誰よりも先に走っていた、シュントウの馬から指笛が聞こえた。偵察の馬を発見したという合図だ。続けざま、音が三つ。偵察の数を表している。
(三頭。やれるな)
ティエンはハオに最後尾にいるよう声を張ると、頭からかぶっていた布を取りはらい、矢の鏃に付いた目つぶしに手を掛ける。
そして覆っている葉を引き千切ると、カグムに命じた。
「先頭へ行け。先陣は私達が切る」
「本当に勇猛な男になりましたね。昔は人の顔色を窺ってばかりだったというのに」
「生憎、一年以上前の記憶はない。無駄口を叩いていると、馬から蹴り落とすぞ」
男の背中を鋭く睨むと、彼は振り返り、含み笑いを浮かべた。
「つれないですね。誰よりも護衛していたのは俺なのに」
「逆心した近衛兵が何をほざく」
「ははっ。憶えているじゃないですか。一年以上前のこと」
「せいぜい今のうちに煽るだけ煽れ、後で貴様の背中に隙間なく矢を飾ってやる」
ティエンは分かっていた。カグムがわざと己を煽り、怒りを誘おうとしていることを。
いつも、それで感情的になってしまうが、今回ばかりはその手には乗ってやるものか。今、大切なことはこの場面をどう切り抜けるかだ。
カグムも煽ることをやめたのだろう。やれやれ、と肩を竦めてくる。
「まったく。貴方様にはおとなしくして欲しいんですけどね。危険ですよ、先陣なんて」
「あの子はいつも、私のために命を懸けている。なのに、私が危険を恐れるなど、まるで筋が通らない」
「念を押しますが、ガキはピンインさまの懐剣です。お忘れなく」
みなまで言わずとも分かっている。
「ハオ、ユンジェをしかと抱えておけ。飛び出させたら、貴様の喉を切り裂くからな」
「えっ、は、はいっ……仰せのままにっ」
ハオは射貫くような眼光に冷汗を流した。何度も頷き、死ぬ気で腕に抱いておくと態度で示す。
それを確認すると、「走れ!」と、ティエンの号令の下、カグムの馬が速度を上げる。先頭を走っていたシュントウと入れ替わり、彼は向こうに見える、微かな列に目を眇め、大きく旋回した。
「王子、振り落とされないで下さいよ」
馬の腹を蹴ると、それはたてがみを靡かせ、距離を置いて偵察の列に並んだ。
厚い鎧に覆われた兵の姿はまぎれもなく、王族直属の兵。機会を見計らい、カグムの馬ははその列の真横を突いた。
何事だと驚き、こちらを向く兵の顔目掛けて矢を放つ。鏃に括りついた小袋が飛散し、偵察の一人が盛大に咽た。
目が開けられないどころか、それを吸ってしまったのだろう。顔を歪め、涙を流しながら、馬の足を止めている。
(さすがユンジェお手製の目つぶしだ。狙い通りだ)
更にカグムが、その手に握っていた目つぶしを、馬の顔に当てたので、獣は驚き、人間を振り落とす。
一瞬の隙を見逃すことのない彼は、太極刀を抜き、鎧の厚さが薄い首を狙って、それで斬りつけた。
「残りを逃がすな、挟め!」
手をあおいで指示するカグムの合図によって、二頭の馬が飛び出した。旋回する隙すら与えず、二本の柳葉刀が目つぶしの後に宙を裂く。
たとえ目つぶしを避けることができても、刀は避けられず、ひとりは地面に転がった。すべて避け切ったとしても、最後尾にいたハオが待ち構えている。
「こっちに来るんじゃねーよ。俺が王子にどやされるだろうが!」
馬に投げつけた目つぶしが、最後のひとりを振り落とす。
その拍子に冑(かぶと)が落ちたが、なおも、果敢に剣を抜き、ハオの馬へと向かう。その馬に怪我人が乗っていることを、瞬時に見抜いたようだ。
思うように動けないところを気付く辺り、兵はとても良い目と判断力を持っている。
されど。それを許すティエンではない。
「ユンジェに近付くな」
素早く矢筒から矢を抜くと、冷静に見極め、相手の頸椎目掛けて放つ。今度の鏃は鋭利ある鉄製。柔らかな肉など、簡単に射貫く。
「……ピンイン。お前」
さすがに人を討つと思わなかったのか、カグムが振り返って凝視してくる。付き合いの長い彼だからこそ、己の行為に驚くのかもしれない。
だが、ティエンは崩れる人間などに目もくれず、すぐに右の方角を見て、カグム達に走るよう命じた。偵察は四人いたようだ。
(誰ひとり、逃がすものか)
将軍カンエイの下へ引き返す馬は、森林の奥へと入って行く。藪や木々を利用し、天幕にいる仲間達へ知らせようという魂胆だろうが、そうはさせない。
「囲め! 前へ出ろ、カグム!」
一人の力など、所詮弱いもの。左右後ろの逃げ道を馬で塞いだ後、ティエンを乗せた馬は獲物の前につく。
四方が塞がったことにより、偵察の逃げ道は無くなった。ティエンは振り返り、弓を構える。恐怖と死を恐れた兵の視線とぶつかったが、矢を放つ手に情けなど無かった。
それは一直線上を描き、柔らかな喉に刺さる。悲鳴なき悲鳴を上げ、人間は転がり落ちた。馬が止まるとティエンは馬から降り、帯にたばさんでいた短剣を抜く。
そして、まだ息のある偵察を、躊躇いなく突き刺した。
ティエンができる、唯一の慈悲であった。もがき苦しんで死ぬより、はやく楽にしてやるべきだと、ティエンは考えた。
(偽善でしかないがな)
短剣の血を布で拭い、こと切れている人間を一瞥する。
とりわけ名も知らぬ兵に怨みなどない。