だから私は、明日のきみを描く

どうしよう、どうすればいい?


頭が真っ白で、顔はきっと真っ赤で、もしかしたら真っ青で、とにかく私は動くことも、何かを言うこともできない。


考えたって分かるわけがない。

もともと理解できていないんだから。


でも、このクラスに来たからには、そんな甘えたことは言っていられないんだ。

だから、何か答えないと。

それでもどうしようもない、分からないんだから。


ノートを見ても、教科書を見ても、黒板を見ても、何も分からない。

文字がただの記号になって私の中を素通りしていくだけで、頭には何も入ってこない。


先生は焦れたように私の反応を待っていて、生徒たちは苛々したようにこちらを見ている。


それが分かると、私の動揺はどんどん膨れあがっていった。

パニックというのは、きっとこういう状態のことを言うんだ。


「あの……ええと……」


教室の沈黙の重さに耐えきれず、そんな声をあげてみたけれど、だからといって何か答えられるわけではない。

泣きたかった。

逃げ出したかった。


今すぐ、この瞬間に、地震が起こって全てが無かったことになればいいのに。

そんな勝手な思いが沸き上がってくるほど、私は混乱していた。


そのとき。


「先生、これ、三番の公式使うってこと?」


突然、教室の後ろのほうから、場違いなほどに明るくあっけらかんとした声が聞こえてきた。



遠慮がちに私に集まっていた視線が、一気に私を通りすぎていった。

その先には、彼方くんがいる。


「ねえ先生、それで合ってますか?」


教室中の注目を集めていることに少しも躊躇せず、彼方くんは先生の答えを促す。

先生は「合ってる」と首を縦に振ってから、


「でも、先生は望月に訊いたんだよ。なんで羽鳥が答えるんだ」

「あっ、すみません。出しゃばっちゃった」


彼方くんが『しまった』という表情で言うと、どっと笑いが起こった。


それで教室の空気は一気に変わり、初めは私が当てられて、しかも答えられなくて授業を止めてしまったことなんて、もう誰も覚えていないようだった。


ほっとしてペンを握り直す。

と同時に、心臓が別の意味でばくばくと鳴り始めた。


――彼方くんが、私を助けてくれた。


それはすぐに分かった。

答えが分からなくて、どう対応すればいいかも分からなくて、頭が真っ白になってしまった私に助け船を出すように彼は発言した。


偶然なんかじゃないと思う。

私の勘違いや思い込みでもないはず。


彼は、授業中に指名されてもいないのに勝手に答えを言ってしまうような人じゃない。

彼はいつも、周りを見て冷静に判断してから言葉を口にしているから。

今日の言動は、いつもの彼とは違う。


それは、誰よりも彼方くんを見つめ続けてきた私には、はっきりと分かった。


授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

先生が教室を出ていくと、私は教材を持って立ち上がり、後ろの席に向かう。


悩んだけれど、このまま何も言わずにクラスに戻るのは、逆に不自然な気がした。

だから、彼に声をかけると決心したのだ。


「……あの」


声は小さすぎたし、震えてしまったけれど、彼方くんは気づいて振り向いてくれた。


「ん?」


首を傾げて私を見下ろす彼方くん。


こんなに近くで彼を見たのは初めてだった。

今までは、すれ違うときなどは俯いて、彼の顔を見ないようにしていたから。


近くで見ると、日焼けした肌は想像していた以上に滑らかでつやつやしていた。

そして、湧き出る泉のように澄んだ綺麗な瞳。

その瞳がじっと私を見つめている。


緊張しすぎて上手く声が出てこない。

心臓の音がうるさくて、耳さえ聞こえないような気がした。


でも、このまま黙っていたら変なやつだと思われる、と自分を叱咤激励して、なんとか言葉をひねりだす。


「さっきは、助けてくれて、ありがとう」


言うべきことをちゃんと言えた、とほっとしたのも束の間。


初めて会話をするのに、名乗るのを忘れてしまった、と気がついた。

彼は私のことなんて知らないのに、いきなり名前も言わずに声をかけたら、不自然に思われてしまう。


「あっ、ごめんなさい、C組の望月です」


慌てて名前を告げると、彼方くんは目を丸くして、それから小さく噴き出した。

そのまま彼は俯いて口許を覆いながらしばらく笑っているので、私はどうすればいいか分からず、黙って佇んでいた。


「ははっ、ごめんごめん、笑っちゃって」

「……いえ。あの、何かおかしかったですか……」

「あははっ」


彼方くんはもう一度笑い、それから「ごめん」とまた謝った。


「なんかすごく丁寧だからさ、おかしくなっちゃって」

「え?」

「わざわざ名前名乗るし、なぜか敬語だし」

「……初めて、話すから」


なんとかそれだけ返すと、彼方くんはにっこりと笑った。

目尻が下がって、とても優しい表情になる。


いつも遠くから見ていた笑顔。

今日はこんなに近くで見ている。

しかも、これは私だけに向けられた笑顔だ。


なぜか目頭が熱くなって、泣いてしまいそうだった。

私は慌てて瞬きをして、滲み出した涙を引っ込める。


「話すのは初めてだけど、知ってたよ」

「……え?」


首を傾げると、彼方くんが私を軽く指でさした。


「C組の望月さん。広瀬さんとか岩下さんとかとよく一緒にいるよな。なんか目立つ四人組だからさ、知ってたよ」


広瀬というのは遥の名字だ。

岩下は香奈の名字。


そうか、可愛くて美人で目立つ三人と一緒にいるから、私まで認識してもらえていたんだ。


もしかしたら彼方くんは、遥のことが気になっているのかもしれない。

だから、彼女のことを見ているときに、私を知ったのかも。


嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちだった。


「望月さん」


彼方くんがふいにそう呼んだので、沈みかけていた私の思考は遮られた。


「これから、よろしく」


顔を上げた私の目に、彼方くんの満面の笑みが飛び込んできた。


柔らかく細められた二重の目、きゅっとあがった口角、理想的な笑みの形をつくった薄い唇。


ずっと憧れていた笑顔を、こんなに間近で。


胸の奥のほうが、しぼられたようにぎゅうっと痛んだ。


こんなに明るい、くったくのない笑顔を、惜しまずにまっすぐ私に向けてくれた。


それだけでもう、今ここで死んでもいいと思えるくらいに嬉しかった。


次の瞬間、嬉しくなった自分に怒りを覚えた。


彼への想いは捨てると決めたのに。

こんなふうに話せることを、笑顔を向けてもらえることを、泣きたいくらいに幸せだと思ってしまっている。


私は唇をかみ、それから微笑んで「うん、よろしくね」と返した。

なるべく普通に、何気なく、さらりと。


彼方くんはまた笑って、「じゃ」と席を離れていった。



その背中をこっそりと見送る。


向き合って話すよりも、そのほうが落ち着いていられた。

私は彼の正面の顔より、横顔や後ろ姿のほうがずっと見慣れているから。


それなのに、さっきはあんなに近くで、正面から、彼と会話をして、笑顔まで向けられてしまったのだ。

まだ胸はばくばくと早鐘をうっている。


まさかこんな日が来るなんて、思ってもみなかった。

彼に助けられて、言葉を交わして、私だけに向けた笑顔を見るなんて。


どうしよう……嬉しい。

本当に泣きそうだった。


彼方くんの笑顔が、目に焼きついて離れない。


あんなに澄みきった笑顔は見たことがなかった。

彼はなんて綺麗な笑顔を浮かべるんだろう。

きっと心の美しさがそのまま現れているのだ。


彼方くん。

やっぱり、好きだ。

彼のことが好きだ。


話したこともなかったのに、どうしてこんなに惹かれるのか分からないけれど、

どうしても、好きだ。


あの笑顔を、私はきっと忘れない。

たった一度だけでも、彼が私に向けてくれた笑顔を、私のためだけに笑ってくれたことを、きっと一生忘れない。


何度でも思い出して、そのたびに満ち足りた気持ちになるだろう。


「遠子」


いきなり、呼ばれた。

全身が震える。


ゆっくりと振り向くと、そこには微笑む遥が立っていた。


「……遥」


声が震えた。

でも、彼女は気づいた様子もなく私の背中をぽんっと叩く。


「何してるの? 次、体育だよ。早く更衣室、行こ」

「……うん」


遥が私の腕に手を絡ませ、導くように歩き出す。


「どうだった? αの授業は。やっぱ難しかった?」

「うん……」

「だよねー、そりゃそうか。あっ、彼方くんは? どうだった? って訊かれても答えにくいよね、ごめんごめん」


遥が頬をピンク色に染めながら笑う。


その瞬間、言葉にならないほどの罪悪感が込み上げてきた。


――ごめん。ごめんね、遥。


彼方くんのことを、好きだなんて思ってしまって。

彼方くんに助けられて、彼方くんに微笑みかけられて、泣きたいほどに嬉しいなんて思ってしまって。


本当に、ごめんなさい。

私を救ってくれた遥を裏切るような真似をして。


もう彼のことは忘れるから。

彼への恋心は消してしまうから。


だから、どうか、許して。


私はもう二度と、彼に近づいたりしない。

































美術室に入ると、油絵の具の独特のにおいが鼻をついた。


誰だろう、と思って見回してみると、やっぱり深川先輩だった。

私と彼以外の部員が油絵を描いているのは見たことがない。


この美術部でまともに活動している数少ない部員の中で、深川先輩だけは本気で美大を目指しているらしかった。

そして、きっと行けるだろうな、と思うほど彼は上手い。

いつもは水彩画を描いているけれど、たまに思いついたように油をやることもある。


もうすぐ夏休みで、それが明けたらすぐに文化祭がある。

活動している美術部員は一応作品を展示することになっているので、それに向けて先輩も制作を始めたのだろう。


私も夏休みを使って一作、できれば二作仕上げたいなと思っていた。


いつもの席に陣取り、窓を開ける。

七月になってから一気に暑さが増して、教室では冷房がつけられているけれど、残念ながら美術室にはエアコン自体が設置されていない。

だから、窓を開けて、年季の入った扇風機を回すくらいしか、暑さ対策がないのだ。


でも、旧館は午後になると本館の陰に入るし、グラウンドに面していて風の通りも良いので、なんとかしのげている。