェの様子を見たチャオヤンは、従僕らに今日はもう下がって良いと伝え、頭を抱える自分にもう休むよう伝える。

「召し物は自分で替えられるか? 無理なら従僕に声を掛けても良い」

「変なんだ。音が頭の中でずっと。ずっと。がんがんと、ずっと、ずっ……と……」

 うわ言を呟くユンジェに、チャオヤンは哀れみの目を向け、「そうか」と返事すると、軽く頭を撫でて立ち去る。
 遠ざかる足音。見張り兵に指示する声。そして、消えゆく音――ユンジェはパッと顔を上げ、忍び足で扉に耳を当てた。

 よしよし。従僕も侍女も、近くにいないようだ。


(やっと、ひとりになれた。死ぬかと思った)


 ユンジェは大きく伸びをすると、凝った肩を揉みほぐす。じつは、随分前から正気に戻っている。頭の中で音が鳴っていたのも、ほんの少しの間であった。

(まっ。あれだけ、おかしな態度を取れば、ひとりにするよな。誰も関わりたくないだろうし。いやぁ、良かった。セイウの部屋に連れて行かれなくて。さすがにあいつの前だと、成す術がないからな)

 とはいえ、まだ気分が悪い。ユンジェは舌を出し、血の混ざった酒の味を思い出しては顰め面を作る。

(くそっ、気色の悪い酒を飲ませやがって。吐けるもんなら吐きたい)

 水を何度も飲んだのは、少しでも酒を薄めようとしたからだ。さすがに、これ以上飲むと水腹になるので、水は控えておくが。

「さあて、と」

 ユンジェは上唇を舐めて、割り当てられた部屋を見渡す。

 頭陀袋も着ていた衣も取り上げられてしまったので、今の手持ちは縄で何重にも縛られたティエンの懐剣と、同じくティエンから預かっている麒麟の首飾りのみ。お馴染の布縄も紐も目つぶしも手元にない。

 しかし、贅沢な部屋には物が溢れている。

 ユンジェは口角を持ち上げ、さっそく側らにあった衣装箪笥を開ける。
 思わず口笛を吹いてしまった。大人二人分は入れそうな大きな衣装箪笥には、綺麗な衣が隙間なく詰められている。これだけあれば、布縄や布紐もこしらえることができそうだ。

 お次に飾りの花瓶を手に取る。陶器で出来ているそれを見つめ、軽く指で叩いた。床に落とせば、簡単に割れてくれそうだ。

「あ。これは確か燐寸(マッチ)って奴だ。ライソウが使っているの見たことあるぞ」

 据え置き提灯の隣に放置されている、燐寸(マッチ)の箱を手に取る。有り難く頂戴しよう。

 鏡台からは櫛と紅、手鏡。寝台の隣にある台からは筆に、お茶っ葉。ハチミツの入った小壷。かりんとう。あまり役立ちそうにないものも、寝台の上に置いて準備をしていく。

(高い。飛び降りることは無理だな。兵もいるし)

 擦り硝子の窓を開き、ユンジェは眉を顰めた。また硝子を触り、初めて触れる素材だと、それをよく観察する。陶器よりも脆そうだ。

 衣装らを歯で裂き、捩じって結んでいく。
 ひも状に繋げると、結び目に水差しを傾けて強度を強める。絹は水を掛けると縮むので、なるべく絹が結び目にならないようにしておく。
 ちなみにこれは衣を着せてもらった時に侍女が教えてくれた。絹は水に弱いから、お茶を零さないように、と注意を受けていたのである。

 水が無くなると、ユンジェはそれを衣装箪笥へ隠した。寝台の上に広げていた物も四面に破いた衣装の上に置き、小分けにすると丁寧に畳んで、同じ場所に隠す。

(あとは)

 花瓶を裂いた衣装で包み、寝台の下へ置く。

 少しだけ衣を乱すと、空っぽの水差しを持って、のろのろと部屋を出た。それを持ってうろついていると、間もなく見張り兵に見つかった。

 ユンジェは自分から兵に声を掛け、水が欲しい旨を伝える。とても喉が渇いているのだと、同情を煽るように言えば、従僕に頼んで来ると言って、水差しを受け取った。

「リーミン。お前は部屋に戻りなさい。水はすぐに持ってくるから」

 こくこくと頷き、ユンジェは部屋へ戻る。その際、兵がついて来たが、おとなしく部屋に戻った姿を見送ると、静かに扉を閉めてしまう。

 足音が遠ざかったと同時に、先ほどの花瓶を引っ張り出した。
 そして衣装に包んだまま、力の限り床に叩きつける。衣装の中で形が崩れると、布に包まれた懐剣で、何度もそれを殴った。時折、扉の方を見つめ、音を聞かれていないか確かめておく。

「お水を持ってきましたよ。リーミン」

 割れ崩れた物を衣装箪笥に隠したユンジェは、部屋を訪れる従僕に駆け寄り、水差しを受け取った。
 後ろには先ほどの見張り兵が立っている。己の様子でも見に来たのだろうか。

 しかし。それにしては、向こうの回廊が騒がしい。

 見張り兵達が下の階へおりている。何か遭ったのか、ユンジェが聞くと、「なんでもありません」と、従僕が簡単に答える。


「貴方はお休みなさい。明日は出発が早い。このままだと支障が出てしまいます」


 すると。見張り兵が男に頼みごとをする。