半透明のラブレター


「臭い……」
 自分の制服から放たれる香水の香りに思わず顔をゆがめた。エナメルバッグに制服を入れていても、匂いはどうやら移ってしまうようだ。もしかしたら、制服じゃなくて俺そのものに染みついてるのかもしれない。それくらいあの店に来る女の人の香水は強烈で、酔いそうになる。
 ようやく辿り着いたチャリ置き場では、自転車がごっちゃごちゃになぎ倒されていた。苛立ちながら、自分の自転車を起こそうとしたとき、ちょうど目の前を赤い服を着た女性が通った。俺は、ふと雪さんのことを思い出した。そういえばあれきり、店に来なくなってしまったのだ。ただ単に俺にキレただけならいいけれど、なぜか胸騒ぎがする。俺は妙な気持ちを抱えたまま学校へと向かった。
「日向。あんた、とりあえずやることないから。今頃来ても役割ないっつーか。今更何? みたいな」
「……じゃあ、帰ろうかな」
「嫌味っつーのが分からないのかっ」
 学校に着いた瞬間、俺は思い切り怒声を浴びせられた。手づくりの飾りで綺麗になった教室が、一瞬静まり返った。
「……とりあえず、後半から店番頼むから今は遊んできていいよ。もうあと三十分しかないけどね」
 追い出されるようにひらりと手を振られた俺は、急いで教室から出た。とにかく、早くこの人混みから抜け出したかった。なんだか酸素が薄く感じるし、何より感情の量が半端じゃない。頭痛がする。頭が割れそうだ。音楽を聴いてそっちに集中しようと思ったけれど、そんな対策じゃ効かない量の感情だった。
 頭痛に耐えながら、もがくように人込みをすり抜けて、やっと辿り着いた人けのない場所で、深く息を吐いた。雑音が一気に消えていく。なぜこんなにここだけ人がいないのかと疑問に思い、教室前にある看板を見たら、納得した。『中で実際に書いてます!』と書かれた紙が貼ってある。そう、書道部の作品展示場だったのだ。
 屋台やお化け屋敷よりは派手さに劣るその場所に足を進めて、俺はひっそりとその教室を覗いた。その瞬間、思わず息をのんだ。教室のど真ん中で一人、浴衣(ゆかた)を着て字を書く中野がいたのだ。すそをたくし上げて、アルトリコーダー並みの大きさの筆をすらすらと動かしている。真剣な表情で半紙と向き合う彼女の姿を見て、息が詰まった。きっと今、この人の心を読んだって、何も聞こえないだろう。目が離せない。字を書いているときの中野は、単純に綺麗だと思った。このままずっと見つめていたい。そう思うほどに。
「あれ、日向君!」
 ふっと中野が視線を上げた瞬間、ばちっと目が合ってしまった。
「あ、ごめん邪魔した?」
 俺はそのとき、初めて見とれていたことに気づき、なんだか気まずくなって視線を逸(そ)らした。
「ううん。全然っ」
中野がそう言った後、俺はゆっくりと教室の中へ足を踏み入れていた。壁中に貼り出されている作品の数々は、ずしんと重い字だったり、すらりと軽い字だったり、書き方は様々で想像以上に見ごたえがあった。俺が字に見入っていると、中野が頭を搔きながら恥ずかしそうに近寄ってきた。
「実はそこのスペースの全部ね、私が書いた作品なんだ」
「え、こんな達筆な字も書けるの?」
 驚き、声を上げると、そんなにすごいことじゃないよって、中野は笑った。
「今さ、みんな遊びに行っちゃってさ。私一人しかいないんだよー。あ、一年は朝倉先生の手伝いやらされてるんだけど」
 中野はくるっと俺に背を向けて、さっき書いた作品を洗濯バサミではさんで吊(つ)るした。中野が動くたび揺れる髪飾りに、なんだか少しドキッとしてしまう。浴衣のせいでいつもと雰囲気が違うから戸惑ってしまい、目が泳いだ。そんな俺を知ってか知らずか、中野はまたひらりと浴衣をひるがえした。
「見て見て! 約束通り書いたよ。日向君の名前」
 中野が指差したそこには、『佳澄』という二文字。俺が中野の浴衣姿にぼうっとしている間に書き上げてくれたらしい。線の太さも微妙に変えた俺のイメージだというその字は、水面に広がる波紋のように涼しげで美しかった。今、初めて自分の名前が少しだけ綺麗だと思えたかもしれない。大げさかもしれないけど、そのくらい、感動したんだ。
 また、この間、中野が泣いたときと同じような感情が胸を揺さぶった。むずがゆくて、あたたかくて、苦しくなるような、そんな感情だ。
「……ごめん、あんまりイメージ通りじゃなかった?」
「そんなことない、上手くて、言葉失くしてた」
「はは、それは言い過ぎだよ」
中野は照れ臭そうに笑って、俺の腕を軽く叩いた。
 そうこうしていると、中野は浴衣のすそを墨につけそうになった。寸前で避けたけれど、本当にあと少しで綺麗な浴衣に黒い染みができるところだった。中野はうんざりししたように袂を持って、ため息をついた。
「浴衣とか似合わないのに、女子は浴衣強制とか誰かが言い出したから……」
「なんで? 似合ってるよ」
 ストレートにそう言うと、中野は顔を赤くした。
「そういうこと、恥ずかしげもなく言える同級生、中々いないよ」 
 もしかしたら、おかしなことを言ってしまったのかもしれない。人との距離を置き過ぎて、中野とどんな距離感で話したらよいのか、時々分からなくなる。なんだか少し気まずくなって押し黙っていると、教室のドアが勢いよく開いた。
「サエお疲れ! ってあれ? なんだ日向もいたんだ、珍しいね」
 俺のことを珍しそうに指差しているのは同じクラスの佐(さ)藤(とう)という男子だった。俺と違ってすごく人懐っこい性格で、男子も女子も分け隔てなく接している印象がある。
「あ、何この『佳澄』って。日向の名前? なんでサエが書いてんの?」
「一度書いてみたくて。日向君の名前の並びって、綺麗だと思わない?」
「サエは名前、カタカナだもんなー」
「困ったもんよ……字の雰囲気、壊しやすいから……」
 さっきから、二人の会話を聞いていると、何か胸に引っかかってしまう。彼が中野のことをサエと親しげに呼ぶたびに、まるで二人の仲のよさを見せつけられているように感じて、いい気がしない。こんな子供染みた感情が自分の中にあったことに驚いた。
「午後になったら受付すぐ変わるから、あと少しだけ頼むな」
 そう言って、佐藤は中野の肩をぽんと叩いてから、教室を去っていったが、それでも胸の中に広がったモヤモヤはすぐには取れなかった。
「……名前、中野のこと、“サエ”って呼ぶ人多いよね」
「あー、ただ単にもう一人中野さんがいるからだと思うけど……あとは呼びやすいからとか」
 名前ぐらいで、俺は一体何をこんなにムカムカしているんだろうか。自分から質問したくせに、俺は素っ気ない態度を取ってしまった。俺もサエと呼びたいなら、そう呼べばいいんだ、そう思えば思うほど、彼女のことを下の名前で呼ぶことのハードルが高くなっていく。
 誰かこの感情を整理してくれ。他の人の感情が読めたって、自分の気持ちに鈍かったらなんの意味もない。
▼愛情表現──中野サエ

 十一月の、秋から冬へと移りゆく瞬間はなんだかとてもあっという間な気がして、気づいたら文化祭なんて、随分昔の思い出になろうとしていた。ほんの少し前のことなのに。いつもよりしんなりとしている街路樹は、朝の霧でより一層潤っているように見えた。葉はたっぷりと朝の空気を吸い込んでいる。
 私はその景色を見ずに全速力で通り過ぎ、人通りの少ない裏道を自転車で走り抜けていった。大体この県は寒くなるのが早過ぎるのだ。東京だったら、まだもうちょっとあたたかいだろうに。そうぐだぐだ思いながら進んでいると赤信号に当たってしまい、仕方なくブレーキをかけたけれど、車も人も全くいないこんな状況だったら、行っちゃってもいい気がする。でもそれは立派な信号無視なのでやめておいた。
 人通りが少ない道のくせして信号待ちが長過ぎるのだけれど、自転車通学にとって、人が溢れた表通りより、ずっと走りやすいのでこの道はよく利用している。あえて裏道のマイナス点を言うならば、夜通るにはちょっと危ないというところだ。街灯があまりないうえに、夜のお店のキャッチが盛んだったりする。
 私はぼうっと辺りを見回して信号が青に変わるのを待った。すると、ずっと遠くに男女の二人組がいることに気づいた。外壁に隠れて、何か口論している様子。後ろ姿だから表情はあまりよく分からない。確認できたのは男の人は黒い服を着ていて、スタイルがいいということくらいだ。まるで昼ドラの様な様子に野次馬根性が働いた私は、身を乗り出してその二人を凝視した。
 そしてサドルにヒジをかけたその瞬間、女の人が男の人に抱きついた。男の人は振り払うでもなく、抱き返すでもなく、ただ、人形のように動かずと立っていた。離れるのを黙って待っているのだろうか。それとも、抱きつかれてもなんとも感じていないのだろうか。そんなことを思っていると、突然、ふっとその男の人が私のほうに振り向いた。私は心臓が飛び跳ねるほどびっくりして、顔も確認しないまま全速力で自転車を漕いだ。

「へーっ、そんなことがあるんだねー」
 ざわざわと騒がしい教室の隅で、私と梓は机を向かい合わせて今朝の昼ドラ事件について真剣に話していたのだけれど、りさは興味がないのかずっとスマホでゲームをしている。
「そういえばあの辺の道、そういう夜関係の仕事の人、多いからねー。もしかしたら不倫だったのかもよ?」
 不倫と聞いて、りさも興味がわいたのか話に参加してきた。逆に私はなんだか大人な話についていけなくなってしまい、黙り込んでしまった。そのとき、ドサッと重い荷物を置く音がした。
「あ、おはよう、日向君」
 あいさつをした瞬間、私はギョッとした。日向君の顔が真っ青だったからだ。白い肌はいつもより透けていて髪の毛もぼさぼさで、もしかしたら起きてそのまま来たんじゃないかという風(ふう)貌(ぼう)だった。
「な、何かあったの?」
「うん、ちょっと店で……」
 日向君が私の前を通った瞬間、香水の匂いがした。鼻の奥を刺すような甘い香りは、明らかに女物の香水だ。日向君はそんな私に気づいたのか(あるいは心を読んだのか)、一瞬悲しそうな表情になった。
「客が、香水ひどくて……」
 日向君はだるそうにエナメルバッグを机に置いた。
「あ!」
 そのとき、私はみんなが振り返るくらい大きな声を上げてしまった。もちろん日向君もびっくりしたように私を見ている。私が声を上げた理由は日向君のバッグの中身にあった。そう、それは今朝見たあの昼ドラの人が着ていた黒シャツにそっくりだったからだ。シャツへの視線に気づいたのか、日向君は不思議そうに尋ねてきた。
「シャツがどうかした?」
 そう聞くってことは、今はオフか。少し安心……でも、どう答えたらいいのか戸惑っていると、間髪入れずにりさが突っ込んだ。
「あー、いかにも今朝言ってた昼ドラの男の人が着てそうな服だねーっ」
 私が言葉をにごしているのにも全く気づかずに、りさは日向君の黒シャツを指差した。
「……昼ドラ?」
 日向君は小首を傾げて聞き返した。
「んーなんかね、サエが今朝抱き合っている男女を見たとか言ってて……」
「いやいやいや、見てないよ! 勘違いだった!」
 慌ててりさの口を両手でふさいだけれど、もう既に時遅しであった。よく考えれば、今朝見たのは日向君だったのかもしれない。だってあの道は日向君が働いている店と近いし、何よりあの無造作な髪は日向君そっくりだ。そして極めつけは、パリッとした黒いシャツだ。思い返してみると、今朝見た男の人と一致する部分が何点も見つかった。気まずい気持ちで日向君を見上げると、彼は私の心を読んだのか、何か納得したように苦笑していた。
「中野。そろそろ手、離してあげないと、長(なが)井(い)、死にそうだよ」
「はっ、ごめんね、りさ」
 私はすっかり、りさの口をふさいだままだったことを忘れていた。りさは顔を青くしてせき込んでいる。日向君が教えてくれなきゃ大変なことになっていた。なんども私が謝っている間にチャイムが鳴り、梓が早く教室を移動するよう急かす。相変わらずこういうところだけは真面目な人だ。視線を斜め前に移動させたら、もうそこに日向君はいなかった。

「委員会とかだるいー。サエは緑化でいいな。楽じゃん」
「うらやましかろう」
「私なんか放送委員だよ。笑えるー」
 りさは口を尖らせながら、これでもかというくらいアクセサリーのついた筆箱をブンブン振り回している。長い授業も終わり、やっと部活かと思えばその前に委員会って。梓はしょうがないなぁと言いながら、とっとと委員会に行ってしまった。
 廊下では、相も変わらずバカみたいに、男子たちがふざけあっている。りさは感慨深げに廊下でじゃれている男子たちを見てからため息をついた。
「なんかさー、こいつらが日向と同い年かと思うと悲しくなるよねー」
「まあ、日向が大人過ぎているのかもしれないけど。っていうか日向ってカケルと仲いいよね。意外ー」
 日向君はほとんど単独行動をしているが、たまに彼の元に無駄話をしに来る生徒がいる。それがカケル君だ。いっつもギャーギャー騒いでるムードメーカー的存在のカケルこと滝(たき)本(もと)君は、違うクラスのくせしてなぜか日向君を構いに来るのだ。
「委員会終ったら、私たち置いて直(チョク)で部活行っちゃっていいから」
 私は了解、と言って頷いた後、りさと別れ、委員会の場所に向かった。
「あ、中野ちゃん一緒なんだ」
ドアを開けた途端、声をかけてきたのはさっきウワサしていた滝本君だ。どうやら私と同じ委員会の滝本君は、あんまりしゃべったことのない私にも、人懐っこい笑顔でひらひらと手を振ってくれた。無造作に跳ねている、明るめの茶色に染めた髪は、滝本君の顔立ちにすごく合っている。私は誘導される通りに滝本君の隣に座ったけれど、教室には私たち以外、まだ誰も来ていなかった。
「日向、まだ来ねぇーんだよ。アイツー」
「あ、日向君、探したんだけどいなくて、一緒に連れてこられなくて……」
「あいつ、人に迷惑かけるタイプのマイペースだからな」
「仲いいのに、そんなこと言って」
 滝本君は沈黙なんてつくる間もなくしゃべり続けた。話を聞くと、滝本君と日向君は同じ中学で、その頃からの友人らしい。どおりで仲がいいわけだ。
「でもさー、アイツ本当につかみどころねぇから。正直たまに俺ってちゃんと友達なのかなーって思うときあるよ」
「あー、日向君クールだからね」
 “それは私も分かる気がする”。
 のど元まで込み上げてきたその言葉をギリギリのところでのみ込んだ。なんとなく、それを口にしただけで日向君との関係崩れるような気がしたから。というより、口にしたら悲しくなっちゃいそうだったんだ。滝本君は少し重い話題になってしまったことに気づいたのか、すっと話題を変えた。
「日向は自分の感情に鈍いから、何に興味があって何が好きとかはっきり気づけないんだよ。だから本当にお世話がたーいへん」
 呆れ返ったように苦笑する滝本君がおかしくて、私は少し噴き出した。
 まるで保護者のような言い方だ。
「まあ、そんな奴ですが、これからも日向と仲よくしてあげてな。中野」
「もちろん」
「日向に女友達って、中学んときからの知り合いが知ったら、ビックリするだろうな」 
それがどういう意味なのかはいまいちよく分からなかったけれど、日向君の中学時代には興味があった。そのときにはもう透視能力があったのかな。あったとしたら、他に誰か気づいている人はいたのだろうか。考えを巡らせていたら、自分は日向君のことを何も知らないことに気づいた。知っているのは、名前と秘密だけで、好きな色とか、誕生日はいつとか、嫌いな食べ物とか、友達なら知っていて当然のことを私はひとつも知らなかった。
「あれ、カケル……と中野?」
 そのとき、後ろからのんびりした声が聞こえ、振り返るとそこには眠たそうな顔をした日向君がいた。また保健室で昼寝でもしていたのだろうか。髪が重力を無視して立っている箇所がある。
「お前寝ぐせ、どうにかしてこいよ。寝起き感あり過ぎだろ」
 滝本君の言う通り日向君は半目でふらついた足取りだった。そんな日向君の後ろから、ぞくぞくと他の緑化委員たちが入ってきた。日向君はふらふらしながらも滝本君の後ろの席に座ったけれど、椅子に座った途端すぐにまた突っ伏してしまった。そんな日向君の頭を勢いよく滝本君が叩いた。
「寝過ぎだろ、バイトが遅いのは分かるけど」
 思い切り不機嫌そうな日向君は、目を細めて滝本君を睨んだ。ブルーグレーの瞳だから、怖いくらい冷たい目つきだ。
 滝本君はもうそれに慣れているのか、バシバシ日向君の背中を叩いた。
「なんだよお前、今日いつにも増して機嫌悪ぃーな」
「なんでカケルが中野といんの……」
「は? 別に委員会始まるの待ってたら中野がそこに来ただけ……あ……そういうことか」
 滝本君は一瞬ニヤッとしてから納得したように頷き、くるっと私の方に振り返った。
「ところで中野ちゃんって本当いいコだよねー。きょうだいとかいんの?」
「あー、お姉ちゃんが一人……」
「へー、俺一人っ子ー」
 意地悪な笑顔で話しかけてくる滝本君に、私はハテナマークを浮かべながら質問に答えた。テンションの上がり方がいまいちつかめないぞこの人。
 そんな滝本君とは真逆にどんどん不機嫌オーラを増している日向君は、もうまるで獣のような目つきで、ニヤニヤしている滝本君を睨んでいた。
「佳澄が感情を顔に出してるの、初めて見たかも」
 なんだか訳が分からないけれど、とりあえずこの二人は本当に仲よしなんだということは分かった。
“俺ってちゃんと友達なのかなーって思うときあるよ”。
 滝本君はさっきそう言っていたけど、そんな風に悩むことはないと思う。だって本当に友達だって思っていなくて、興味がないなら、こんなケンカしないはずだから
「そういやさ、今日、部活の後輩の女子が、お前んこと“カッコイイ!”って言ってたよ」
「ふーん」
「ふーんって、何も思わないわけ?」
 滝本君は「腹立つなあ」と言って日向君の背中をバシッと叩いた。すると、日向君もすぐさま滝本君の背中を同じくらいの強さで叩き返していた。その光景を微笑ましく思って見守っていたら、日向君はそれに気づいたのか、仲よくないから、と強めに否定してきた。それがおかしくて、私はぷっと噴き出してしまった。普段慌てたりしない人だからこういう日向君はかなり貴重だ。
 すると、滝本君は日向君の制服のすそを引っ張って目を潤ませ始めた。
「ひ、日向君ひどい……好きだったのに……っ」
「なんの真似?」
「過去に日向に告(こく)った女子の真似」
「やめろ、そういうのネタにすんな」
 日向君は滝本君の腕をひねり上げて黒いオーラを飛ばしていた。それを見て私が苦笑していたところで、日向君は滝本君の腕をようやく離した。滝本君はしきりに腕を押さえながら日向君を恨めしそうに睨んでいる。
「なんだよー、人がせっかく甘ずっぱい青春の話を再現してあげたのに」
 口を尖せて分かりやすく拗ねていた滝本君だけれど、しゃべりながら途中で何かを思い出したのか、急に上を向いた。
「あ、でも結局日向が“軽い気持ちにしか思えない”って言ってふったから、甘くもなんともないか」
「なんでそんなことまで知ってるの」
「えー。ふられた女子から聞いた」
 日向君は怒るというよりびっくりした表情をしている。同じく私もかなりびっくりした。それと同時にその告白した女の子に同情してしまった。軽い気持ちにしか思えない、なんて、そんなこをと言われたらどんな気持ちになるんだろう。もしかしたらそのとき、彼女の気持ちを読み取って、それを知ったうえで発言したのかもしれないけれど、どれほど好きと思えば、軽い気持ちではないと判断してくれるんだろう。そういう気持ちは、簡単に測れるものじゃないから、難しい。
「なあ。なんでふっちゃったの? かわいかったのにあの子」
「……別に。好きって言われてもなんとも思わなかったから」
 その瞬間、ひとつの疑問が頭の中に浮上した。日向君は他人のことをどう思っているんだろう。好きって言われ慣れているわけじゃないみたいだけれど、そういうことに関してはどこか冷めている気がする。そりゃ、ああいう所でバイトしているからってのもあるかもしれないけれど。
 あ、そういえば、今朝のあの男女はやっぱり日向君だったのかな。なんだか怖くて聞けないや。もしそうだとしたら、それは私の知らない日向君の一面だ。学校で会うとき以外の日向君はなんだか別の人みたいで、ちょっと近寄りがたいんだ。透視能力があるから、迂(う)闊(かつ)に人に近づけないと思っているんだろうか。もしかしたら、言葉だけでは信じられなくなっているのかな。だったら、悲しい。それはすごく寂しいことだ。私が今まで日向君にかけた言葉は、ちゃんとなんの疑いもなしに受け止められているのだろうか。
「……中野? どうしたの?」
「あ……なんでもないっ」
 日向君の心配したような問いかけに、慌てて首を横に振ったその瞬間、教室に朝倉先生が入ってきた。よく通る低い声に反応して、ざわざわと騒がしかった教室が少しずつ静かになっていく。
「おーいみんな、静かにしろよー。話聞いてくれないと泣いちゃうからー」
「やだー。聞くから泣かないでー。時雨先生ー」
 朝倉先生の軽い冗談も、女子の笑い声も耳に入ってこなかった。私は委員会中ずっと上の空だった。
 もやもやとした、はっきりしない感情が私の中の何かを不安にさせていく。日向君は本当につかめない人だから、手に入れようとすればするほど、遠くに行ってしまう気がする。この人を手に入れたくて仕方ないっていう人が、きっと何人もいるんだろう。
 そこにある感情は、恋愛でも友情でも多分同じで、心までこっちに向けられないような気がして不安になってしまう。彼は、他人をそういう気持ちにさせる人なんだ。その気持ちに共感できる私は、その“手に入れたがっている人”のうちに入るのだろうか。私は日向君を手に入れたいと思っている、ということなのだろうか。分からない、でも、日向君のもっと深いところまで知ってみたい、近づきたいって、思うんだ。そしてそれが、クラスの中で私一人だけだったらいいのにって、欲深くも願ってしまうんだ。