青磁がため息をついて歩き出す。
私は後を追った。
そのゆっくりとした足取りから、別に私から離れようとしているわけではないと分かり、ほっとする。
回廊を巡って美術展の反対側まで来ると、青磁は『展望台』と書かれた自動ドアをくぐった。
ドアを抜けると、幅の広い真っ白な階段があって、上からは溢れんばかりの光が降り注いでいる。
青磁が階段を登りはじめた。
目映い光の中に、青磁の形の影ができる。
眩しさと、言葉にならない気持ちに目を細めながら、私も階段をのぼった。
半分くらいまできたところで、大きな窓と、その外に広がる優しい水色の空が見えた。
展望台は、硝子張りになったドーム天井の端から外が見られるように作られたものだった。
視界いっぱいに広がる大きな窓。
「……すごい眺めだね」
窓硝子に張りつき、息をつめて空を見つめながら言うと、青磁が「すげえだろ」と笑う。
「なんで青磁が自慢げなのよ」
「だって、俺が見つけて、俺がお前をここに連れてきたんだから、すごいのは俺だろ」
相変わらず自分勝手な論理だ。
でも、その身勝手さがあまりに懐かしくて、目頭が熱くなった。
今日は涙腺がおかしい。
少し心の動きで涙が滲んでしまう。
ぽろりとこぼれた涙が、頬を伝って、顎の先を濡らした。
マスクに遮られることなく。
視線を感じて目を向けると、青磁が微笑んで私を見ていた。
「マスク、やっと外せたな」
手が伸びてきて、髪に触れられる。
どきりとして硬直していると、
「偉かったな」
と柔らかい声がして、くしゃくしゃになるまで頭を撫でられた。
それだけで、震えるほどの怖さを押しきった勇気が報われた気がして、嬉しくなった。
ふ、と声が洩れる。
ぽろぽろと涙がこぼれた。
「ばーか。なにこんなことくらいで泣いてんだよ。ガキか」
ははっ、とおかしそうに青磁が笑う。
私は「うるさい」と言い返しながら涙をぬぐった。
青磁はくすくす笑いながら近くにあったベンチに腰かける。
左側を空けて。
隣に座ってもいいということだろうか。
どきどきしながら、彼の左に腰をおろした。
「それにしても」
青磁が頭の後ろで腕を組み、硝子越しの空を仰ぎながら唐突に言った。
「まさかお前が来てるとは思わなかった」
「……うん。風の噂で、大賞とったって聞いて」
里美さんから教えてもらったということは、いちおう黙っておこう。
「……絵、見たのか」
こくりと頷く。
なんと言えばいいのか分からなくて、思いついたまま、
「ありがとう」
と囁いた。
「すごく綺麗な絵だった。ありがとう」
ふん、と青磁が鼻を鳴らす。
どうやら照れているらしい。
「ねえ、あれは、いつの私?」
訊ねると、青磁が目を見開く。
「……え? いつって……」
「小学生の私だよね?」
青磁がぽかんと口を開いた。
「だって、高校生になってから、私、あんなふうに笑ったことない。でも、あれは私の本当の笑顔だって分かったよ。青磁は私の作り笑いじゃない顔を、本当の笑顔を見たことがあったんだね。小学生のころに」
「……お前、なんで、それを」
唖然としている青磁がおかしくて、笑いながら私は答える。
「お兄ちゃんがね、青磁のこと教えてくれたの。小学生のとき、サッカークラブで一緒だったって。私も会ったことあるはずだって」
「……まじか」
青磁がうめくように言って、頭を抱えた。
見ると、腕の隙間から覗く耳たぶが真っ赤に染まっている。
「なに照れてんの?」
「……いや、そりゃ、恥ずかしいだろ。ガキのころの茜の笑顔ずっと覚えてて、絵に描くとか……」
「そう? 私は嬉しいよ」
思ったままに答えると、青磁はばつの悪そうな顔で私を見た。
「……まあ、それならいいけど」
それからまた大きなため息をつく。
その横顔に「ねえ、青磁」と声をかけた。
「私、小学生のころのこと、覚えてないの。ごめん」
「あー、まあ、そうだろうな」
「だから、私たちがどうやって出会ったか、教えて?」
だ
い
す
き
*
青磁の話によると、私たちが初めて出会ったのは、小学三年生のときだった。
私がお母さんに連れられてお兄ちゃんの練習を見に来たときだ。
そのころの私はサッカーのルールも知らないし、見ていてもなにも分からないから、ただぼんやりとお兄ちゃんを目で追っていたと思う。
でもクラブの人たちは、物珍しくて私のことを見ていたらしい。
その中に青磁もいたのだ。
「茜ちゃんって言うんだって、お前と同い年だよ、とか言って、上の学年のやつに教えられたけど、俺はあの頃サッカーやるのが楽しくて仕方なかったから、どうでもいいやと思ってちゃんと顔も見てなかった」
いかにも青磁らしくて笑ってしまう。
「それにしても、どうでもいいはひどくない?」
「でも、お前もどうでもよさそうな顔してたぞ」
「う……まあ、そうかも。最初のころはサッカーなんて興味なかったし、早く帰りたいなーとか思ってた気がする」
「あー、そういう顔だった」
あの頃の私は、なんでも顔に出すタイプだったから、さぞつまらなそうな顔をしていたのだろう。
でも、何度か練習や試合を見に行くうちに、だんだんとルールが分かってきて、そうなると急にサッカーを見るのが楽しくなってきた。
試合のときには声をあげて応援して、負けたら悔しくて地団駄を踏むほどに熱中していた。
「最初はつまらなそうにしてたのにさ、お前、どんどんサッカーにはまっていって。練習で手抜いてるやつに駄目出ししたりとか、試合でも選手よりでかい声出したりとか、なんかうるさくてすげえ目立ってたから、いつの間にか顔、覚えたんだよ」
恥ずかしくて言葉が返せない。
昔の自分が出しゃばりだったことを痛感させられて、穴があったら入りたい気分になった。
「で、あるときさ、地元のクラブチームが集まって、親交試合みたいなのがあって」
青磁がそこまで言って、ふいに口を閉ざした。
「うん、で?」
先を促すように言うと、青磁はなぜか困ったような顔になり、それから、
「……やっぱ、この話はやめとこう」
と突然そっぽを向いた。
「は? なにそれ。気になるし。言いかけたんだから最後まで言ってよ」
「いや、たいした話じゃないから」
「それでもいいから、聞きたい」
青磁はやっぱり気乗りのしなさそうな顔をしている。
「今まで青磁と話せなかったから、たくさん話をしたいの。たくさん聞かせてほしいの」
私がじっと見つめながら言うと、彼は降参したように肩で息をした。
「お前、本当に覚えてないの? あの河川敷で、春に、サッカーの親交試合やったこと。お前も見に来てたんだよ」
春、河川敷、サッカーの試合、と聞いて、ふいに浮かんだ光景があった。
きらきら光る川の水面と、河川敷のサッカーゴールと、その脇にある満開の桜の木。
「あ……ちょっと思い出したかも」
私は土手の斜面の芝生に腰をおろして、試合を観戦していた。
「あのときの試合ってさ、地元のサッカー界を牛耳ってるお偉いさんが主催だったんだよ。元Jリーガーで、サッカー協会の役員だとかで、めちゃくちゃ有名で力のあるおっさん」
「へえ、そうなんだ」
「でもさ、そいつの息子が、すげえ問題児で」
その言葉にも、なにか引っ掛かりを感じた。
身体が大きくて、きつそうな目付きをした男の子の顔がふっと思い浮かぶ。
「俺らがそいつのチームと当たったときに、そいつはかなり上手くて負け知らずだったんだけど、俺らが調子よくて、先に点数入れちゃったんだよ」
青磁が懐かしげに目を細めて笑った。
「後半の半分くらいまできて、二対〇になった。そしたらそいつさ、完全に頭に血昇っちゃったみたいで。わざと足ひっかけて転ばせたり、服とか腕とかつかんで邪魔したり、しまいには体当たりまでしてきやがって」
「うわ……最低。そんなの反則でしょ」
「だろ? でもさ、そいつはお偉いさんの息子だから、審判やってるおっさんも、他のチームのコーチとか監督も、なんも言えないんだよな。黙って見てんの」
話を聞いているうちに、当時の私がどんな行動に出たか予想できてしまって、頬が紅潮してくるのを自覚した。
「そしたら、急に、茜がコートに乗り込んできたんだよ」
青磁が吹き出して、けらけらと笑い出した。
私は恥ずかしさに項垂れる。
「やっぱり、そうか……うん、思い出した」
そのときの光景が鮮やかに蘇ってくる。
試合の邪魔になるのも構わずに、小学五年生になったばかりの私はコートの中に突撃した。
目の前で傍若無人な振る舞いをするそいつを、どうしても許せなくて、怒りを抑えきれなくなってしまったのだ。
「あれはまじでびっくりしたよ。いきなり駆け込んできて、あいつに突進して胸ぐらつかんで、」
「『ふざけんな、いい加減にしろ馬鹿野郎!』でしょ……」
「そう、それ! あれは爽快だった」
青磁がお腹を抱えて笑っている。
私も恥ずかしさとおかしさで笑いが止まらなくなった。
私が無謀にもそいつに食ってかかったそのあとは、めちゃくちゃだった。
体重が私の倍くらいもありそうな大きいやつだったから、私が胸ぐらをつかんだくらいではびくともしなくて、逆に『なんだ? このチビ』と腕をひねりあげられてしまった。
それが痛くてむかついて、私は全力でそいつの脛を蹴り上げて、それがさらに相手の怒りに火をつけた。
そして、今度は殴られそうになって……。
そこまで思い出して、あ、と声をあげてしまった。
あのとき、殴られるのを覚悟して、私は頭を抱えて目をつむって備えた。
でも、なぜか衝撃は来なかった。
あいつが私を殴る前に、誰かがあいつを殴ったからだ。
驚いて目を開けた私の前で、細っこい男の子が暴れていた。
背も高くて体重もある相手に臆することなく、つかみかかって殴りかかり、逆に殴り返されても、まったく怯まずにまた挑んでいった、私と同い年の男の子。
きつく相手を睨みつける横顔は、とても気が強そうで、でも思いのほか綺麗に整っていて。
……あれは、青磁だった。
あのとき、私を助けてくれた男の子は、青磁だったんだ。
急に動悸が激しくなってくる。
隣にいる青磁を、なぜか直視できなくなってしまった。
そんな私の動揺には気づかず、青磁は話を続ける。
「俺があいつと喧嘩始めたらさ、なぜか茜まで入ってきて、むちゃくちゃだったよな。お前、あいつに髪の毛つかまれて泣き出すし」
そうだ。
二人の殴り合いを、青磁が殴られているのを黙って見ていられなくて、私はそいつに再びつかみかかった。
そしたら、三つ編みにしていた髪をつかまれて引っ張られて、驚きと痛みで泣いてしまったのだ。
「でもお前、泣きながらあいつのこと蹴ってたよな。こいつ強え! って俺まじでびっくりしたんだよ」
それは、青磁が私をかばってくれたからだ。
私の髪をつかんだ太い腕に青磁が噛みついて、そのせいでまた殴られそうになっているのを見て、自然と足が出ていた。