私は、詮索していると思われない様に、マスターの話を受け身で聞くことにした。

「噂によると、海の近くのピアノ教室で弾いてたらしいけど……」
「それって、どこなんですか？」

身を乗り出して聞きたいほどの情報だけど、私は心を落ち着けて問いかけた。
もうすぐ葵に会えるかもしれない。いや、会える。
じわじわと期待が胸の中に広がって、心臓がどくんどくんと鼓動を早めた。
「ここから歩いてすぐそこだよ。全部真っ白な家だからすぐ分かる」
私は、アイスコーヒーを勢いよく飲んで、その家に行く準備を整え始めた。
やっと会える。やっと見つけた。嬉しくて嬉しくて、今すぐ叫びだしてしまいたいほどだった。

「おじさん、情報ありがとう。お会計……」
「でもつい最近亡くなられて、あの家は今解放されっぱなしだって聞くけどね。噂だからどこまで真実か分からないけど……」

亡くなられて……？ 誰が……葵が？
聞いた言葉がすぐに理解できなくて、私はその場に固まった。
お札を取り出そうとした手は、行き場のないまま宙に止まっている。

「僕もよく分からないけれど、既に無人らしい。ただピアノがあるだけだって聞いたよ」
「そう……そうですか」
「ＣＤならあるから、いつでも聴きにおいで」
「はい、ありがとうございます」

お札をお財布から取り出して、マスターに渡して、お釣りを受け取り、重たい扉を開けて外に出た。
その一連の流れに、一切感情は無かった。
私の心はガラガラと音を立てて崩れ去り、粉々になり、風に飛ばされてどっかに行ってしまったんじゃないか。
体の中が空洞になってしまったようだ。

それでも足は、その白い家の方へ向かっていた。
全てを見届ける義務が、私にはある。

「葵……葵……」

白い家は確かにこの景色から浮いていて、すぐに分かった。
重たい気の扉を開けると、そこには見覚えのある景色が広がっていた。
ああ、葵がピアノを弾いていたあの場所だ。
あの白い景色は、ここのことだったのか。

真っ白な壁に、真っ白な床、全て真っ白な空間で、圧倒的な存在感を放つ黒いグランドピアノがあった。

私は、横長の椅子に座って、重たい蓋を開ける。
深呼吸をして、目を閉じる。
君のことを、思い浮かべる。

「うっ……う、葵っ……葵……」

やっとここまで来れたのに、酷いよ、葵。
止めどなく涙が溢れて、涙の粒が鍵盤に落ちる。