君があの子に、好きと言えるその日まで。完

誰もいない水飲み場付近の木陰に入ると、私は一之瀬君から腕を振り払った。


「ちょっと、あんなこと言って大丈夫なの!?」

「大丈夫だよ、俺元から嫌われてるからへっちゃら」

「いやいやいや、そういう問題じゃ……」

「もっちーこそ、大丈夫?」


私の言葉を遮って、一之瀬君が私の顔を覗き込んだ。

一之瀬君のふわふわの髪の毛が風に揺れて、あらわになった薄茶色の瞳が、真っ直ぐこっちを見ているのがはっきりと分かった。


『……好きですよ、だったらなんですか』。


そうか、あれをきっと聞かれてしまったんだ。

どうしよう、一番聞かれちゃいけない人に、聞かれてしまった。

一之瀬君はちゃんと、やめときなよって、止めてくれたのに。


「……ごめんね」

だけど、謝ったのはなぜか彼のほうだった。

驚き顔を上げると、彼は今度は私の頭の上に手を置いて、ごめんね、ともう一度呟いた。

「俺があんなこと言ったせいで、もっちーは自分の気持ち殺そうとしてるんだよね」

「……そ、そうだけど、でも違うよ、これは自分のためでもあって……」

「ごめん、もっちーが傷つかないように善意で言ったつもりだったけど、人の感情を殺すなんて、善意でもなんでもなかった」

本当に申し訳なさそうに、一之瀬君が自分の唇を噛んだので、私はなんて言葉をかけたらいいのか分からなくなってしまった。


「それどころか、本当は、またすぐに翔太のことを好きになるバカな女子だって、心のどこかで思ってたのかもしれない。さっきのギャルみたいに」


だから、本当にごめん、と言って一之瀬君が頭を下げた。

私は、一之瀬君の嘘のない言葉に、少なくともショックは受けたけれど、怒りはわいてこなかった。

だって一之瀬君は、星岡君のことも、私のことも傷つけないために、忠告してくれたはずだから。


「……いいの。それに私、一之瀬君に言われなくても、諦めてたから安心して!」

私は一之瀬君の顔を上げさせて、明るく笑いかけた。

「それって、どういうこと?」

笑っている私とは反対に、一之瀬君は真剣な顔で聞いてきたので、なぜか彼にはちゃんと話したいと思ってしまった。

もう、自分ひとりじゃ抱えきれなかったのもある。
私は、充電器を借りてしまったこと、そのせいで星岡君が来栖先輩の妹さんに会えなかったのかもしれないということ、全部を話した。

一之瀬君は、何も言わずにそれを全部静かに聞いてくれて、否定も肯定もせずにただただ相槌を打ってくれた。

「そっか、妹のことも、翠から聞いたんだね」

一之瀬君がこんなに優しい人だったなんて、知らなかった。

誰かに話したら、心の中の鉛が、ほんの少しだけ溶けて軽くなったのを感じた。


「……あのね、正直に答えてほしいことがあるんだけど」

「うん、俺が答えられることなら」

「星岡君は、まだ何か理由があって、来栖先輩を好きなのに想いを伝えられていないんだよね」

「……うん、そうだね」

一之瀬君が、悲しそうに目を細めた。

私がこれ以上関わっちゃいけない問題なのかもしれない。でも、何もしないで黙っていたら、私、一生このことを後悔しそうだから。


「来栖先輩も、星岡君のこと、まだ好きでいてくれてるんだよね……?」


そう問いかけると、一之瀬君は、一度目をそらしてから、ゆっくり口を開いた。


「……うん、好きだと思う。たまに俺宛に、翔太の様子を心配してメールがきたりするんだ。俺も翠とは仲良かったから」

「そうなんだ……」

「妹も翔太のことが好きなのに、私はこの気持ちをどうしたらいいだろうって、一度だけ相談されたことがあるよ」


その言葉を聞いて、ひとつの決心が生まれた。

苦しいし、悲しいし、辛いけれど、大人になった時、私は私を後悔したくないよ。

もう、叶わない恋だと分かったからこそ、私は二人の背中を押してあげたい。

それで、上手くいって、もう手が届かないくらい幸せになってほしい。


「ねぇ、一之瀬君、お願いがあるんだけど……」


好きな人には、幸せになってほしいなんて、そんなきれいごとは言いたくない。

私は私のために、この初恋を弔ってあげないと、後悔しそうだから、自分のために動くんだ。


だって、人を好きになって、伝えたくても伝えられない苦しさを、私も十分に分かっているつもりだから。

こんなに痛くて辛い思い、好きな人にはしてほしくない。


「私のこと、好きになったふりしてくれないかな」

「好きになったふり……?」
「それを口実に、星岡君と一緒に美術室に遊びに来てよ。そうしたら、星岡君も、きっとまた、来栖先輩と自然に話せるようになるかもしれないから……」


私の提案に、一之瀬君は言葉を失っているようだった。

本当に無茶なお願いをしているってわかってる。

だけどきっと、一之瀬君も私と同じように、親友の星岡君の幸せを願っているはずだから。


「……分かった。それがもっちーの願いなら」


重たい雲がゆっくりと広がって、ぽつぽつと、冷たい雨粒を落とし始めた。

アスファルトに落ちた雨が、黒くて丸い跡をいくつも作っていく。

緊急中止のアナウンスがグラウンドに流れているのが、雨音に混じってかすかに聞こえた。


……行かなきゃ。きっと、星岡君、いつまでも戻ってこない私を心配している。
他の実行委員も慌ただしく動いているだろう。



私は、自分の想いを押し殺して、好きな人の元へ走って向かった。







自分でも、なんであんな提案したんだろうって思ってる。

でも、星岡君に幸せになってほしいのは、ほんとだよ。


それだけは、ほんとなんだよ。

だって、好きな人には笑っていてほしいから。

まだ十七歳だけど、まだまだ子供だけど、その気持ちだけは本物だって、分かってほしい。

体育を終えると、季節はあっという間に移ろいで、気づけば初夏へと突入していた。

ブレザーや薄手のカーディガンを羽織っていた女子たちは、白シャツだけの格好になり、男子たちには嬉しい季節となった。

女子の誰の下着が透けていたとか、ポニーテール姿が可愛かったとか、そんなしょうもない話ばかり浮上する。

俺は、うちわで顔を扇ぎながら、ぼうっとその話を聞き流していた。

ここはサッカー部専用のロッカーで、部屋は男臭さと汗臭さで充満している。

部活動を終えた俺たちは、着替え終わった後もだらだらとこの部屋に残ることが多く、スプレーを体に噴きかけて火照った体を冷やしていた。

それは、代わり映えのない、いつもと同じ光景だった。

だけど最近、変わったことがひとつある。


「翔太、今日暇だったらもっちーのところ行こうぜ」

「いいけど……、お前作品づくりの邪魔すんなよなー」

「大丈夫、十八時以降は自由時間って聞いてるし」


……一之瀬が妙に美術室へと足を運ぶようになった。しかも俺を巻き添えにして。

本人はハッキリ言わないけれど、恐らく望月のことが好きなんだろう。

一之瀬はとっつきにくいけど、見た目が男前だから(中身をよく知らない)後輩にはよくモテている。

今までの付き合いで、一之瀬が自分からアプローチするなんてことはなかったから、俺は少し彼の行動に驚いていた。


「お前さ、望月のこと……」


好きなの? と聞いてしまいたかったけれど、なんとなく止めた。

それを聞いてしまったら、望月とどんな風に話したらいいのか分からなくなってしまいそうだったから。


……望月は、すごくいい子だと思う。

体育祭のときも、すごく一生懸命に動いていたし、緊張しいなりに頑張ってた。

適当にやっときゃいいのにって思うことも、バカ真面目に取り組んでいて、なんだかこの子には嘘をつけないなって気持ちになった。

一之瀬が彼女に惹かれる理由も、分からなくもない気がする。

まあ、こんなこと言ったら、一之瀬は嫌がるだろうけど。


「行こう、消しゴム用の食パンくれるかもよ」



美術室は、いつも油絵の具の独特のにおいがする。

最初はツンと突き刺すようなにおいに感じるが、鼻が慣れると、べっとりとくっつくような、重たく沈んだにおいに変わっていく。
俺は、自分の体が汗臭くないか念入りに確認してから、一之瀬と一緒に美術室へと足を運んだ。


……美術室へ行くのは正直足取りが重い。

なぜなら、そこには翠がいるからだ。


「もっちー、捗ってるー?」

いくつかある美術室のひとつに、キャンバスに向かっている望月がいた。

望月は俺たちに気づくと笑顔で手を振って、おいでと招き入れてくれた。

普段はぴりついている様子の美術部だけど、顧問の先生がなくなった自由時間は、とてもゆるくて部員同士もおしゃべりをしている。

だから俺たちが入っても何も咎められることはなく、スムーズに望月さんの元へ行ける。


「今、何描いてるの?」

俺が質問すると、望月はパレットの上で絵の具を溶きながら答えた。

「見てわからない?」

「いや、まだ輪郭しか描かれてないしな……」

「来栖先輩だよ。今、モデル頼んでるんだ」

え、とうい声を上げた瞬間、教室が静かに開いた。

そこには、少し気まずそうな表情を浮かべる、翠がいた。


どうしよう、逃げ出したい。


俺は瞬時にそう思ったけれど、まさかそんなあからさまなことするわけにもいかず、固まってしまった。

美術室でなん度かすれ違うことはあったけれど、お互い話そうとはしなかった。いや、できなかった。


久々に翠とちゃんと向き合って、胸の奥の奥がちくっと痛むのを感じた。


「……翔太、久しぶりだね」

翠が、ぎこちない笑みを浮かべて、俺たちの方に近づいてくる。

「翠、なんか髪伸びたね。伸ばしてるの?」

一之瀬がいつものテンションで話しかけ、望月もその会話に入っていく。

俺は額に変な汗が浮かんでくるのを感じていた。


……翠、翠だ。

もっと近くで見たいし、話したい。

だけど、どんな顔をして翠と話したらいいのか分からない。


翠は俺に対して、怒りはないのだろうか。

逃げ続けた俺に怒っているなら、いっそ怒鳴りつけてほしい。


「……翔太」

翠が、俺の目の前に立って、俺を見つめている。

俺はゆっくりと彼女と目線を合わせて、彼女の小さな口から放たれる言葉を待った。


「そのTシャツ、裏表逆だけど、大丈夫?」

「え……」

翠に言われて、すぐに自分が着ている、無地の黒Tシャツのタグの位置を確認した。

確かに、首の後ろにあるはずのタグが、前に来ていた。
「ぷ、いつ気づくかなって思ってたけど、翠いきなり教えんなよ。つまんないじゃん」

「え、やだ、ごめん教えちゃった」

「おい一之瀬、お前分かってたなら教えろよっ」

俺は顔を真っ赤にしながら、Tシャツを脱いで正しく着直したが、望月も一緒になって笑っている。

でも、そのお陰か、びっくりするくらい自然に翠と話すことができた。


なんだ、翠と話すのは、こんなに簡単なことだったのか。


俺はからかわれたことに怒りながらも、心の奥底でほっとしていた。

それと同時に、久々に翠と話せたことに対する喜びが、じわじわと胸の中に広がっていく。

……あの日から一年経って、こんな風に他愛もない話をするのは本当に久々だった。


「……また、絵を描き始めたんだな」

翠に、ゆっくり話しかけると、彼女は一度静かに目を伏せてから、小さく頷いた。

雛がいなくなっても、世界は変わらぬ速度で動いているけど、きっと雛の周りにいた人たちの時間の流れは、変わってしまった。

……朝がきて、昼がきて、夜がきても、雛がいなくなってしまった事実は変わらない。

「なにも進めたくないし、止まっていたくもないんだけど、まずは今まで通りの生活をしなきゃって思って……」

翠のその言葉は、とても重くて、どうにもならない寂しさや悔しさが詰まっているように感じた。

そう、どうにもならないのだ。

雛の命も、俺と緑の間にできた溝も、無情にも流れゆく日々の中で、形を変えずに残ったままだ。


「あ、ごめん暗くしちゃって! でも本当に今はもう大丈夫だから! 部活再開したら元気出てきたの。依ちゃんみたいな可愛い後輩とも会えたし」

「来栖先輩、そんな言われても今は食パンくらいしかあげられませんよ……」


俺が余程心配そうな顔をしていたのか、翠は俺を見るなりすぐにパッと表情を変えた。

……翠は前に進もうとしている。もしかしたら、そんな風に見せているだけかもしれないけど。


それでも、どんな時も、俺は翠の味方でいる。

たとえ翠が、俺のことを恨んでいたとしても。







あの日をきっかけに、俺は一之瀬と一緒に美術室に行く機会が増えた。

飽くまでただの付き添いで、翠に会いに行ってるわけじゃない、つもりだけど、翠と話せることを素直に嬉しく思っていた。


「……あ、望月。おーい!」

今日も茹だる様な暑さだ。
目の前を歩く集団の中に、栗色の髪の毛の女子を見つけたので、俺は小走りで彼女に追いついた。

「望月、おはよう」

「わっ、びっくりした!」

望月は音楽を聴いていたのか、俺の気配を一切感じていなかったようで、本気でびっくりしていた。

心臓の位置に手を当てながら、望月はおはようと返してくれた。

こんなに日差しの強い中、駅から徒歩十分もの距離を移動しているというのに、望月は変わらず白い。

「望月って、普段どんな曲聴いてるの?」

「んー、結構バラバラだけど、最近はバラード系が多いかな。スマホのCMソングのやつとかお気に入り」

「どんな曲だっけ?」

「聴く? 今外す……え」

俺はいつも一之瀬としょうもない動画を観る時のように、反射的に望月が手に持っていたイヤホンに耳を寄せてしまった。

望月のシャンプーの匂いがわかるほどの至近距離になってから、今自分がなにをしてしまったのかを理解して、すぐに離れた。

「ごめんっ、つい癖で……いや、癖でっていうと誤解あるけどとにかくごめん」

「う、ううん。大丈夫」

望月は戸惑った様子で首を横に振ったけれど、一之瀬にこんなところを見られたらただじゃおかないだろうな。

そういえば、一之瀬はまだ望月に思いを伝える気はないのだろうか……。

「つかぬこと聞くけど、望月って彼氏いんの?」

「えっ、いたことないよ」

俺の質問に、さっきより勢いよく首を横に振る望月。

よかったな一之瀬、どうやら彼氏はいないらしいぞ……。

余計なお世話かもしれないと分かりつつも、好きな人なんて滅多に作らない一之瀬のために、親友として何かしてやりたくなった。


「一之瀬って、望月的にどうなの?」

「え……一之瀬君?」

「いや、最近仲いいし、どうなのかなって単純にー……」


そこまで言いかけて、俺は口を閉じた。

望月が、一瞬泣き出しそうな顔をしたから。

でも、それは本当に一瞬で、彼女はすぐに俺を見上げてパッと明るい笑顔を見せた。


「私も、一之瀬君面白くて好きだよ」

「……そっか、あいつも望月のことすごい気に入ってるよ。それ聞いたらあいつも喜……」

「星岡君も、好きだよ」


それはあまりに唐突だったので、“男として”ではなく、“友達として”好きと言ってくれたのだと理解するのに時間がかかった。
きっと、とんでもなく間抜けな顔をしていたと思う。

俺は、固まった表情を無理やり動かして、ロボットみたいにお礼を言った。


「ありがとう、俺も望月と話すの楽しくて好き」

……一瞬でも真に受けてだせぇな、自分。

だけど、あんな笑顔で言われたら、誰だってドキッとすると思う。

俺は、無意識のうちにさっきより少し早歩きで進んでしまった。


「厚いな、今日」


さっきまであんなに軽快に話せていたのに、そんなありふれた話題しか出せなくなってしまった。


自分でも、なんであんな提案したんだろうって思ってる。

でも、星岡君に幸せになってほしいのは、ほんとだよ。


それだけは、ほんとなんだよ。

胸がちくっと痛むときもあるけれど。


「望月ちゃん、今日も早いね」

「来栖先輩……。私のクラスのHR、短いんです。担任が適当なんで」

美術室でイーゼルを担いで運んでいると、来栖先輩が私に話しかけてくれた。

来栖先輩にモデルを頼んでから、先輩と話す機会は増え、そこに一之瀬君と星岡君がやってくると、自然と四人で集まることが増えた。

まさかこんなに自然と話せるくらい、仲良くなれるなんて思ってもみなかった。

来栖先輩は、今日も胸下まである長い髪をふわりと揺らしながら、私に近づいてきた。


「望月ちゃんの絵、いいよね。構図がバシッと決まってるし、配色も個性があって、望月ちゃんにしか描けないって感じがする」

「いやいや、先輩にそんなこと言っていただけるなんて恐縮です……」

「私のつまらない絵とは大違い。すごいなぁ、そんな絵描いてみたい」


いくらなんでも褒めすぎですよ、と否定しようとしたけれど、先輩は本当に羨望の眼差しで私の絵を見ていたから、言葉を飲み込んだ。

とてもそんな風に言ってもらえるような絵じゃないし、デッサンだって先輩の足元にも及んでいない。

……それなのに、先輩は一体私の絵のどこがうらやましいのだろうか。


「翔太も言ってたよ、望月ちゃんの絵が好きだって」

来栖先輩が“翔太”って呼ぶことは、他の人が翔太と呼ぶのとわけが違う。

先輩が星岡君の名前を呼ぶたびに、胸の奥がズキンと痛んで、なんだか苦しくなる。


「いいなあ、私、翔太に絵を褒めてもらったことなんか、一度もないよ」


先輩は、今も星岡君のことが好きなんですか……?

思わず聞きたくなった言葉を、なん度も飲み込んでいる。

好きなら、その思いを伝えてあげてほしい。星岡君はいつも、先輩のことを切なそうな瞳で見ているから。


私の方が、何倍も、何百倍も先輩のことが羨ましいのに、いいなあ、なんて言われるなんて。

悔しいのか悲しいのかよく分からない気持ちになって、私はつい口火を切ってしまった。


「先輩は、星岡君と幼馴染なんですよね」

「……うん。家族ぐるみの仲なの。親同士が学生時代からの友人同士で」