だから私は、明日のきみを描く

遥はぶんぶんと首を横に振っている。

それでも香奈と菜々美は「大丈夫だって」「告ってみないとわかんないじゃん」と言い募った。


「ね、遠子もそう思うでしょ?」


いきなり香奈が私に問いかけてきたから、どきりとして声をあげてしまった。


「だってほら、遠子がいちばん遥との仲、長いでしょ? 遥のことよく知ってるもんね」

「そうそう。遥なら告白しても絶対成功するよね」


私は微笑んで「うん」と笑った。


「遥は可愛いし、本当に性格もいいもん。きっと大丈夫だよ」


こういうとき、女子というのは難しいなと思う。

たぶん、二人とも本気で『絶対成功する』なんて思っていないはずだ。

だって、告白して成功するかどうかなんて、誰にも分からないんだから。


それでも女子は、『あなたなら大丈夫』と、無責任ともいえる励ましをするのだ。


私はそんな無責任なことは言いたくないと思っているけれど、この空気の中で『それは分からない』だなんて言う勇気はなかった。


でも、遥なら大丈夫、と思うのは本当だ。

だって、誰よりも私が知っているから。

遥が本当に素敵な女の子だということ。


明るくて、いつもにこにこしていて、優しくて、誰にでも平等に接する。

見た目だって、さらさらの髪に色白な小さい顔、華奢なスタイルで、笑うとえくぼができて最高に可愛い。


私が男の子だったら絶対に好きになる。


……でも。

私はそれをうまく言葉にできなかった。


遥が好きなのが彼ではなくて他の男の子だったら、きっと私はもっともっとたくさんの言葉をかけてあげられるのに。

今はどうしても、うまく声が出せない。


「……ごめん。私、そろそろ部活、行かないと」


そんなことを言えば白けてしまうのは分かっていたけれど、これ以上ここに平気な顔でいられる気がしなかった。


案の定、香奈が眉根をよせて唇を尖らせて「ええ?」と不満そうに言った。

菜々美も眉をあげて私を見たけれど、遥だけは「あ、そうだよね、付き合わせてごめん」と言った。

本当にいい子だな。


「教室、戻ろっか」

「いいよ、一人で戻るから。遥たちはここにいて。ごめんね、話の途中だったのに」

「ううん、あたしこそごめんね」

「じゃ、行くね」


遥がにっこりと笑って手を振ってくれた。

それに手を振り返し、香奈と菜々美にも手を振る。

菜々美は微笑んで軽く手を挙げて答えてくれたけれど、香奈は無表情だった。

黙って私をじっと見つめてくる。

綺麗にマスカラをつけて薄くアイシャドーも塗られた、大きな瞳。


居心地が悪くて、私は逃げるように階段へ向かった。


香奈に嫌われたかな、と不安になった。


ちらりと振り向いて、三人を見る。


綺麗にまとまった長い髪、短めのスカートから覗くほっそりと長い脚。

後ろ姿を見ただけで、可愛い女の子だというのが分かるから不思議だ。

私みたいな地味で平凡な女子とは全然違う。


そんな私が彼女たちと一緒にいるのは、遥が仲間に入れてくれたからに他ならない。


高校に入って、クラスのみんなは次々に自分と合う子をすぐに見極めてグループをつくっていった。

その中にうまく入れなかった私は、教室移動や昼休みに一人でいることになってしまった。


クラスで知っているのは、小学校から一緒だった遥だけだった。

でも、彼女と同じグループに入るなんてありえなかった。

遥はいつでもクラスの中心になるような明るくて活発な子だから。


それなのに、遥は私が一人でいるのに気づいて、すぐにグループに誘ってきたのだ。

たぶんクラスのみんなは、なんで私が女子の中心グループに入っているのか不思議に思っているだろう。


そしてそれはきっと香奈と菜々美も。

明らかに自分たちとはタイプの違う私と一緒に行動することに違和感を覚えていると思う。

でも、二人は特に何も言わずに普通に私と口をきいてくれている。

話が合わないと感じることはあったけど、ありがたいのは確かだった。


遥がいなければ、私はきっと高校でもまた一人ぼっちだったと思う。



































美術室は、あまり使われていない旧館の一階の端にある。


近づくにつれてひと気がなくなり、放課後の喧騒も、野球部の掛け声も、体育館のボールの音も遠ざかっていく。


静寂に包まれた旧館に入ると、いつもふっと肩の力が抜ける気がした。

学校の中で唯一、素のままの私でいられる場所だ。


美術室に入ると、三年の中原先輩、二年の深川先輩と三田先輩、一年の吉野さんがいた。


いつものメンバーだ。

美術部は、顧問の先生は経験がないので名前だけという感じで、部活を見に来ることはほとんどないので、部員もどんどん幽霊部員になっていって、今は五人しか活動していないのだ。


「望月さん、こんにちは」


黒板の前で本を読んでいた中原先輩だけが振り向いて声をかけてくれた。

これもいつものことだ。彼女はしっかり者の女の先輩で、部長をしている。

絵は描かずに本ばかり読んでいる不思議な人だ。

私は笑って「こんにちは」と返した。


いつものことながら、他の三人は無反応だ。


二年の深川先輩は男の先輩で、絵がものすごく上手いけれど、無口でいつも黙々と絵を描いているだけなので、話したことはほとんどない。

三田先輩は男の先輩で、すごく大人しい人。絵はあまり描かなくて、ほとんどずっとイヤホンをして音楽を聴くかゲームをしている。

吉野さんはうつむきがちであまり人と目を合わさないようにしているので、私も話しかけないようにしている。いつも漫画やイラストに没頭していた。


部員同士のつながりがほとんどない部活だけれど、それが逆に気を使わなくてすむので気楽だ。

だから、美術室はとても居心地がいい。


私はいつもの定位置の席に荷物を置き、棚に置いてあった描きかけのキャンバスと絵具の一式を机の上に持ってきた。


この席を選ぶ理由は、すぐ左に窓があって、外が見えるからだ。

正確には、旧館に隣接したグラウンドがすぐ側にあるから。


ここからなら、陸上部が練習している場所がはっきり見える。


私は椅子に座り、キャンバスを立てた。

パレットに絵の具をのせようとしたけれど、手が止まり、無意識に窓の外に目を向ける。


ほんの数メートル先に、棒高跳びのバーがあった。

そして、彼方くんが助走をしている。


どきりと胸が高鳴った。

また見てしまった、と頭では思ったけれど、私の目は言うことを聞いてくれない。

どうしても彼の姿を追ってしまう。


ここなら、大丈夫。


遥はここには来ないし、陸上部の活動場所からもきっとここは意識されないから、

ここから見ている分には、大丈夫。


そう自分を納得させて、私は結局、いつもここから彼の跳ぶ姿を見ていた。


窓の外を気にしながら、パレットに絵の具を絞り出していく。


今描いているのは静物画だ。

空の花瓶と、鍵つきの木箱と、鳥籠。


下地を塗って、鉛筆で下描きをしてあるので、今日から色を入れていく予定だった。


溶き油で絵の具を薄める。

それを筆にとって、淡い色を大きくざっくりとのせていく。


ある程度描いたら、乾かさなければならない。

キャンバスを風当たりのいい方向へ向けて、無意識に外を見た。


彼方くんが跳んでいた。

全身のばねをつかって空へ飛び上がると、ほっそりとした筋肉や筋が浮かび上がるのがここからでも見える。


無駄なものが何ひとつない、流線形を思わせる伸びやかな身体だった。

なんて綺麗なんだろう。


彼を見ていると、どうしても描きたくなってしまう。


私はスケッチブックを取り出し、ページをめくった。

彼方くんを見ながら、3Bの柔らかい鉛筆でデッサンをする。

大まかな輪郭を描き、それから影をつけていく。


夢中になって描いていて、気がつくと陽射しがオレンジ色を帯びる時間になっていた。


ゆっくりと視線を落とす。

スケッチブックの真っ白なページいっぱいに鉛筆で描かれた、軽やかに跳ぶ彼方くんの姿。


決して手の届かない人。

手を伸ばすことさえ許されない人。


近づくことすらできないから、私はこうやって、彼を描く。

描くことで満たされようとしている。


私が描いた彼方くんは、私だけのものだから。


ふ、と小さく息をはいて、私は練り消しゴムを手に取った。

たった今描いたばかりの彼を、丁寧に消していく。


実物ではない絵だとしても、彼を自分の手元に置くことはできない、自分の手に入れることはできないと思った。


もしも遥に見られたら。

この想いを知られたら。


考えただけて恐ろしい。


私は絶対に彼女を傷つけたくない。

だから、この想いは封印しなくちゃ。


でも、時々、想いが溢れ出してどうようもなくなることがある。

そういうときには、こうやって彼を描いて、束の間の満足を噛み締めて、そしてまた彼を消すのだ。


真っ白になるまで。

この想いが跡形もなく消えるまで。